ケバルライ


賢き者

遠き道をゆけ

難き道をゆけ

正しきものついには勝たむ


歌が聞こえる。コルの声だ。


アシメックは目を覚ました。天井の木組みに光が差していた。朝なのだ。このところ、アシメックはソミナやコルよりも目を覚ます時間が遅くなっている。


目を覚ましてからしばらくは、思うように体が動かせない。寝ている間に冷たくなった足がじんわりと暖かくなってくるまで、しばらくじっとしているしかない。


こんな調子になってきてから、もう二月はたつ。季節はまた冬になっていた。冷え冷えとした家の中の空気が、骨に染みた。


ようやく体が動くようになったので、アシメックは身を起こした。コルはまだ歌っていた。歌えるのがうれしくてならないようだ。それはカシワナカの教えの歌だった。いろんな儀式のときに歌う。ソミナに教えてもらったのだろう。コルは物覚えが良かった。大人が歌うような難しい歌でも、かなりすらすら歌える。


いいやつだ。大人になったら、頭を使う仕事をさせたらいいだろう。ソミナのことも助けてくれる。


アシメックはコルのかわいい声を聴きながら思った。


寝床から立ちあがって、囲炉裏のそばまで来ると、ソミナが中に入ってきた。今日の朝餉は糠だんごではない。米の粥だ。昨日ソミナがついてくれた米を、外で焚火をして煮てくれたのだ。囲炉裏を使うと、アシメックが目を覚ますからだろう。


タモロ沼で米がたくさんとれてから、食事に米が出る回数が多くなっていた。そのせいか、村人はみな幸せそうだ。幾分ふっくらと太ってきたようにも見える。ソミナにもその様子はあった。コルを得てから、いくらか母親らしく丸くなってはきていたが。


「うまそうだな」

「うん。青菜がなくなってきたから、干したニドの芽を入れた。ちょっと苦くておいしいよ、あにや」

「おお、ありがとう」

礼を言って、アシメックはソミナの差しだす土器の碗を受け取った。うまそうな粥が湯気を立てている。木のさじですくって食うと、これがまた涙が出るほどうまかった。体の芯から温まってくるようだった。


「うまい」

とアシメックは心から感動して言った。米ほどうまいものはない。今まで何度も食っては来たが、こんなうまい米を食ったこともない。


ヤルスベが欲しがる気持ちがわかる。こんなうまいものを食ったら、食べないでいる暮らしなんて考えられまい。


食い終わって碗をソミナに返すと、アシメックは化粧を直し、外に出た。キルアンの肩掛けをつけているが、外の風は寒かった。ミコルのところに行って、風紋占いを聞き、今日はそれに従って、イタカの野に行った。タモロ沼を見に行くのだ。


冬になると、稲は枯れて見えなくなる。オロソ沼では、沼底に根が残っているので、また次の春には生えてくる。だがタモロ沼では、そうはいかないようだった。


アシメックは前に、タモロ沼の底の土を、ヤテクと一緒に確かめ、稲の根がタモロでは伸びていないことを突き止めていた。


水が浅いからだろう。ということは来年も稲植えをやらねばならない。毎年倍の米をとろうとしたら、それくらいの苦労はいるのだ。またやればいい。みんなやり方は覚えている。


アシメックはタモロ沼の岸に立ちながら、そう思った。風が吹いて、沼の水面に文様を描いた。胸の奥で、一瞬心臓が揺れた。目眩がする。だが倒れてはならない。アシメックは目を閉じ、しばらくの間じっとして、変調が終わるのを待った。


ケバルライ


誰かの声が聞こえた。わかる。これはアルカラからの声なのだ。誰かが自分を呼んでいるのだ。だが、まだ行くわけにはいかない。


変調がおさまってくると、アシメックは深いため息をついた。そしてまた沼を一望すると、くるりと背を向け、村へ向かって歩き出した。シュコックに会わねばならない。


シュコックは自分の家で、アシメックを待っていた。まだ誰にも教えていないが、アシメックは少しずつ、族長の仕事をシュコックに引き継いでいたのだ。体の調子がおかしいことは、シュコックだけには教えていた。


「おれは、いつアルカラに行くかわからない」

アシメックが言った言葉を、シュコックは寒い気持ちで聴いていた。いつかこんな時が来るだろうことは知っていた。だが、来ないで欲しい、来るはずがないとさえ、思っていた。彼がこの世からいなくなると思うだけで、シュコックは世界にたった一人で残されるかのような寂しささえ感じるのだ。


だが、人間は永遠に生きられるものではない。カシワナカは、寿命というものをこしらえている。そのほうがいいのだ。新しいものが次々とこの世界に生まれてくるのを、古いものがさまたげてはいけないのだ。


アシメックはシュコックの家に入っていくと、挨拶もそこそこに、いつもの話に入った。族長としてやっていることを、細かくシュコックに教えているのだ。


「ケセンの漁師には、ヤルスベとのケンカは絶対にするなと、会うたびに言うんだ。うるさいと思われるが、言う方がいい。オラブのことがあってから、いろいろ難しいことになっている」

「それはそうだ。物分かりのわるい奴はいるからな。口をすっぱくして言ったほうがいいことは、言ったほうがいい」

「何でも、族長は言うことが大事だ。正しいことを、はっきりと言う。そうすれば、みんなが信じてついてくる」

「おお、そうだな」


シュコックは時に感動しながら、アシメックの話を聞いていた。そういう引継ぎをしていることは、セムドやほかの役男たちには、それとなく話しておいた。アシメックの変調のことだけは言わなかったが。


族長の調子がおかしいという話がみんなに広まってはまずい。今は、将来を見て、アシメックが次の族長にシュコックを選んだということだけを伝えておいた。役男たちの間には、それに異論を唱えるやつはいなかった。シュコックは、イタカの野に溝を掘ることに、一番先に賛成したからだ。


シュコックに引継ぎをしながら、アシメックは自分が前の族長の引継ぎを受けた時のことを思い出していた。あの時の族長はかなり老いていた。まだ生きていたが、収穫祭の踊りなどはもううまくできなくなっていた。家の中で踊りの所作を教えてもらいながら、前の族長の目が老いに濁り、よく見えなくなっていることに若いアシメックは気付いた。


あの族長と比べれば、今のアシメックはまだ若く見えた。目も濁っていないし、肌にも張りがある。時々目眩がして動けなくなるくらいだ。だが、死の予感はひたひたと迫っていた。声が聞こえるのだ。あの、どこかから自分を呼ぶ声が。


ケバルライ


その意味は未だにわからない。だが、もうすぐわかるような予感がする。たぶん、それがわかったら、おれは終わりなのだろう。アルカラを思い出し、帰っていくにちがいない。


シュコックへの引継ぎは、冬中やった。収穫祭の踊りの所作も、だいたい伝えた。タモロ沼の稲植えのことも了解を得た。来年もやるのだ。ヤルスベの要求もこなし、みんなの食べる分の米をとるためには、タモロ沼の米も必要なのだ。歌垣の前にみんなで働くことなど、わけもないことだ。村の新しい習慣にしてしまえばいい。


冬が去り、浅い春の気配がイタカの野に見えるころ、アシメックはひどく疲れを覚えるようになった。少し体を動かすだけで、しばし何もできなくなる。だるいのだ。体に流れてくる気力のようなものが、どこかで詰っているような感じだ。


その頃になると、ソミナも兄の様子がおかしいことに気付いた。


「体が悪いのかい? あにや」

「いや、だいじょうぶだ」

アシメックは笑いながら言った。だがその顔にも元気がない。


「米を食べたら、元気が出るよ。稲蔵に行ってもらって来よう。コル、いっしょにおいで」

そう言って、ソミナはコルをつれて外に出て行った。アシメックは笑った。明日の朝は、ソミナが作ってくれる、うまい粥が食えそうだ。


家の中で、ひとりで囲炉裏のそばに座りながら、アシメックは目をつぶる。そうするとまたあの声が聞こえる。


ケバルライ


わかっている。あれだ。あれが呼んでいるのだ。だが、あれとはなんだ。カシワナカのことか。夢で見たあの神のことか。


アシメックは前に見た夢のことを思い出した。鷲のように大きな翼をした立派な男の神。それは自分に大きな使命を言い渡したのだ。


イタカの野に細い川を描き

稲を歩かせ

豊の実りを太らせよ

ケバルライ


もうそれは終わった。アシメックは野に川を描き、稲を歩かせ、タモロ沼を作り、大きく稲の収穫を太らせたのだ。


おれはやったのだ。


アシメックは腹の奥に何かをずんと落とすように、自分にそう言った。


その日、アシメックはソミナが米をつく音を聞きながら、早めに床についた。コルは小さく歌いながら、ソミナのそばに引っ付いている。ソミナが好きなのだ。もう母と同じくらい、愛しているのだ。もういい。おれがいなくても、妹はやっていける。


その様子を見ながら、アシメックは目を閉じた。


夢を見た。


はるかな上空から、アシメックはタモロ沼を見下ろしている。あの時と同じだ。


季節は春だった。みずみずしく水をたたえたタモロ沼に、人々が集まり、稲を植えていた。ああ、またやっているのだ、とアシメックは思った。


「ごらん」

とまたあの声が言った。

「あれはまだ、風が起こす風紋なのだ。まだ何もわかってはいない。だが、確かに、いつか風になる種を持っているのだ」

「ああ、そうだ」

アシメックはその声にこたえた。


「わたしたちの道は、はるかに遠い。長い年月を、やっていかねばならぬ」

声は言った。アシメックは返事をしなかった。だが心のどこかで、わかっているような気がした。


「想像できるか? あの、まだとても小さい魂が、何もわかっていない種が、今にこの世界に大きな風を起こすものになるということが」


声が一段と近づいてきた。アシメックは、その誰かが今、自分の耳元でささやいているのを感じた。


「ケバルライ」

「なんだ」

「あなたの仕事はここで一旦終わりだ。もうわかっているだろう」

「ああ」


アシメックは涙を流した。わかった。別れの時が来たのだ。あれらと、別れなければいけない時が来たのだ。声は言った。


「永久の別れではない」

「そうとも」

「また会える。新しい命をもって、またあれらと会える時が来る」

「わかっている」


アシメックは後ろを振り向いた。そこに、大きな翼をもつ神カシワナカがいた。いや、それはカシワナカではなかった。アシメックは驚いた。しかしその次に、あふれるようななつかしさが湧いてきた。


「ああ、なんだ、……あなただったのか」

とアシメックは言った。


夢はそこで終わった。


その次の朝早く、ソミナは目を覚ますと、身づくろいもそこそこに、さっそく外に出て焚火を作った。家の中で囲炉裏を使っては、兄の眠りを邪魔するからだ。


昨日積んであった榾に囲炉裏の火を移し、土器の壺に水と米を入れて煮る。今日は干した小魚を裂いて入れた。そうすると魚の味が出て粥がうまくなる。


これを食べれば、兄も元気になるだろう。


出来上がった頃に、ソミナはそばで遊んでいたコルにいいつけた。


「コル、あにやを起こしておいで」

「うん」


コルは素直にうなずいて言うことを聞き、家に入っていった。いい子だ。コルはもうすっかりソミナの子だった。生まれた時からそばにいるような気さえした。あにやと一緒に、大人になるまで大事に育てていこう。だがしばらくして、コルは家から出てきて、ソミナに不安そうに言った。


「母ちゃん、アシメックが起きないよ」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る