第1楽章[3節] 月の奏者
全員の視線が突如現れた男の方へ向けられている。妖艶に、そして魔性の魅力を放つその幻想的な姿に、誰もがその目を釘付けにされてしまう。皆が言葉を失い、呆気に取られている中、ナイフを持った男が問いかける。
「こんな夜分遅くに散歩かい?こんな所に人が来るなんてないはずなのだが…。いや、建前なんていらないか。」
男はそう言って、私に向けていたナイフを下ろす。先程までの静かな狂気とは違い、その者を訝しみ、警戒心を滲み出していた。得体の知れない何かを見るようで、しかしその裏に確かな好奇心が感じ取れる。
「誰だあなたは?ここは近くの村からでも歩いても半日はかかるはずだ。この森に人がいるという話も聞いたことがない。」
まるで確認を促すかのように視線を送る。それは獣のように鋭くもみえ、どこまでも澄んだ子供の瞳のようにも見える。
「………。」
美麗な男はその問いに答える意思はないようだ。ただ静かに、森の景色に混じり一体化するかのように口を閉ざしている。止まることなく、ゆっくりとこちらに歩を進め、変わらぬ表情からはその思考は読み取れない。どうやら、対話を行う気はないらしい。
「答えるつもりは……ないか…。ふふ、まあいいか。目撃者を生かす義理もないし。聞いたところで意味もないだろうしな。早く終わらせるか。」
それは呆れか残念か。美麗な男に向けていた警戒心も解き、一途に任務を遂行しようとしている。またも不気味な笑みを浮かべ、その手にあるナイフを向ける。掲げられたナイフに滴る血がドス黒い微光を放ち、ぽとぽとと地に落ちる。男の不気味さと赤いナイフの悍ましさが言葉にできない気味悪さをを引き起こし、強い寒気を覚えてしまう。
「…………。いや、やっぱりやめようか。」
一体何を思ったのか、男はそんなことを口にした。
「あなたのことはとても興味があるからな。ただ、今は口を割る気はなさそうだし、帰らせてもらうよ。次、来る時があればその時は答えてくれよ?ふふふ……。」
ニヤッと、男は笑ってみせた後、くるりと踵を返して馬車へと向かっていった。先程までの虐殺はなんだったのか。私にはもう目がないようで、男にとっては空気と化していたのだろう。何事もなかったかのように帰るその背には悪魔が宿っているように見えた。奴には生き物を殺めることへの抵抗感も罪悪感もないのだろうかと考えずにはいられない。無造作に転がっている死体を見ながら、ふとそう思う。
…………。
周囲に張り詰めた空気はいつの間にか霧散して消えていた。静寂を取り戻した森には、馬車が鳴らす軽い音が響き、鼻腔を激しく刺激する生臭い鉄の匂いが散在している。突然の急激な出来事に体の力がふっと抜ける。そのせいか、未だに身体が強張って全身がうまく言うことをきいてくれない。それでも、空気の重圧に推し潰されそうだった体も、今は異様に軽く感じられる。
「大丈夫か?」
ひどく疲弊した心に一つの声が届く。気づけば、あの美青年が私の前で膝をつき、顔をのぞいている。優しく微笑み、見惚れてしまうほど美しものだった。夜空の銀光が微かに逆光を作り出し、彼から後光が差しているように見えた。思いがけないことに戸惑って、その問いに答えられずにいると、
「私の名前はエルというんだ。自分の名前…、言えるか?」
「………。」
私の様子から何かを察したのか、
「今は休むといい。きっと、私では想像もできないことを体験してきたのだろ。大丈夫だ。もう、大丈夫だよ。」
エルという男は機転を利かせ、慰めの言葉をかけてくれた。優しくて甘くて、身体も心も抱擁してくれるようで安らいでしまう。彼はどこまでも閑麗で、記憶にある何よりも美しく輝いていた。それは、私が世界の美を知らないだけなのかも知れない。それでも、この感想が確かであると思ってしまうほどにはこの世界にはふさわしくない。
エルの目的は何か、その思考も、なぜ私を助けてくれたのか、何もわからない。得体の知れない何か、そう表現するのが妥当だろうか。だけど、不思議と怖くはない。理屈や感情はそこにはなく、直感的にそう感じる。
「………、これ以上の心配は必要ないかな。気が落ち着いたら、また話をさせてくれ。私は少し用事を終わらせてくるよ。」
エルはそれ以上は何も語らず、ゆっくりと後ろの方へと歩き出した。その先には無様にも放置された獣人たちの死体がある。森に異臭を放つその原因は、時間が経っても血の匂いを鼻にこびりつかす。とても目を向けられない惨劇が先程の光景をフラッシュバックさせ、僅かな吐き気を湧き上がらせる。この末路を哀れと言うべきか。獣人に生まれたというだけでいかなる選択をも人間に縛られる。心も身体も、この世に存在した瞬間に人という尊厳を奪われてしまう。そこに明確な論理などない。人間とは違う容姿、人間よりも人数が少なく大した文明もなかった。ただそれだけでも、人間が獣人を差別するには充分な理由なのだろう。これが世界の理か、世間の不条理か。その立場である私も例外なく、その理不尽を体に刻み込まれてきた。
彼はどう思っているだろうか。エルは倒れている獣人に立ち寄り、ただ黙々と見つめている。静かに、そう、静かに………。
「え………。いま…………どこから……。」
見えなかった。今、一体何が起きたのか。ただ、確かにわかることは、魔法の如く現れたそれがエルの左脇に抱えてられていることだ。音もなく現れたそのライアーは、月明かりを反射して星空のように輝いている。男がゆっくりと弦に手をかける。それは優しく弦撫でるように、最初の一音を発していく。
「…………!?……………」
その時世界が一変した。これは比喩でも何でもない。信じがたい事実がここにある。さっきまで私がいた森ではないどこか。煌めく星々が無数に浮かぶ夜空。その中心には、目を見張るほどに美しい銀色を放つ巨大の満月が。地上に目を向ければ、どこまでも限りなく続く緑の草原に1人の奏者がいた。ライアーを弾くエルから、安寧の地を想像させるような旋律が耳に届く。甘く優しく、そしてどこか優雅でありながら切ない曲。頬を掠める穏やかな風が、生い茂った草を、彼のしなびやかに流れる長髪を、舞わせるかのように微かに揺らす。月と星が照らす美の大地。僅かな風と広大な緑。その全てが彼の演奏会場として成り立って、耳も目も、五感がこの聖地たる場に魅了されてしまう。本当にこれが自然の成した景色なのならば、幻想的では済まされない神秘の世界だ。
私の中に困惑と安らぎの気持ちが入り混じる。何がなんなのか、何をすればいいのか。そんな呆けている私に、穏やかなメロディとともに綺麗な声が届く。
「ここは現世と常世の堺。言い換えれば、現世に留まった死者の魂を常世に送るための世界。いかなる生き物も森羅万象であり、自然に生まれ、自然と育ち、自然に還る。万物は回帰し、永遠に循環を繰り返す。これを止めてはならない。万物流転、その役目を担うのが私なんだ。」
エルは変わらずその美声で言葉を紡ぐ。
「現世の生物に、こんな大それことをすることは普通ならば叶わないことだろう。この世にいる精霊の力を借りなければね。」
その時、エルの周囲に光の粒子が飛び交う。よく目を凝らすと、その光は草原に埋もれた獣人から放たれていた。でも、それだけではない。地面から、あるいは空中から無数の輝く粒子が舞っていた。空ではなく、宙に浮かぶ星。ここは夜だというのに目が眩むほど眩しい。
「精霊はこの狭間に存在し、現世にもその姿を現す。私はこの力を扱い、責務を全うする。」
光の粒子は瞬く間にエルの周囲に集中し、いつしか、空に届きそうな螺旋を形成していた。
「かつて、私のような者が他に六人いた。それぞれがそれぞれの大霊の力を受け、自然の流転を守るために一人一人がその責任を果たす。それが自身の望みだった者も、そうでなかった者もいたよ。彼らは皆、この託された使命の意味を求めていた。最も、その答えを見つける前に他の者は朽ちてしまったけれどね……。」
空に登るようにできた光の螺旋が、果てしない星空の彼方へと吸われていく。綺麗とも、儚くとも見えるのは彼の言葉のせいだろうか。
「だけど、大霊は私たちに力を渡す時に一つの名を授かる。そこに込められた意が決められた役目であり、生きる意味となる。」
光が飲み込まれていく。それはまるで流星群のようで、演奏のラストスパートを作り出している。曲の終わりが近づき、薄くなった光の螺旋の中からエルの姿が見えてきた。
「私の名はエル。現世と常世の
気づけば、彼を取り巻く光はどこにもなかった。演奏も終え、幻想的な地の中に静寂が取り囲む。不思議なんて程度ではおさめられないほどの体験。これはすごくリアルな夢なのではないか。そう説明しなければ話にならない。それでも、ここが現実であることは目の前の人が証明してくれる。その者は私の方に振り返り、先程のことをもう一度聞いてきた。
「君、名前は?」
「わ、…………わたしの……………なまえは…………。」
喉が詰まったように苦しくて、うまく言葉を発せない。だけど、ここでクヨクヨしているわけにはいかないから。エルのことはまだわからないけど、この人なら私を受け入れてくれる。そう思うと、私の口は一人でに動いていた。
「…………ーネ。……ファーネ。私の名はファーネ!」
「ファーネ……か。いい名前だ」
エルは私に手を差し伸べ、どこまでも優しく笑っていた。
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