第9話 新生活(六) 「私だけ」
「どこへ行く」
サーディンの背後から声がした。若く、それでいて低い、そう、青年の声だ。
彼が外へ出る足音の他、なんの音もなかった空間にその声はよく響いている。
「そうか、かわしたのか」
サーディンは大して取り乱さずに振り返る。
振り返るとレザンダースがずぶ濡れで
滝の直撃は免れたものの、
髪からは水が滴っていて、その髪色も相まって
「こんなに水浸しにして…一体誰が片付けると思っている?」
レザンダースは語気を強めた。何しろここは彼らの住居なのだ。片付けるのは彼らである。焦げ茶色のカーペットが滑りやすくなっている。
「この教会は撤去される。案ずる必要はない」
「そんなこと、させるかっ!」
ガキン!
レザンダースはまた斬りかかる。またさっきのように余裕をもって受け止められたが、
ガキン!ガキン!と寮の構内に
つるんとした石の壁にその音が反響し、
「そろそろ無力をわからせてやる!今度は本気だ!
「また滝か。正面からは剣、上からは滝、確かに厄介だ」
ザザ───
上から水が降ってくる。バケツをひっくり返したような雨───の何倍もの密度の水量だ。
「が、こうすればなんの問題もない」
レザンダースは軽くステップを踏み、サーディンに突っ込んだ。
一度剣が触れ合い、ワルツのように自然な動きでくるり、さらりと入れ替わり、押しのけて、相対する向きを変えた。
「滝は動かずそこにあるものだろう。ならこちらが動けばいい」
さっきまでレザンダースがいた所にいるのはサーディン。滝の直撃を受けるのはきっとサーディンだ。
「なかなかやる、だが惜しかったな。勘が働くのが遅かったようだ。襲撃の時にその勘を働かせておけば、今ごろあの黒髪の魔女と黄色の修道女と偽修道女はカリグランスさんに殺されずに済んだものを」
「殺された…?」
サーディンは上から目線な口調で揺さぶりをねじ込んだ。
一方レザンダースはというと偉そうな口調には無関心で、代わりに彼女らの訃報を
サーディンに彼女らの生死を確かめる手段はなかったし、事実彼女らは生存していた。
実際にはセリナたちがユークレイドと
「………」
絶句して、レザンダースに大きな
「そこだっ…!」
サーディンの剣が迫る。
なんとか正気に返り、一旦は受け止めようとするも剣を弾かれ、二撃目は飛び退いてなんとか避けられた。
しかしサーディンはこの機を逃さない。すぐさま距離を詰めて、斬りかかる。
「くっ……」
レザンダースは魔法陣を出し、そこに手を突っ込んで剣を抜く。
ガチン!
サーディンの剣撃は、ひとまずなんとか受けられた。
「この…っ!」
余裕のなくなったレザンダースを見て、サーディンは攻撃を続ける。
「まだだ!
猛攻はとめどない、終わらない。
サーディンはもう一度飛び退く。
しかし、レザンダースはもう袋
ザバ───────────ン!
サーディンが落とした滝は、後退したレザンダースに直撃した。
サーディンは先の後退を見て、レザンダースの癖を見抜き、そして飛び退いた点を正確に撃ち抜いた。容赦なく、
「うっ、うう……」
レザンダースが苦しんでいても、それはザザザザザザザ────と絶えることはない。
魔法が数十秒稼働し、次第に
「ゴホッ、ゴホッ、はあっ、はあっ、はあっ」
四つん
水勢と、水の冷たさによりすっかりレザンダースは弱りきっていた。
剣は手に持っていなく、ワインレッドの髪はくず藻のように、黒いコートは昆布のようになっている。
彼の肉体を雑巾のように絞ったなら、ぶちぶちと千切れてしまいそうな程だ。
「苦しませるような真似をさせたな。この魔法はあまり殺傷には向いていないのだ。ただ敵を弱らせることにしか向いていない、なんとも使い勝手の悪い魔法だ。だから、とどめは俺がこの剣で直々に刺してやろう」
「くそ……っ、やめろ、はあ、はあ…」
自分が戦ってもちっとも弱みを見せない、レザンダースにとっては格上であるサーディンに、彼はまだ抗う。しかしそれは口だけでだ。何せ四肢を奮うも思い通りに動きやしないから。
「諦めろ、もう終わりだ。お前も、教会も、住人も、魔女もだ」
サーディンは言う。その心に感情などないかのように、冷徹に。
地下深い独房の壁のように温度だけでない冷たさを感じる。
群青色の髪は希望のない
表情はレザンダースに重さ暗さを思わせる無表情だ。
「させるか……うちの家庭には、立ち入らせない…!」
レザンダースは、熱を持ってなんとか体を起こした。よくある例えをするのなら、生まれたての子鹿のように立ち上がった。弱々しく、小枝のような能力の四肢を必死に働かせて。
しかしそれは、勇気のあふれる行動だ。
子鹿が未知の世界へ勇気を持って踏み出すように、彼もまた、勇気に支えられて、立ち上がった。
子鹿にとって、人生で最も偉大な一歩と言うべき行為の名を借りた、こちらもまた、偉大な一歩であるのだ。
そこは中庭。
大きな丸の中に丸が、その中にもう一つ、より小さな丸が収まっている。
内側に入っている中くらいの丸と一番小さい丸には極小の丸が乗っている。
ちょうど惑星と衛星の公転軌道を同時に表示したような形だ。
全てが円で成り立っているそれは、シトラが空間に映し出した魔法陣だ。淡い
ぼんやりと、漠然と光を放ってはいない。
シトラの「
シトラは、先にマニュが三日月を出現させたように光の輪を出現させる。
魔法陣とは微妙に造形が異なり、単なる二重丸模様だ。
「お返し!」
そして先にマニュがやってみせたように、浮遊する光輪をマニュの元へ飛ばしてみせた。
ヒュンヒュンヒュンと飛んでいく様子は、マニュの三日月が荒々しく空気を引き千切って行くようだったのに対して、滑らかに空気の間に割って入りすり抜けて行くようだ。
「止めなさい、
今例えたように、ビュンビュンと空気を引き裂く三日月が光輪に応戦する。
全弾
自然に破片が風に流され消滅する。その短い間だけは休戦状態であった。
だがそれも束の間、弾幕競争は再燃する。
「はああああああ!」
掛かり手はシトラ、この教会、そしてセリナの防衛者が積極的に攻めていく。
ヒュンヒュンヒュンと攻めていく。
いくらでも連射する。
しかし光輪はパリンパリンと砕かれる。三日月に阻止されて、マニュ・キプフェルには届かない。
そうしてマニュの足元では砕け散った破片が集積される。
積まれては消滅し、反対に、消え去っては降り積もる。
マニュは猛攻するシトラの弾幕を
攻めあぐねているのか、それとも……
「退屈な遊び、あなたもそう思わない?ね?」
「何よ遊びって?こっちは本気よ!」
「そ。がっかり」
マニュは落胆し
シトラがこの隙に一発ぶち込んでやろうかと、
諦めをつけたような、ある意味気合を入れたような溜息だった。
「も、終わりにしましょ」
気怠げな声の中に少し独特な戦意が目覚めた。言い方はあざとくても、恐ろしい。
平和的な終戦宣言とは、到底思えない。戦争を力を以って終わらせる、これはそんなことを意味する宣言だ。
「終わらせるって、何よ、話し合いで解決するつもり?」
シトラは今まで続けていた連射を打ち切って対話を始めた。このまま打ち合っていても
「そうね。じゃ、やり方を変えましょ。今度は私が攻めるの。いい?」
「どっちにしたって同じよ」
シトラは未だ強気に言ってのける。張っているのは威勢か虚勢か、どちらにせよ彼女はこれを厳しい戦いであると理解している。
マニュはというと…厳しさに直面しているとは思えない。
呑気に返した。
「いえ、全然違うわ」
奴が私の不安、未知なる格上への恐れを感じとったのか、相変わらずマイペースに淡々と返しただけかは私───シトラにはわからなかった。しかし私は明確に焦りを覚えた。
頬には緊張の汗が、
肌はひりひりとした、震えのようなものを感じる。
それはある種の危険信号。私の本能が危険を告げている。
レザンに比べて確かに私は実力不足だ。
それは日々痛感している。
それなのにいつも、戦ったら決して勝てっこない相手と戦いをしている。いつだって
大抵ここまで怒らせることはないのだが。それで、ママの注意とレザンの殺気のどちらかを受けて、初めてそこで、やりすぎた、と、反省する。改めて反省できない私はバカだな。さっきもそうだった。セリナちゃんには後で改めて謝っておこう。
さて、今私の目の前にいるマニュという女、間違いない。
いつものレザンは当然そうだが、非常時の、本気のレザンよりも、強い。
強敵だ。
だけど私は、やるしかないのだ。
お願い神様。力を貸して。
足止めくらいならできる勇気を私に
ドドドドドドドと、地響きが聞こえる。
黒い髪の魔女、セリナの魔法陣から無限を思わせるほど湧き上がる闇の
セリナは血の涙をぼろぼろ流しながら、目の前のユークレイドに闇を放っていた。
今にも倒れそうだが、なんとか両足で自立している。
彼女の流した鮮血の水溜まりは、草舟程度であれば浮かべられそうだ。
そんなセリナの表情はまさに
耐えられない頭痛と溢れ出る血涙により前をまともに見ることさえ厳しい。
けれどもセリナの目は執念深くユークレイドを捉えている。
「はあっはあっはあっはあっ」
「まだわからないのか愚か者というものは!どのような抵抗も無駄だ!諦めて投降して、潰されてしまえ!」
セリナに諦める様子は一切ない。
「いえ…………諦め…ません」
そして何度でも、何度でも繰り返してきた魔法の発動。魔法陣を黒く光らせ、闇を呼ぶ。
何度目かは分からない魔法の発動をして───
ぶしゅっ!
「なっ……!?」
「セリナちゃんっ!」
セリナとラモーナが同時に驚きの声を上げる。
その拍子にセリナの体勢が崩れ、膝立ちになる。
「これ…鼻血……」
セリナの鼻からは真っ赤な血がだらだらどろどろと流れ始めた。
セリナは慌てて鼻を押さえる。左手は頭を押さえるので精一杯なので、右の手のひらで鼻を閉じ込めるように覆った。
しかし鼻血は
どうやら
ユークレイドは不思議そうにこの光景を眺めている。対岸の火事、といった感じだ。
「うっ……」
次いでセリナを襲ったのは単なる吐き気──というより、口から強制的にものが脱出しようとする感覚だ。
鼻を閉じ込めていた手のひらを少しずらして口まで覆う。火災訓練を思い出す格好だ。
そのようにしてなんとか
「ごぽっ!」
口からモノが
セリナは覆っていた手のひらを恐る恐る見る。この際鼻血は垂れ流しだ。
吐き出したものは、血。鼻血と色が同じだから、ちらと見ただけでは何を吐いたのか、彼女でも分からなかったが、すぐに気づいた。鼻血と同じ色のものを吐いたから、手のひらは変わらず血
「は……?」
鼻血と同じ色のもの、考えるまでもない。
「うぷっ……」
また吐き気を
役目を失った魔法陣はだんだん薄れていった。
「……はあ、……はあ」
それでもセリナはまだ立ちあがろうとする。
なかなか立ち上がれず、足元の血溜まりを胸で叩くこともある。
ユークレイドは彼女の姿を見て勝ち誇っている。
哀れにも感じるセリナの勇姿をラモーナは見守っていた。
何もできずに立ち尽くしていた、とも言う。
そんなラモーナはセリナの保護者だ。セリナの保護は新米とはいえ、家族として迎えた仲なのだ。
だからラモーナはセリナに訴えた。ラモーナの混じりっ気のない本音を伝えた。
「セリナちゃんっ!もういい。もういいんだ!確かにセリナちゃんは頑張った、十分頑張ったよ!それでも、どうしたってユークレイドには通じなかった。だから、もう命を削ってまで戦うのはやめてくれ!命を懸けてまで私たちのために戦わないでくれ!」
「ママ………」
セリナはユークレイドの向こうにいるラモーナの方を弱々しく見る。
ラモーナの言葉に耳を傾け、セリナは決意が揺らいだ。
ユークレイドを追い払ってこの教会で平和に暮らすつもりであったのだが、事実ユークレイドには圧倒されている。
ここであきらめてしまえば楽になれるかもしれない。
あの説得には、この頑ななセリナにそう考えさせるほどの力が
ユークレイドも乗じて降伏を促す。
「ああ、賢いラモーナもそう言っているぞ。だから愚かな
「………………」
「でも、レザンダースさん、シトラさんは……」
セリナは四つん
自らの流した血でできた血溜まりには、血に塗れた虚弱な顔が映る。
自問自答、のち、決断。
目とぎゅっと一度
さっきまではひ弱であったセリナの顔つきは、すっかりやる気を取り戻していた。
「どうした?」
ユークレイドはセリナの異変に気付き声を掛ける。
セリナは吐血騒動で姿を消していた魔法陣を、ぽわんと再び呼び戻し言う。
その魔法陣は足元に現れていた。
まるでセリナを下から励ますのように。
「まだ、やれます………」
セリナの意志に応え、真っ黒な魔法陣が一層黒ずむ。
「もう諦めるのではないのか?」
苦しむセリナを
セリナは応える。
「私は、まだ!終わってない!」
その主張は、自分の強い目的に突き動かされた勇者じみていた。
「そうか、ああそうか。どこまでもどこまでも、
ユークレイドは声を荒げて
セリナはそんなユークレイドを置き去りにして、ラモーナに誓う。
「愚かだろうがなんだろうが関係なんてありません!」
ここで息を全て吐き切ったため、もう一度息を大きく吸ってより強く誓う。
「レザンダースさんもシトラさんもここの教会のために命を
散々悩んだ決断は、
「だから、私は、絶対に諦めません!」
もはやセリナを心で折ることはできない。
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