愛妻白書。

カトラス

第1話 プロローグ

 大安吉日の午前11時。

ホテルに設けられたチャペルの入口で純白のウエディングドレスを纏った新婦と新しい門出の始まりとなる扉が開くのを待つ。

 まるで時間が止まったかのような静寂の中、自然と花嫁の顔を見た。ブーケ越しに映った彼女の表情は付き合っている時には見たこともないほどに凛としていて美しい。


「綺麗だよ」と声をかけると照れくさそうに笑みをうかべると新婦の頬が赤らんだ。あぁ、このまま永遠に時が止まればいいのにと思った瞬間。ゆっくりと扉が開かれた。

 門出を祝う参列者の拍手と喝采。大音量の結婚行進曲が流れるヴァージンロードを右足を出して左足を揃えながら一歩ずつ神父のいる十字架が飾ってある祭壇を目指す。

 緊張をほぐす為に小声で「右、揃えて、左」とヴァージンロードの歩き方を復唱しながら歩を進めた。

  そんな私の様子を見て、新婦は「もう、馬鹿なんだから」と呟いた。


しかし、そんな新婦の組んだ細い腕は震えていて可愛かった。


  祭壇につくと、オルガンの音色と共に参列者が讃美歌を斉唱してくれ、神父は聖書を持って愛の教えを説いてくれた。そして、誓いの儀式。

 

神父が私に問うてくる。


「あなたは、その健やかな時も、病める時も、常にこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、これを守り、その命の限り、固く節操を守ることを誓いますか?」


 カトリックでもプロテスタントでもない無宗教の私だったが、この厳粛なムードと新婦の新郎を見つめる眼差しの前では、もはや問題ではなかった。




「誓います」


そして、神父は同じ事を花嫁にも聞く。


「誓います」


 所詮はイベントといったらそれまでだが、私は新婦の返事を聞いて身が引き締まる思いがした。


  なぜなら、彼女は私という男性に運命を任せてくれたからだ。


 人には持って生まれた器というものがあるかもしれないが、私という男性を選んでくれた新婦に対して、精一杯努力して幸せにしてやらないと失礼だと思ったからだった。だから私は「その健やかな時も、病める時も、常にこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、これを守り、その命の限り、固く節操を守ることを」誓う。


 この気持ちはきっと新婦も同じに決まっているから。


 そして、あれから十五年の月日が経った……。


『結婚15年目・春』


 日曜日の昼下がり、自室でごろ寝しながらテレビの競馬中継を見る。休みの日に煩わしい事などを考えずにぼっと寝そべって優駿達の走りを見るのが大好きだ。

 ここにビールとつまみなんかがあると慎ましくも至福の時になるのだと考えていたら、腰辺りにズシッとした重みを感じた。

 テレビ画面に注視していた視線を重みを感じた腰に目をやると妻が腰にどっこらしょとばかりに三角座りしている。

 よく諺でかかあ天下を例えて亭主を尻にしくっていうが、時折このような状態になってる自分の事を鑑みると、なるほど言葉の語源というものは理にかなっているとつくづく思ってしまうものだ。

  実際のところ妻に尻を置かれている物理的状況だけでなく、生活の中でも妻に全くといっていいほど頭が上がらない自分がいるから致し方ないといったところ。


「ねぇ、ブヒムヒ。馬券買ったの?」


  妻がブヒムヒと言ったのは私の事で 、なんでも携帯ゲームで育成している豚に似ていることから最近つけられた呼び名だった。

「お前も分かってる事聞くなよ! 見てるだけだよ。競馬して遊べるだけ小遣いもらってないだろうに……」

 妻にそう言ってからしまったと思った。

  予想通り、途端に頭部に痛みを覚えた。その痛さの原因は妻が私の髪の毛を馬乗りで鷲掴みにして引っ張っているからだった。


 妻はドスの利いた声を上げて「お前って呼ぶなって言ってるだろう」と怒っている。

  そう、我が家では言ってはいけない言葉があって「お前」と妻の事を呼ぶのは御法度なのだ。なんでも妻が言うには「お前」ってのは喧嘩するときの言葉で相手を罵る時に使うものだそうだからだ。

 個人的には妻の事をそのように呼ぶのは昔ながらの古風な感じがして決して悪いものじゃない。

 もっと言うと粋で風流じゃないかとさえ思っているものだから、我が家では御法度な呼び方をついしてしまうのだった。

 

「おい、痛いよ。いい加減やめてくれ。そんなに強くすると髪の毛が抜けるだろ」


 悲鳴にも似た私の懇願に対して妻はその行為をやめようとしない。


「言うことあるでしょ」


「だから、お前のどこが悪いんだよ。時代劇とかじゃ旦那がそう言うじゃないかよ」


 無駄だとは思うが、この期に及んで自分の意見を言ってみる。

「まだ、そんな事言ってる。うちがその呼び方嫌いなの知ってるのに言うあんたが悪い。だから謝るまでやめないよ。髪の毛抜いてやるぅ」


 そうして私は「ごめん、ごめん悪かったよ。もう言わないから許してください」と暴力に屈するのである。

「分かればよろしい」

  ようやく私から詫びを得た妻は痛い事をするのをやめた。


 しかし、いつから私と妻の力関係はこうなってしまったのだろうか?


  結婚して15年経つがこのような憂き目に合うと、妻に頭が上がらなくなった分岐点を考えることがある。

  思うに結婚した当初はこうでなかった。昔は旦那思いの優しい妻だったはずで、亭主の髪の毛をつかむなんて想像もつかないからだ。

 やはり一番は妻が長男を出産してからのような気がしないでもない。

  出産を契機に女性の性格や体型が一変すると言う事は世間ではよくある話。

  我が妻もそれに当てはまったって事なのかな。妻の場合は、まず体型が劇的に変化を遂げた。

  元々、食べるのが大好きで太りやすい体質だったみたいだが、妊娠した妻は「お腹の赤ちゃんが欲しがるのよ」と言って尋常じゃないぐらいに一日に何食も食事を摂っていた。

  テレビドラマのワンシーンなんかでよく見聞きする光景だから、こんなものだと思って黙認していたら妻の身体は縦にも横にも広がっていった。

 そして出産後、縦は少し引っ込んだものの横の広がりは戻ることはなかった。




つまり、体型が一周りもふた周りもでかくなったのだ。身体が大きくなると必然的に腕力も上がるってのは道理ってものである。

 ましてや子育ては意外と女性にとっては力仕事な事が多い。特に長男は私が甘やかしたものだから抱き癖がついてしまい、ことあるごとに抱っこやおんぶをせがむ息子になった。

  私は仕事で日中に息子の相手をすることは無かったが妻はそうではない。

  一日中、息子に抱っこをせまられたであろう妻は強制筋トレをしているようなものであったに違いなかったはずだ。

 そうして抱き癖がおさまった頃には妻の身体は重量上げのアスリートのようになったのだ。

  そして、ほどなくして長女を出産した妻に、もはや腕力で勝る家族はいなくなったわけである。男勝りの腕力は性格も変えていく。妻は子育てのストレスもあってからか、次第に私に対する小言や文句が多くなり……。


 他にも、出産後に妻の実家に住むというマスオさん状態になった事や、私のちゃらんぽらんな言動や性格も手伝ったたりといろいろな要因があるわけなのだが……。

 いやはや考え出すときりがないのでやめておこう。考えたところで現状が変わるわけでもないので諦めるしかないと私はフッとため息をついて過去を振り返るのをやめた。


「ところで何しにきたんだよ」

  少々荒いスキンシップが終わって一息ついた私は、妻に自室にきた理由を聞いてみた。それは、往々にして妻が自室に来る時は、文句か頼み事をするのが多いからだ。

「あ、そうだ。そろそろ出掛ける準備してよね」


「出掛ける? ってどこ行くの?」

 私の返答に対して妻の表情が少し歪んだように見えた。


「はぁ。もうこの頭は忘れたんでちゅか」


 妻は人指し指で私のこめかみを軽くこつくと、小馬鹿にしたような赤ちゃん言葉で聞いてきた。

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