雪はオレに溶ける

@MeiBen

雪はオレに溶ける

 満月の夜、オレは病院を抜け出す準備をしていた。

この日のために貯めていたロキソニンを掌に広げ一気に飲み込む。余った薬はコートのポケットに突っ込んだ。

 ベッド下に隠した箱から栄養ドリンクを3本取り出して一気に飲み干す。

 ポカリスエットと木炭が入ったカバンを背負いオレは病室を抜ける。

 同じ病室にいた男の子は先月に退院し、この部屋の住人は今やオレだけ。そして、そのオレも今日でいなくなる。

 こんなにもワクワクするのはいつぶりだろうか。まだロキソニンは効いていないはずなのに、体の痛みは小さい。

 看護師に見つからないように慎重に廊下を歩き、階段で一階に降りて、従業員用の出入り口を開く。

 ドアを開いてすぐに一面の雪が現れる。天気予報通り今日は大雪。あたり一面に雪が積もっていた。そして雪はまだしんしんと降り続けている。

 いい夜だ。最高の夜だ。今日しかない。

 今日、オレは死ぬ。

 オレはドアを抜けて、外に歩みだす。

 目指す場所は決まっている。病院の裏にある山の山頂。そこにある神社だ。


 雪道を踏みしめてオレは歩く。すぐに山道の入り口に着いた。ここからが大変だ。何度も登った道だけど、健康だった頃でも一時間はかかった。今のオレの体だと倍はかかるだろう。それに今日は大雪。倍でも足りないかもしれない。途中で力尽きる可能性もある。でも、それでもいい。それも悪くない。

 オレは途中に自販機で買った缶コーヒーを勢いよく飲み干す。最後の缶コーヒー。ずいぶんと世話になった。酒の世話になる人が多いのかもしれないけれど、オレの場合は缶コーヒーだった。上手いと思ったことはないけれど、それでも好きだった。甘ったるくて、それでいて暖かくて、優しかった。でも、今日でお別れだ。


 山道の入り口にある鳥居を目の前にする。何度も登った山だ。夜にも登ったことはある。でも独りで登るのは初めてだ。いつもふゆと登っていた。ふゆってのはオレの飼っていた犬の名前だ。冬に飼い始めたからふゆだ。我ながら適当な名前だ。ゴールデンレトリバーという犬種で図体のでかい奴だった。でも3年前に死んだ。その後すぐオレは入院することになった。


 月明りのおかげで道はよく見える。でもやっぱりすごく怖い。腹の底から行くなという声が聞こえてくる。前はのんきな顔をしたふゆが傍にいたけど、今は独りだ。

 いつも思う。いつも思っていたことだ。孤独な人間は強くなくてはいけない。強くないといけない。強くないと生きることも死ぬこともできない。

 オレは独りだ。オレが生きていようと死んでいようと、世界は何も変わらない。

オレは独りだ。オレは今日、独りで死ぬ。独りで死ぬことを選ぶ。

 オレは独りだ。オレはこの山を登り切って山頂の神社で死ぬ。

 オレは独りだ。


 背中にたくさんの手が現れて、そいつらがオレを押す。漫画やドラマなら仲間や家族の手だろう。でもオレの手は違う。その手は今までに死んできたオレの手だ。何度も死のうとして死ねなかったオレの手だ。あの時、会社の屋上から飛び降りようとしたオレの手だ。あの時、海に身を投げようとしたオレの手だ。あの時、ロープに首をかけようとしたオレの手だ。オレの手だ。オレの後悔。そいつらがいま、オレの背中を押してくれる。行けと言ってくれる。前に進めと言ってくれる。

 オレは鳥居をくぐって歩みだす。

 真っ白な雪を踏みしめてオレは山頂を目指す。

 ようやく薬が効いてきたらしく、体が軽くなってきた。


 真っ平らに見える雪だが、うっすらと二本のへこみが見える。誰かの足跡だ。オレの前に誰かが登ったんだ。ほとんど雪で埋もれているけど、でも月明りに照らされて、二本の筋をつくっている。オレはその筋を辿って歩く。これから死のうという奴が、生者の道を辿って歩く。

 滑稽なもんだ。

 でも、やがてその筋は途絶えた。目の前には倒木がある。乗り越えられないほどの大きさではないが、足跡の主はここで引き返したらしい。

 生者はここで引き返し、死にゆくオレはこの先へ進む。

 つまりはここが、この倒木が生者と死者の分岐線になっているのか。三途の川というのがあるが、三途の倒木か。オレはふっと笑う。その瞬間にピューイという鳴き声が聞こえる。鹿の鳴き声だ。山頂の方から響く。そこでオレは気付いた。

 そうだ。これはそんな大層なもんじゃない。これが生と死の境界なら、あの鹿はどうだ。この倒木はさしずめ、人間社会で生きることの境界だ。オレが上司に辞表を渡した時。あの日、オレは会社で働くことの境界をまたいだ。その後も色んな境界をまたいできた。そして今日、オレは生と死の境界をまたごうとしている。でも、ここはまだそこではない。オレは今まで病院にいた。病院で治療を受けてきた。社会の中で生きてきた。生かされてきた。

 その境界をオレは乗り越える。倒木によじ登り、オレは向こう側にわたった。

 二本の筋は消え、真っ平らな美しい雪の平面がそこに現れる。

 美しい。

 オレはその美しさを壊し、前へと進む。


 オレは歩きながら何度も来た道を振り返る。来た道にはオレの歩いた跡がくっきりと残っている。どうしてか、それが嬉しくてたまらなかった。自分の足跡が残っていることが嬉しかった。そんなこと、これまでの人生の中でほとんど無かったと思う。美しかった雪の平面にくっきりと残るオレの足跡。それはオレという実存の証明だ。

 何度も何度も立ち止まりオレは振り返る。ガキみたいに嬉々として自分の足跡を見つめる。そしてまた歩みを進める。


 頂上が近づいてきた。

 心臓が、肺が、全身が信号を鳴らす。オレは生きていると。オレは存在していると。大音量でオレに知らせる。

 なんだよ、今更になって

 死のうとしてたじゃねえか

 生きるのを止めようとしてたんじゃねえか

 それなのに

 今更どうした?

 最後の日を祝福しているのか?

 それとも殺すなと言っているのか?

 でも

 もう止まらない


 オレの足は体中からエネルギーを搾り取ってオレを、オレという存在を前へと動かす。


 最後の鳥居をくぐり、開けた場所に着く。真ん前に神社があって、右手に小屋がある。小屋と言っても扉もなく、風もほとんど吹き抜けだ。たぶん参拝者が休むための休憩場所みたいなもんだ。

 月夜に照らされた境内は神々しさを放っていた。もし神と名乗る何かが現れてもオレは驚かなかっただろう。ここになら何が居てもおかしくない。そう思わせる雰囲気があった。

 オレは小屋の中に入り、設置されているベンチに腰掛ける。そして息を整える。天井には様々な絵が飾られている。神話の物語を描いた絵だろう。でもオレはそういうものには興味がわかなかった。

 息が整ってくると、体を寒さが侵食し始める。オレはカバンから炭と着火剤を取り出し、地面に設置し、火をつけた。

 着火剤の火がゆらゆらと燃え、やがて炭に燃え移る。火の暖かさがオレの体の寒さを和らげていく。

 オレは焚火の火が消えないように炭を追加する。

 でも追加しすぎてはいけない。

 眠りにつくまでの間で十分だ。それで十分。それ以上はいらない。

 安らかに眠りについた後で消えるように。

 そうなるようにオレは炭の量を調節する。


 さあ、ようやくこの時がきた。

 オレは小屋の外を見る。

 雪がしんしんと降り続けている。

 辺りは無音だ。

 炭がパチパチと燃える音。

 オレの口が息を吐く音。

 それ以外、何も聞こえない。


 疲れた

 すごくつかれた

 もうねむたくてしょうがない

 でもようやくだ

 この映画のラスト

 感動のフィナーレだ

 でもフィナーレだってのに

 ダメだ

 何もない

 何も起こらない

 心に響くのは自分の言葉だけ

 いつもと何も変わらない

 こんなにも特別な日なのに

 こんなにも特別にしようとしたのに

 いつもと変わらない

 なんだ?

 なにがあると思っていた?

 オレはこの瞬間に何が起こると思っていた?

 答え合わせだ

 人生の答え合わせ

 オレがこう生きてきたっていうオレの答案用紙があって

 そいつを採点しに天使が降りてくる

 天使は答えを書いた分厚い紙を持っていて

 オレの前でそいつを読み上げていくんだ

 この時はこうしておくべきだった

 あの時はああしておくべきだった

 そんな感じで、ダメ出しをされる

 ああそうか

 そうしておけばよかったんだって

 分かるんだ

 はは

 そんなわけもねえか

 はは

 仕方ねえよな

 また間違ったってことだ

 なあ

 オレはどうしたら良かったんだろう

 父と母の墓に行って許しを請うべきだったのか?

 有紀に会いに行けばよかったのか?

 そんで、オレはまだお前を愛してるっていえばよかったのか

 相田に正直に言えばよかったか?

 久しぶりに話したいと

 昔みたいにバカ話がしたいって言えばよかったのか

 なあ

 オレは

 どう

 どうやって

 オレは

 

 心の中の声すらも止まる

 それなのにオレの眼からは涙があふれ続ける

 次第に呼吸が浅くなるのを感じる

 体が停止していくのが分かる

 




 結局オレは何も分からずじまいだ。


















 暖かさだ














 暖かさがあった

 あいつが胸の中にいるみたいな

 オレの胸の中にふゆがいた頃みたいな

 暖かさ

 これが答えなのだろうか?

 これがオレの求めたものの答えなのか?

 溢れんばかりの賞賛ではなく

 偉大な発明ではなく

 神秘的な法則ではなく

 ドラマチックな愛ではなく

 卓越した技術ではなく

 美女とのセックスではなく

 あり余る財産ではなく

 オレが求めたのは単なるあたたかさだったのか

 これがおれにあたえられたこたえ

 おれがさがしもとめたこたえ

 あっけないもんだ

 とるにたりないもんだ

 くだらないもんだ

 どうでもいいもんだ

 でも

 ふにおちる

 そう

 ふにおちる

 おれがもとめていたものが

 これだというなら

 ふにおちる

 ああ

 そうか

 そうだったのか

















 ねっとりとした感触をオレの頬が感じる。何かがオレの顔を舐めているとオレにそう伝えている。

 でもそれが何かは分からない。オレは闇の中にいる。また何かがオレの顔を舐める。次は鼻が匂いを感じとる。あいつとよく似た匂い。でもあいつよりもっと臭い。次は耳が感じとる。オレのうめき声だった。オレは右手を上げようとする。でも上がらない。ずっしりとした重みを感じる。オレはまぶたにぎゅっと力を入れる。凍りついたまぶたがパキパキと音を立てる。オレはまぶたを開き、オレの顔を舐める奴の正体を見つける。


 タヌキだった。


 タヌキの家族がオレの体を暖めていた。いや、正確に言うならオレの体で暖をとっていたのだろう。

オレが顔を起こすと、彼らは驚き一目散に逃げていった。オレは茫然とただ彼らの後ろ姿を見送る。

 熱源がなくなったことで体が寒さを思い出し震え始めた。焚火の火はオレの調整通り消えていた。オレはのろのろと立ち上がり、余っていた炭と着火剤を追加し、ライターで火をつけた。火はダラダラと燃え始め、小屋の中に暖かさが満ちていく。

 次第にぼうっとしていた頭が思考を取り戻し始める。どうやら死ねなかったらしい。改めて小屋の外を見る。雪は止み、太陽の日差しが積もった雪を溶かし始めていた。オレは自分がつけたはずの足跡を思い起こす。あれらもじきに消えていく。道中で何度も振り返り、オレの実存の証だと嬉々として眺めていたあの足跡もじきに消えていく。

 空はどんどんと青さを取り戻していく。鳥たちが羽ばたき騒ぎ始める。

 生命が満ちていく。いや違う。元々ここは生命に満ちた場所だ。その生命の一部がオレを生きながらえさせた。オレを死なせなかった。

 神様ってやつの意思か?オレに生きろと言っているのか?

 そんなはずがない。たまたまだ。暖かさ。お互いに暖かさを求めていた。オレもあいつらも暖かさを求めていた。だから惹きつけあった。それだけだ。宇宙空間ですれ違う小星たちがお互いの重力に捕らわれ、やがて同じ軌道を回り始めるように。


 惑星

 暖かさを求めて彷徨う惑星


終わり

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