4.雨夜の常連達
その夜、惣次は雨夜にいた。
店には店主のあんず、出入口に近い席には何人かの常連の姿がある。
日々の顔触れは大方似通っていた。変わったとしてもその常連の連れがいるような案配だった。しかしこの寂れた通りにある飲み屋の状況としては、こんなものなのかもしれなかった。
古着屋の箕輪は今日も当然のようにいる。他には『ミュージックプラザ・アオタ』というレコード屋を営む中年男
年中景気のいい話をしない箕輪と青田は、本日もやはり景気のよくない話をしていた。いつも静かに酒を飲んでいるリリオは二人の会話に口を挟むでもなく、黙って彼らの話に耳を傾けていた。
箕輪と青田、そして自分は、それぞれ売れない服屋としょぼくれたレコード屋と、しがない便利屋だと惣次は認識しているが、みどりのヘアサロン『グリーン』やリリオの店『デリア』はそこそこ繁盛していた。
この一帯は数十年前にはそれなりに活気のあった地域だったが、現在その活気は駅前の方にごっそり移動してしまった。停滞した雰囲気は確かに常態化しているが、この先にある饅頭屋『椿堂』のような老舗や、みどりやリリオのように家賃が下がったことで新規に開業した店は、この寂れた通りの中でもそれなりに活気を維持していた。
「あー、オレもタトゥー入れようかなぁ」
三つ隣の席でビールを飲んでいた箕輪が思い立ったように呟いた。
「タトゥー? いやー、僕は怖くてできないなぁ」
その呟きには、隣で同じくビールを飲んでいた青田が答える。
この二人は歳も見た目も全く違うが、行動や言動が何か似通っている。箕輪は単なる話の種なのか本当に検討中なのか、青田の返答を受け取った後、今度は明らかに質問先を限定して問いかけた。
「ねぇ、どう思いますかね? リリオさん」
タトゥーだらけの色黒の肌に長髪、見た目はどうにも近寄りがたい雰囲気だが実際は寡黙で物静かなリリオは、箕輪と青田に同時に顔を覗き込まれて困っている。暫し続いた沈黙の後、手にしたロックグラスをカウンターに置くと少しの笑みを見せた。
「……選択はそれぞれの自由だけど、満足も後悔もその人のものだから……じっくり納得できるまで考えて決めるといいと思う……」
そう静かに呟いて、寡黙な彫り師は再度グラスを手に取った。
「ねぇ惣次、最近何かあった?」
彼らのやり取りを遠目で見ていた惣次の耳にその声が届いた。依然会話続行中の常連仲間達から視線を逸らし、惣次はカウンター越しの店主に向き直った。
「いきなり何かあったかって、随分藪から棒だな、あんず」
「だってちょっと思い悩んだ顔してるよ」
「そうかぁ?」
「でも最近と言わず限定して言えば、何かがあったとしたらそれは昨日ぐらいってとこかな?」
あんずはそのように続けると「少しもらうね」と言って、カウンターのボトルから自分のグラスに琥珀色の液体を注いだ。
その姿を目に映して惣次は苦笑を零した。
適当な言葉で躱そうとしたが、長年の友人は既に何かに気づいているようだった。しかし訊かれたくないという顔をすれば、彼は深く問い質したりしない。長く友人関係を続けられているのはそのせいもある。
ただ向こうの方はプライベートを常に匂わせず、それに少し距離を感じないでもない。彼なりの思いがあってそうしているのだと分かってはいるが、自分はそれに反して常にだだ漏れである。そんなどうしようもなくだだ漏れな自分には再度の笑いを零すしかなく、惣次はもう一度相手に向き直ると手にしたグラスを傾けた。
「いや、本当に何もない、少し昔のことを思い出しただけだよ」
「昔?」
「中学の時」
「へぇ、じゃ僕と知り合う前だね」
「その頃はやってることが大概滅茶苦茶だった」
「そう? 高校の時もそうだったよ」
「ガキな分、その時よりも馬鹿だった」
「ふーん……でも誰にだってそういう時はあると思うよ」
「誰にも? お前にもか?」
「んー、どうかな……? 馬鹿っていうより足踏みしてたって感じかな?」
「足踏み? じゃ、今は?」
「今?……なんでそんなこと訊くの?」
「なんとなく」
「さぁ? 知らないよ」
「へぇ、俺には訊くけど、自分のことは誤魔化すんだな」
「何それ? 惣次だって自分の都合の悪いことは全部誤魔化してる。僕だけ駄目な訳じゃない」
友人はその言葉を最後にグラスを手に箕輪達の方へ行ってしまった。
今の会話を省みれば、どうでもいいことでどうにも機嫌を損ねてしまったと過ぎるが、たぶん非は繊細さと思慮に欠けるこちら側にあるのだろうと惣次は思う。再び一人でグラスを傾けていると、小皿を手にした彼が戻ってきた。
「はいこれ、食べなよ。僕の奢り」
目の前にはその言葉と自家製スモークサーモンの載った皿が置かれた。
見上げた表情はやや硬いが先程のような険はもうなく、軽い溜息と溜息のような言葉が漏らされた。
「あのさ、なんだかさっきの痴話喧嘩みたかった。
「別にいいんじゃねーの、痴話喧嘩でも」
「そういうのはさ、僕とじゃなく別の人とやってよ。惣次とじゃ面倒臭すぎる」
「冷たいんだな」
「惣次ほどじゃないよ」
そう告げるあんずの顔には昔見た蠱惑的な笑みが浮かんでいる。思い出さない方がいいことまで思い出しそうになって、惣次は手にしたグラスの酒を一気に喉に流し込んだ。
その後、焼きそばが食べたいという箕輪のリクエストに応えて、あんずは奥の厨房で調理を始めた。しばらくするとソースのいい香りが漂ってくる。惣次は席を立つと「今日はもう帰るよ」と奥と常連仲間に声をかけて、雨夜を後にした。
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