トカムの穴
宝蔵には鉄のナイフのほかにも鉄の鍬があった。もちろん米と交換してヤルスベ族からもらったものだ。
鍬と言っても、畑を耕すために使うものではない。このころにはまだ農耕はなかった。鍬は単に、土を掘るために使うものだった。主に、家を建てる時の土台を掘るときや、墓穴を掘る時などに使う。
細い木の棒の先に、大きな鉄の板がつけてある。鍬というより斧に近い。だが、穴を掘るには十分に役に立った。
歌垣も終わり、そろそろ蝉が鳴き始めるという頃、アシメックは男たちを広場に集めた。あれからまたいろいろな男と話をし、最終的に人員は二十人集まった。トカムとネオもいる。最初は渋っていたサリクも参加した。自分では内心異論を持ちつつも、アシメックには勝てないのだ。どうしても一緒にいたくなる。
アシメックの命で、シュコックが皆に鍬を配った。人数分だけ、鍬はあった。ネオは鍬を渡されたとき、その重さに負けないように自分の腕に力を込めた。ほかの男よりはまだ細いが、十分に筋肉は太くなってきている。大丈夫だ、働ける。ネオは自分にそれを言い聞かせた。
広場の隅から、モラが自分を見ていた。ネオはそれに気づくと、微かに笑って、モラを見た。子負い袋を背負っている。あの袋の中に、テコラがいるのだ。
そう思うだけで、ネオは自分の中に何か不思議なものが走るような気がした。やらなくちゃならない、という気持ちがして、身が震えた。
「ようし、みな鍬は持ったな。では、行こう」
アシメックの声が聞こえた。ネオはもうモラのことは忘れ、広場の真ん中にいるアシメックを見た。アシメックはフウロ鳥の羽を三本髪にさし、太く長い腕を空に向けて立てていた。美しかった。ほれぼれする男だ。ついていきたい。
男たちはアシメックに従い、イタカの野に赴いた。イタカの野を掘るなど、初めてする仕事だ。誰もが不安を持っていた。だが、堂々と前をゆくアシメックの背中を見ていると、勇気が湧いて来る。なんでもできるような気がした。
イタカの西のはずれ、オロソ沼との境界辺りにまで一行を導いていくと、アシメックはみなをひとところに集め、しばし待たせた。そして、腰に差していたナイフを抜き、地面に線を描き始めた。
「この線に沿い、掘っていくんだ。幅はこれくらいでいい。深さは腰くらいだ。沼から遠いところから掘れ。そう、そこのあたりだ」
「ずいぶんと長い」と驚いて言う者がいた。実際、アシメックが地面に引いた線は、みなが思っていたよりもずっと長かったのだ。これは一日で終わる仕事ではない。アシメックはその声に笑って言った。
「できる仕事だ。墓掘りを七日ほど続けるんだと思えばいい。みんなでやれば、必ずできる」
そしてアシメックは、自分の鍬をとり、大きくふるって地面に最初の穴を開けた。それを合図に、みなが一斉に掘り出した。
アシメックが引いた線を基準に、男たちは一心に掘っていった。風が起こす風紋のように、それは美しい文様だった。人間が、同じ心に従ってみなで働いている。それはまるで、不思議な風が地面に描いた不思議な文様のように見えるのだ。
みんなのために、いいことをするのだ。男というものは、そういうものだ。それがカシワナカの教えだった。カシワナ族の男たちは、その神の教えに従って働いているのだ。みんなで力を寄せ合い、働いている。それは実に美しい。アシメックはみなと一緒に働きながら、神が今自分たちを見ていると感じていた。村の危機を救うために働いている男たちを、今、カシワナカが見ている。
もちろん穴は一日では堀り終わらなかった。夏の太陽が照りつけ、汗ばんだ男たちが疲れを見せ始めるころ、アシメックは仕事を終わらせた。
「よし、今日はここまででいい。後は明日またやろう」
みんながほっとして、アシメックの顔を見た。族長の顔が、日差しを照り返して一段と立派に見える。彼は嬉しそうに、地面に掘られた穴を見下ろしていた。みんなも穴を見た。思ったよりも深い穴が、思ったよりも広く空いている。男たちは汗をぬぐいながら、それに自分で感動を覚えていた。これは、すごいことができるかもしれない。
トカムも、その感動を共にしていた。鍬の柄を握りしめながら、自分が掘ったところをじっと見降ろしていた。人間の腰あたりまでが埋まる深い穴が、自分の下に空いている。それを自分はやったのだ。そう思うと、トカムは何か、これに似たことを経験したことがある、と思った。何だったか。そうだ、子供のころ、山でうまく鳥を捕まえたことがあったのだ。飛んでいる鳥を、手を伸ばしてうまく捕まえた。あのときのうれしさと、これは似ている。
捕まえた鳥を見せた時の、母の嬉しそうな顔がよみがえった。
次の日の朝早く、アシメックが広場に来てみると、もうトカムがそこに来ていた。まだ他のものは集まっていない。
「やあトカム、早いな」
アシメックが声をかけると、トカムは恥ずかしそうに、「うん」と言った。
「仕事が楽しいのか」とアシメックが言うと、トカムはくちびるをかみしめた。トカムは今、穴を掘りたいのだ。そんなことは、土器を作っている時も、ヤルスベで色塗りの仕事を習っている時も、感じたことはなかった。
だがトカムは、自分の気持ちを言うのが下手だった。だから何も言わずに、小さくうなずいただけだった。だがそれでも、アシメックは嬉しかった。トカムはいい目をしていた。エルヅに数を数える力があるのを発見した時と、同じ予感がした。
やがてみんなが広場に集まってきた。アシメックは昨日と同じように、みなをイタカの野に導いていった。
汗を流して、鍬を振り、土を打つ。そのとき、鍬が土に食い込んで、穴が空く。トカムはそれが面白かった。自分の思うように、穴が空くのがおもしろかった。鍬の重さもここちよい。腕を振り上げる時、鍬が一瞬後ろに飛びそうになるのを、自分の手で押さえる感覚が、ここちよい。
おれ、できる。
トカムは土を掘りながら思った。それが、涙が出るほどうれしかった。土器を作る時も、帯を編む時も、みんなのように器用に作れなかった。それが恥ずかしくて、家に閉じこもりがちだった。このまま、何もできずに、何もせずに、人生終わるのか。そう思ってたまらなくなる時もあった。
おれ、穴を掘ろう。なんで今まで、掘らなかったんだろう。墓穴とか、囲炉裏の穴とか、みんな掘りに行こう。村中の穴、全部掘ろう。
涙を汗でごまかしながら、トカムは穴を掘り続けた。深いところまで掘った。地面が硬くなって難しいところも、一心に掘った。トカムの掘ったところは、ほかの奴が掘ったところと微妙に違っていた。なんとなく凸凹が少なく、形が整っている気がする。そこに何かを感じている者もいた。
男というものは、他の誰かに違うものに気が付くときは、痛いと感じる。穴を掘っているトカムは、みなにそれを感じさせるものがあったのだ。
「ようし、今日はもういい」
ひとしきり掘っていくと、やがてまたアシメックが言った。みなはほっと溜息をついて、作業をやめた。
「だいぶ掘れたな。七日かかると言ったが、もっと短くていいようだ」
イタカの野に現れた大きな溝を見て、アシメックは言った。
「この調子なら、あと二日でできる」言ったのはシュコックだった。
「このまま掘って行って、最後に沼の岸の土を掘りぬくんだ。そうすると、溝に一気に水が流れる。ここらへんの低いところに水が広がるだろう」
アシメックが手を広げながら指し示すと、みなはあたりを見回した。アシメックの予想では、この野の湿った土のある一帯はみな沼になるというのだ。
「浅い沼になるな」とシュコックは熱い感動を感じながら言った。
「ああ、そして来年の春には、ここらへんに稲の苗を植える。そうすれば、採れる米の量がずっと増える」
「でかい夢だ」
「やってみるさ」
アシメックは堂々と言った。
シュコックの予想通り、一連の作業は四日で終わった。みなの働きが予想以上によかったのだ。特にトカムの働き様はよかった。トカムは目を輝かせて働いていた。穴を掘るのが楽しくてしょうがないのだ。セムドに、穴を掘る仕事をしたいと言おう。トカムはもう胸の中にそんな決意を秘めていた。
いい感じだ。いいことが起こりそうな気がする。
アシメックは野の風を感じながら思った。
「よおし、岸の土を掘りぬくぞ。みなよけろ。溺れないと思うが、水が一気に行く」
みなが、水が来ると予想されるところの外に出たのを見計らって、アシメックは鍬を振り、沼の岸の土を抜いた。とたんに、あふれるように、水がほとばしった。オロソ沼の水が、一気に、みんなの掘った溝に流れ込んだ。
ああ!という声が湧いた。
水は見る間に溝を埋め、そこからあふれ出し、その周りの野に流れ出したのだ。
さらさらという音もない。水は静かに、だが、あっという間に、野を覆っていく。男たちは子供のように顔を輝かせた。流れてくる水から、鬼ごっこのように逃げていくものもいた。
「すごい」とサリクが言った。アシメックは水の中に立ち、水が流れていく様子を見ている。サリクはその姿をまぶしそうに見た。神カシワナカの幻を、その後ろに見たような気がした。
そして気付いた時、みんなは野に広がった沼の水面を見渡していた。オロソ沼は、今までよりも三倍は広がっていた。
流れるのをやめ、静かになった水面は、青い夏空を映し込み、真っ青な空がそのままそこに下りてきたように見えた。
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