エピローグ
春のタモロ沼の岸辺に、ネオは立っていた。
まだ稲を植える前の沼は、静かに水面に風を受けている。時々ゆれる水面に、高い青空が映り、その中を一羽の鷲が飛んでいた。
ネオの仕事は、このタモロ沼の管理だった。釣りも弓作りもやるが、たいていはこのタモロ沼のほとりにきて、稲の様子を見たり、岸辺の土を盛りなおしていたりした。自然のまま放っておくと、沼の岸が崩れて危なくなるのだ。もろいところなどは、定期的に土を入れて補強しておかねばならない。
このタモロ沼ができてから、カシワナ族の暮らしは格段によくなった。ヤルスベ族の要求にも十分に答えられ、それにも余るほどの米がとれた。毎年やる稲植えは大変だが、その労に余るほどの恵みがあるのだ。
すばらしい沼だった。
「これ、アシメックがつくったんだね」
ネオの隣で、小さな子供が沼を見渡しながら言った。ネオはモラとの間に、五人の子供を作ったが、五人目でようやく男ができた。この子供はその男の子だ。名前はモトといい、今年で五歳になる。ネオは愛おし気に息子に笑いかけ、言った。
「ああ、そうだ。アシメックとみんなが作ったんだよ」
「ネオもやったんだよね」
子供は言った。ネオは「ああ」と答えた。結婚制度のないこのころでは、父親にあたる名詞がない。だから子供は、男の親のことは名前で呼んだ。だがモトにとっては、ネオは特別な男だった。いつも家に一緒に住んでいて、母親と仲良くしている。そしてモトのためにいいことはなんでもしてくれた。
「おれはまだ、十二か十三の子供だった。だが十分に鍬が持てたんで、アシメックが声をかけてくれたんだ。一緒に男の仕事をしないかってね」
「すごいよな」
モトはネオの話を聞きながら、目を丸々と見開いて言った。春の風が心地よい。どこからか小鳥の声が滴って来る。イタカには草むらに巣をつくる小鳥がいるのだ。
「おれ、青い鹿の話が好きだ」
モトは沼に映った自分の顔を見ながら言った。アシメックがキルアンと闘った話は、今は母親たちが子供に語る昔話の定番になっていた。キルアンは、実際は普通の鹿より少し大きいくらいの、青みを帯びた毛皮をしたハイイロ鹿の雄だった。ネオはそれくらいのことは知っている。だが母親たちの語る話では、アシメックが戦ったのは、イゴの木よりも背が高い、空のように青い鹿になっていた。
アシメックはその鹿と、空を飛びながら戦ったのだ。
モラがモトを寝かしつけるために、その大仰に広がった話をする時、ネオは少しおかしかったが、別に何も言わなかった。それくらいのことができてもおかしくないように思えたのだ、あの族長は。
今の族長は、シュコックが死んだあと、レンドがやっている。アシメックが始めた稲植えの風習を受け継ぎつつ、みんなを守って立派に族長をやっていた。アシメックの影響は大きかった。あれを忘れられない男はいつも、アシメックの真似をしていた。
ネオは昔の記憶に心を飛ばした。もうあれから何年経つだろう。アシメックが死んだのは、最初のタモロ沼の稲刈りが終わってすぐだった。
彼のとむらいのときは、村のみんなが泣き崩れた。墓穴を掘るのさえ拒否した。死んでしまったことをすぐに認めたくなかったのだ。アシメックが横たわる墓穴は、トカムがひとりで掘った。そのころから、穴を掘るのが彼の仕事になった。今でも彼は穴を掘り続けている。
ネオは空を見た。白い大きな春の雲が流れている。
もうすぐまた稲植えだ。ネオはこの沼ができてから、ヤテクに習って稲についての知識をたくさん蓄えた。稲植えの経験を積み、様々なコツを身につけた。大人の男になっても、サリクほどには体が大きくならなかった。だが、いいことのできるいい男になれたと思っている。少なくとも、モトは、こういうネオを誰よりも慕ってくれるのだ。
サリクは、アシメックが死んでから三日後に死んだ。
カシワナ族には殉死の風習はない。だがそれに近かった。アシメックが死んだことを知った時、サリクは世界が終わったかのような真っ青な顔をし、突然口を利かなくなった。そのまま家にとじこもって、何も食べずにぼんやりしていたと思うと、三日後に寝床の中で死んでいるのが見つかったのだ。
アルカラを思い出したのだろう、とミコルは言った。だがネオはわかるような気がした。サリクはアシメックについていったのだ。そうしかねないくらい、サリクはアシメックばかり追いかけていた。
りっぱな男は、いいことをみんなのためにするものだ。
そんなことを、サリクが言っていたことを、覚えている。あれはアシメックの真似だった。アシメックはいつも男たちにそんなことを言っていたのだ。ネオもそう思う。そうとも、それが正しい男の生き方なのだ。
おれはサリクみたいにでかくならなかったし、狩人組にも入れなかったけど、稲を勉強して、みんなのためにいいことをしている。
そして、モトに、立派な男のやり方を教えてやる。おれが生きてやったこと、すべて教えていく。
そうすれば、きっとこのカシワナの村は、ずっと美しく生きていくにちがいない。
風が起こった。それを受けて、また沼の水面に文様が揺れた。
ネオはその時、何かに打たれたように立ち尽くした。風が頬に触れ、何かをネオにささやいたような気がした。
信じられるか。おまえたちはまだ、風を受けて現れる風紋のようだが、いつか、この世界に不思議な文様を描く風になるのだ。
ネオはふと辺りを見回した。誰かがそばにいるような気がしたのだ。だが周りにはモトの他誰もいない。空耳だったのだろうか。
風か。確かにアシメックは風みたいだったな。岸辺に立ってみんなに向かって何かを言っているだけで、風に吹かれるみたいにみんなが一生懸命動いていた。
あの声が好きだった。聞くだけでうれしくて、なんでもやりたくなった。だが今はもうはっきりと思い出せない。日々の中で記憶は薄れていく。ただ、人々に伝えられていく神話だけは生きていた。
青い鹿と闘い、沼を広げて稲を歩かせた英雄は、いつか神のように立派になり、風のように子孫たちの心に風紋を描いていく。
昔、アシメックという勇猛な神はこう言って、男たちを導き、すばらしい沼を作ったという。
やってみろ。
おまえにはみごとにそれができるだろう。
(おわり)
風紋 青城澄 @sumuaoki
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