計画
春になり、再びイタカにミンダが咲き始めるころ、アシメックはオロソ沼に舟を出した。同じ舟に、沼の見張り役のヤテクと、狩人組の頭のシュコックが乗っていた。
アシメックの計画に、セムドは難色を示したが、シュコックは興味を示してくれたのだ。
「とんでもないことだという感じはするが、できないことじゃないな」
シュコックは冷静だ。毎年かなり気の荒い狩人組の男たちをまとめているだけある。いい男が集団でやる仕事というのには、興味を持つ。
スライの稲舟はオロソ沼を魚のように走り、まだ水面に顔を出してきたばかりの、稲の若苗の間を巡った。
「これが、あのすばらしい米になるんだとは思えないな。一目見ただけでは、イタカの野に生える普通の草と変わらない」
アシメックが言うと、見張り役のヤテクが言った。
「全然違う。稲はもっと美しくて長い」
「そうだろう」アシメックは笑いながら同意した。ヤテクはオロソ沼の近くに天幕を張り、稲の成長を、若苗の時から収穫のときまでずっと見張っているのだ。
「これが若苗だな」アシメックは稲の株の一つに触りながら言った。ヤテクが答えた。
「うん。そこらに生える株は大きくなるんだ。底の泥がいいらしい」
「ふむ。これを抜いて、ほかのところに植えることはできるか?」
そう聞くと、ヤテクはしばらく困ったような顔をして黙った。何か言いにくいことを持っていそうだ。アシメックがもう一度聞くと、ヤテクはしぶしぶ言った。
「……うん、じつは一度、若苗の時、誤って稲を抜いたことがある。慌てて、ほかのもっと浅いとこに植え換えたんだけど」
「それで、どうなった」
「うん、ちゃんとその苗も育った。稲も実ったよ。ほかのよりは少し小さくなったんだが」
「よし、いい」
アシメックはそう言うと、櫓を操り、舟の方向を変えた。同乗しているシュコックが言った。
「見込みはありそうだ。少なくとも川の上に家を建てるなんて話じゃない」
「もちろんさ」
「仕事をするとしたら夏だな。狩人組は少し暇になる。人員を貸してやってもいいよ」
「助かるな。やつらは体がいい」
岸に舟を近づけると、ヤテクとシュコックを先に下ろし、アシメックは舟をおさえながら自分も飛び降りた。そして櫓を岸に突き刺したあと、二人と一緒に稲舟を抱えあげた。舟はいつまでも水の上に置いておいてはいけないというのが、カシワナの常識だった。
舟を岸に上げる作業をしていると、その脇を、釣竿を持ったネオが通った。それに気づいたアシメックは、気さくに、「よう」とネオに声をかけた。
驚いたネオは、アシメックを振り向き、少し上ずった声で答えた。
「ああ、アシメック」
アシメックはかかえていた舟を岸に下ろすと、手をはらいながらネオに近づいてきた。
「テコラは元気か?」
「うん、元気だよ。もうだいぶしゃべるようになった」
「いいな。女はものをいうのが早いっていうからな。かわいいか」
「かわいい。おれのことは、ネオって呼ぶよ」
嬉しそうにそう言うと、ネオはアシメックに挨拶をしてそこを去ろうとした。魚を釣りにいかねばならないのだ。最近ではもう、それが彼の仕事のようになっていた。しかしそのネオの背中が、前よりも一段と太くなっているのを認めると、アシメックはふと思い出して、もう一度声をかけた。
「ネオ」
呼ばれてネオはまた振り向いた。
「なに?」
「男の仕事があれば、声をかけるって言ったことがあったな。おまえ、鍬は持てるか?」
それを聞くと、ネオは迷いもせずに、「持てる」と言った。本当はまだ鍬など持ったことはないのだが。
「よし、いいだろう。この夏に、イタカで男の仕事をする。おまえも協力しろ」
「わかった。やるよ」
ネオははっきりと答えた。アシメックはほほ笑んだ。
そしてネオは、釣竿の先を返すと、急に村の方に向かって走りだした。釣りはやめたのだ。家に帰って、鍬を探し、持ってみねばならない。ネオは村への道を走りながら思った。
いい感じだ。ものになりそうだ。そんなネオの背中を見送りながら、アシメックは目を細めた。今はひとりでも、協力者が欲しいのだ。
ヤテクの天幕の前でシュコックと別れると、アシメックは村への道を半分帰り、途中からイタカに向かった。そっちから回らねば、例のイタカとオロソの境界には行けないのだ。
イタカの野にはミンダの赤い花が咲き群れている。エマナもたくさん摘んでいることだろう。小さい子の面倒を見ながらの仕事は大変だろうが、今のアシメックにはそんなことを心配している余裕はない。時々花を踏みながら、子供のようにまっすぐにオロソ沼に向かって走った。
オロソ沼の水面が見える、例の境界の所にいくと、アシメックは、二、三日前に地面に描いた印を探した。ここらへんの土を掘って川を作ればいいというしるしを、つけておいたのだ。数日のうちに草が伸び、そのしるしは見にくくなっていた。アシメックは腰のナイフをとり、そのしるしを描きなおした。
川の幅はアシメックの歩幅で二歩分もあればいい。長さは七十歩分くらいでいいだろう。問題は深さだ。どれだけ掘れば、水をこっちの野に引くことができるだろう。
「やってみねばわからんな」
アシメックは地面に描いたしるしを睨みながら独り言を言った。沼のすれすれまで足を運び、水に腕をつけてみたが、肩の辺りまで深く手を差し込んでも、底には届かなかった。オロソ沼は少し岸から離れたところから、急に深くなっているのだ。
「落ち込まないように気をつけねばならない」
アシメックは頭の中で工事方法を思い描いていた。いきなり水辺を掘ってはだめだ。水が流れてきて邪魔をする。野の方から掘って行って、最終的に、沼の岸に穴をあけて水を入れるのだ。それがいい。人員は何人いるか。
狩人組を貸してもいいとシュコックは言った。狩人組は今十七人ほどいるはずだが、全部は来るまい。気が乗らないやつもいるだろう。シュコックは狩人組の頭だが、全員がいつも彼の命令を聞かなければいけないというほどではなかった。
ネオは何とかなるだろう。セムドはトカムなら貸してもいいと言った。
アシメックは立ち上がり、村の方に戻った。そして広場を通り過ぎ、トカムの家に向かった。声をかけておこうと思ったのだ。
「いるか」
アシメックが言いながら、トカムの家の入口をくぐると、トカムは囲炉裏のそばで、茅を編んでいた。彼は今、干した茅草を編んで、帯を作っていた。鹿皮の腰布を抑えるための帯だ。そう器用ではないトカムは、そんな簡単な仕事でも、かなり苦労してやっていた。できあがる帯は歪んでいる。あまり人にほめてもらえるような品ではない。
「やあ、アシメック、なに?」
いきなり入ってきたアシメックに驚きながら、トカムは言った。しかしなんとなく用件はわかっていた。セムドから、ある程度の話は聞いていたからだ。
「話がある。実は……」
アシメックはトカムに、簡単にイタカに沼を広げる仕事の話をした。そして協力しないかと聞いてみた。
「鍬で土を掘るだけだ。石なんかも時々運ばねばならない。体があればできる仕事だ。やらないか」
トカムはアシメックの熱心な視線を受けながら、しばし戸惑って口ごもった。断る理由はない。ただでさえ、毎日暇を持て余しているのだ。
「お、おれなんかにできるかな……」
とトカムは苦しそうに言った。トカムにとっては、アシメックはまぶしすぎる存在なのだ。ろくに仕事もしていない自分にとって、毎日超人のように村を走り回って村のために仕事をしているアシメックは、あまりに遠いのだ。そのアシメックが、わざわざ自分の家に来て、仕事をしないかと言ってくれている。
「大丈夫だ、できる。鍬は持てるんだろう? 土をかくくらいなら、簡単だ。どうだ?」
アシメックは言った。トカムはくちびるを噛みながら、アシメックの顔を見た。真剣な目が、自分を見ている。
こんなこと、断ったら、おれは、もっとだめになる。トカムはそう思った。そして、半分泣きそうな顔をしながら、「わかった」と返事をした。
「そうか!」とアシメックは喜んだ。そしてトカムの肩に手をおき、もう一度言った。
「夏になったら、一緒にやろう。約束だぞ」
トカムはうなずいた。
トカムの家を出ると、アシメックは空を見た。高いところをまた鷲が飛んでいた。
いける。と思いながら、アシメックは鷲を睨んだ。やってみねばわからない。神もやってみろと言った。
その年の鹿狩りには、アシメックは最初から最後まで付き合った。狩人組のやつらと、いい感じで話をしておきたかったのだ。
例の仕事の話をすると、サリクは意外に消極的だった。今まで聞いたこともないような仕事をするのには、あまり気のりがしないようだった。だがレンドとモカドは興味を持った。やってみてもいいと言った。
「おもしろそうだな。でもオロソが広がると、鹿がイタカに来なくなるんじゃないか?」
「そこは大丈夫だ。水をひいても、アマ草が生えるところまではいかない」
「ほんとか?」
「ああ、そこはちゃんと土地を見てるんだ。イタカはオロソ沼の岸から傾斜してだんだん高くなっている。地面が高くなって水気がなくなって乾いているところからアマ草が始まっている。おそらくそこから先に水は行かない」
アシメックはそうしていろいろな男と話をつけていった。セムドとも話をし、最終的に、夏の仕事に協力してくれる男が、十五人決まった。
よし、これだけいれば、できる。
歌垣が終わり、夏が始まる頃、アシメックは決行を、至聖所から、神と先祖に宣言した。
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