タモロ沼
アシメックは沼を見下ろしていた。眼下に、前よりもずっと広がったオロソ沼が一望に見える。美しい。
沼を広げたら水が減るのではないかというやつもいたが、沼の水は減らなかった。一時は少し稲の根元が少し透けて見えるくらい微妙に減ったかに見えたが、すぐに持ち直した。オロソ沼は、今まで以上の水量を保ち、豊かに美しく広がっている。
これをおれはやったのか。アシメックは目を細めた。静かな感慨が押し寄せてくる。
「もうすぐここに、稲を植えるのだ」
誰かの声がした。アシメックは特に不思議がりもせず、答えた。
「ああ、そうだ。みんなで協力して、新しい沼に稲を広げるのだ」
「ごらん」
声がまた言った。すると沼に人が集まり始め、まだ何もない新しい沼に稲を植え始めた。アシメックは息を飲んだ。大勢の村人が、丸太をたたく楽に合わせ、リズムよく沼に稲を植えている。アシメックは、それをはるか上から見ているのだ。なぜだなどという疑問はわかなかった。そのときはこれが当たり前のような気がしていた。
「まるで風が起こす風紋だ。あれらは、あなたが起こす風によって動いているのだ」
「ほう?」
「美しいだろう。あれらはまだ幼い。自分で動いているようで、動いてはいない。あなたが風を起こさなければ、動かないのだ」
不思議な声の響きだ。だが、どこかで聞いたことがあるような気もする。
「風紋か。確かにみんな、おれがこうしようと言えば、よく動いてくれる。みんながそれに従って働いてくれる姿は美しい」
「そうとも。だがまだまだこれからだ。難しいことがたくさんある」
「そうなのか?」
翼の音がした。そのとき、かすかにアシメックは不安を感じた。このままこの声を聞いていてはいけないかもしれない。だが引き込まれる心を止めることができなかった。
「信じられるか? あの、まだ風に描かれる風紋のようなものたちが、いずれ世界中に風紋を描く風になるのだということが」
声は厳かに言った。それは胸に深く染み入って来る。得体のしれない、だが不思議になつかしい心が伝わってくる。アシメックは胸の深くに微かな痛みを感じた。眼下の沼では、人々は忙しく働き、どんどん沼に稲を植えていく。声はまた言った。
「この事業はいずれケセン川に広がる。北の沃野にも浅い沼が広がる。赤米の稲から突然白米が見つかる。そこからが本格的な農耕の始まりだ」
アシメックはわけがわからなくなった。だがそこで、突然気付いた。これは、夢だ。アシメックはミコルが言っていたことを思い出した。人間は夢を見ている時、アルカラを思い出してそのまま死んでしまうことがあるということを。
まずい。これはアルカラからの風だ。そう思ったアシメックは焦って目を覚まそうとした。今死ぬわけにはいかないのだ。
ひとしきり、砂の中を泳ぐようにあがいて、アシメックはようやく夢から帰ってきた。重い瞼を開けると、家の天井の木組みが見える。汗が流れていた。危ないところだった。あのままアルカラを思い出していたら、今頃自分はこの寝床で死んでいたかもしれない。この時代、そういう死に方をするものは多かった。
寝床から身を起こして見回すと、家の中にはソミナもコルもいなかった。外からコルがはしゃぐ声が聞こえる。ソミナと何かをして遊んでいるのだ。今日は目を覚ますのが遅かったようだ。しばらくすると、コルがソミナに命じられ、アシメックを起こしに来た。小さなコルは家の中に入ってくると、アシメックに近づいて、もう起きて、とおずおずと言った。コルはソミナにはなついているものの、まだアシメックは怖いのだ。
「よし、わかった、いい子だな」
アシメックはコルの頭をなでながら、言ってやった。コルはほめてやると喜ぶ。いいところを見て、いいやつに育ててやらねばならない。
間もなくソミナが糠だんごを持って来たので、アシメックは囲炉裏の前に座ってそれを食べた。夢のことはもう半分忘れていた。だが、はるか上から沼を見下ろし、みなが沼に稲を植えていた風景は、鮮やかに脳裏にあった。
アシメックは自分の年を考えた。四十を過ぎてから、自分の年を数えるのが面倒になってきたから、正確には今わからない。だが、この時代の平均寿命から考えれば随分と長く生きていることは確かだ。体力もそう衰えてはいない。だが、昨日まで元気だった男がとつぜん死ぬことなども珍しくはなかった。アシメックもいつそうなるかわからない。不安を払いのけるように、アシメックは首を振った。死ぬわけにはいかない。まだやらねばならないことがある。
化粧をすると、アシメックは外に出た。ここ最近は、ミコルの占いを聞きもせず、真っ先に沼に向かうようになっている。
季節は秋に近づいていた。もうすぐまたコクリが咲く。イタカの側から見た沼の稲も、重く実り始めていた。今年も去年と同じくらいの収穫が見込めそうだ。だが今も、ヤルスベ側からたびたび米の要求が来ている。そのたびに、身を切るような思いをして、米を分けている。まだ村人が飢えるほどではないが、確実に食糧は少なくなっていた。山からとる栗や林檎だけでは、とられる米の量を補うことはできない。鹿の肉にも限界がある。
オロソ沼を広げ、稲の量を増やすしかないのだ。
岸に立つと、広がった沼の水面を風が撫でていた。美しい水紋が現れる。ふと、夢で聴いた言葉を思い出した。
あれらは、風で動いている風紋のようなものなのだ。あなたが起こす風がなければ動かない。
そうなのか。確かにおれはみんなの先頭に立ってやる。だがそれは族長なら当たり前のことだ。
アシメックは沼の周りを歩いた。南の方に回り、古い沼と新しい沼の境界を見に行った。そこらへんではもうすでに、沼に生えていた稲が新しい沼に進出し始めていた。人間が植える前からもうすでに、稲の方が何かを感じ始めているようだ。
いける。と彼は思った。すべては順調に行くだろう。稲刈りが終われば、みなに稲の植え方を教えなくてはなるまい。一切の計画は頭の中にあった。春になれば稲植えだ。
風が沼の稲を揺らした。それがさやさやと鳴る音を、彼はしばし静かに聞いていた。
月日は過ぎた。村の行事は例年通りに進んだ。稲刈りを終え、収穫祭をやり、山の採集がすめば、冬の仕事をやる。先祖から受け継いだ暮らしを、みなまじめに営んでいった。だが違うのは、時々アシメックが広場にみなを集め、新しい沼と、稲の植え方の話をするようになったことだ。
村のみんなも、アシメックが作った新しい沼は見ていた。こんなことができるのかと、みんな驚いた。美しい水面を見ながら、みんな心に、自分があそこに稲を植えていく姿を想像した。想像していくだけで、それはもう現実にあったことのようにさえ思えた。アシメックの心と言葉が、どんどん村人の心に染み込んでいくのだ。
「難しいことではない。やってみるんだ。苗の根を沼の底の土に差せばいいだけだ。それをみんなで協力してやり、新しい沼に稲を広げる。オロソ沼の稲が広がれば、米がとれる量が増える」
ヤルスベは未だに、カルバハのことを材料に、カシワナに米をせびりに来る。いい加減にしろと怒るやつもいたが、まだ反抗することはできなかった。オラブめ、と言いつつ、カシワナはヤルスベの要求に従い、米を分けていた。
だんだん食べられる米の量は減ってきている。それはみんな身に染みてわかっていた。だが、アシメックの言うとおりにすれば、必ずオロソ沼の米が増えるのだ。
夢というのはいい。苦しいことがあっても、人間の心を明るくする。我慢しにくいことでも、我慢ができるようになる。時にヤルスベ族の者に、嫌なことを言われても、みなはきっと口を結んで耐えられるようになった。屈辱というのは苦しいものだ。オラブひとりのことだけで、カシワナ族のことをみんな泥棒のように言われる。だが、オロソ沼が広がって米がとれる量が増えれば、カシワナにも何か大きな明日が広がるような気がするのだ。
春の鹿狩りが終わりに近づき、歌垣がせまってくるころ、とうとう、前からの約束通り、稲植えを決行する日が来た。
アシメックは楽師たちを岸に座らせた。丸太をたたきながら、楽師は新しく作った稲植えの歌を歌う。
新しい沼に
稲を植えろ
若苗を分けて
稲を植えろ
米が増える
米はうれしい
沼の岸には、稲植えに参加する村人が集まっていた。男も女もいる。みなおもしろそうに目を輝かせていた。手には、ヤテクに教えられて、沼からとってきた稲の若苗を持っている。若苗をとるにも方法があった。同じ株から三分の一の苗を分けてとるのだ。そうすれば稲の元気が保てる、とヤテクは言った。ヤテクはずっと稲を見ているから、そういうことがわかるのだ。
「ようし、みんな、沼に入れ!」
楽師の横に立っていたアシメックが右手を高々とあげ、合図した。するとみなが一斉に沼に入っていった。新しい沼は浅い。人が足をつけても、ふくらはぎが濡れる程度だ。底もまだ硬いから歩きやすかった。
「教えたとおりにやれ! 隣と一歩分間を開けて植えるんだ! 根を十分に底に差せ!」
アシメックは声高く言った。それを聞きながら、村人たちは一心に稲を植えた。みな初めての仕事だから、最初はなかなかうまくいかない。苗の根を土に差しても、すぐに倒れてしまう。だが、何度もやり直していくうちに、だんだんとコツがわかってきた。見る間に沼は、新しい苗で埋まっていく。
アシメックは沼で働く皆を見渡した。胸に熱いものがこみあげて来る。これは風が起こす風紋だ。みなおれの気持ちに従って動いてくれる。それは美しい。これをきっと、神は空から見ているだろう。ミコルの風紋占いのように、この見事な風紋を見ているだろう。
もちろん仕事は一日では終わらなかった。日が傾き、みなが疲れを見せるころ、アシメックは仕事を終わらせた。
「よしいいぞ、今日はこれまででいい。続きは明日やろう!」
おお、という言葉がみんなの中から起こった。麗しい声だ。疲れていても、みな喜んでいる。いいことをしているからだ。みんなでいいことをしているからだ。
稲植えの作業が完遂するには、七日かかった。溝を掘るよりも長くかかったのは、みなこんなことをするのは初めてだったからだ。みな、少し戸惑いながら、一生懸命に、稲を植えていった。植えてもまた倒れる稲はたくさんあった。それを何度もやり直さねばならなかった。
それでも何とかやり終えたとき、沼は見たこともない風景になった。新しい浅い沼に、まだ丈の低い若苗が、一定の間隔で並んでいる。こんな奇妙な、そしてきれいな風景は見たこともない。皆の心の中を、静かな感動が流れていた。こんなことを、やったのか。
「この新しい沼に、名前をつけようぜ」
アシメックのそばで、ダヴィルが感動のままに言った。それはいいな、とアシメックが言った。そして、オロソ沼に続く新しい浅い沼に名前がつけられた。
タモロ沼という。文字通り、浅い沼という意味だ。
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