クプダ


夢の中で、アシメックは山の中をさまよっていた。


秋の採集も済み、山は冬枯れの相を呈してきている。あらかたの木々は葉を落としていたが、紅葉した葉を残している木々も薄暗がりの中で灰色に見えた。


アシメックはオラブの遺骸を探していた。境界の岩はもうとっくに通り越していた。今まで見たこともないような木々の風景が見える。時々おばけのように奇怪な岩が前を遮った。それを飛ぶようによけながら、アシメックは山をさまよい歩いていた。


かん高い鳥の声がして、空を見ると、裸になった木の梢の向こうから、血のように赤くなった太陽が見える。まるで何か、おぞましいことが来ることを教えようとでもしているかのようだ。


オラブの死骸を見つけてはいけないと、言っているのかもしれない。だがアシメックは探したかった。放蕩者がどこでどんな死に方をしたのかを、確かめたかったのだ。


棘の多い藪を越えると、鹿の通り道があった。そこだけ下生えが薄くなっている細い道があるのだ。アシメックはしばしその道添いに歩いた。灰色の風景が続く。そうしているうちに、ふと、大きなイゴの木の根元に、夕焼けの空のような色をした、細長い蛇がいることに気付いた。ケラド蛇だ。毒々しい赤い色をしているが、毒はない。毒があるふりをしている小さい蛇だ。怖がることはない。


そう思って見ていると、蛇はするりと何かの穴の中に入っていった。気になって近寄ってみると、そこに小さい灰色のしゃれこうべがあった。わきにネズミの骨もある。


ああ、オラブだ。さっきの蛇は、この頭蓋骨の目の穴に入っていったのか。


アシメックは、イゴの木の下に転がっていたその骨をしばし見つめた。骨には何か汚いものがこびりついていた。嫌な臭いがする。暗い眼窩の奥ではケラド蛇がかすかに奇妙な声で鳴いていた。そう、ケラド蛇は鳴くのだ。蛇なのに、微かな声で鳴くのだ。


遺骸を見つけたら、砕いてやりたいと、誰かが言っていたが、アシメックはそんなことをする気にもならなかった。遺骸は朽ち果てて、獣のように山に転がり、蛇の巣になっている。それは放蕩者にふさわしいなれの果てのように思えた。もう人間とは思えない。その魂はおそらく、アルカラとは別の、誰も知らない魔の闇に吸い込まれていったのだろう。


おまえのおかげで村は大変なことになってるよ。


アシメックはオラブの頭蓋骨に向かって、心の中でささやいた。だがそれ以上のことは何もせず、踵を返して山を下り始めた。なんとかせねばならない。このままでは、カシワナ族が飢えてしまう。ヤルスベは味をしめて、カシワナの米をどんどんとっていくのだ。


境界の岩を超えると、突然山がなくなり、アシメックはいつの間にかイタカの野にいた。


季節は突然春になっていた。ミンダの花が咲き乱れている。


アシメックは村の方向に向かって歩いているつもりだったが、いつの間にか行く手にオロソ沼が見えてきた。どうしてだろう、と思っていると、頭の上から鳥の声がした。見上げると、大きな鷲が一羽、空を舞っている。いや待て、あれは鷲ではない。


驚いている暇もなく、その鷲は翼をはためかせ、見る間にアシメックに向かって降りてきた。アシメックは目を見開いた。それは背に大きな鷲の翼を生やした、実に立派な男であったのだ。自分よりも大きい。


アシメックは思わずひざまずいて頭を垂れた。カシワナカだ。間違いはない。


鷲の翼のある神カシワナカは、大きな風を引き起こしながら、アシメックの頭上すれすれを飛んで通り過ぎて行った。その時、アシメックはカシワナカの声を聴いた。


イタカの野に細い川を描き

稲を歩かせ

豊の実りを太らせよ

ケバルライ


その声を聴き終えたとき、アシメックはまた上空を見上げた。もうそこにカシワナカの姿はなかった。それはどういう意味だ、という問いを起こそうとしたとき、足元からケラド蛇の声がした。下を見ると、そこに細い蛇がいる。しかしそれは赤くない。むしろ青い。いや待て。よく見てみると、それは川だ。細い川だ。


アシメックは視線を導かれるように川の筋を追った。川の上流には、オロソ沼が見える。


そこで目が覚めた。


目を開けると、自分の家の天井の木組みが見える。アシメックは身を起こし、周りを見た。もう夜は明けたのか、家の中は幾分明るかった。少し離れたところの寝床で、ソミナとコルが一緒に眠っている。


アシメックは何かに操られるように、寝床から立ち、足を忍ばせて家の外に出た。まだ日は登りきっていなかったが、空は明るかった。彼は何かに掻き立てられるように、イタカの野に向かった。


そのときまだイタカは冬だった。冷たい風が山から吹いてきている。アシメックは肩掛けもつけてこなかったことに気付いたが、寒くはなかった。足はどんどん進み、イタカを横切っていった。この野を、南西の方にどんどん進んでいけば、オロソ沼につながっていくのだ。


東の空に太陽が全身を現す頃、足元がゆるくなってきた。ところどころに水たまりが見える。アシメックは足元に気を付けながら進んだ。やがて、行く手に静かなオロソ沼の水面が広がり、枯れた稲の群れが見えてきた。ここからが、オロソ沼だ。


稲は半身を沼に浸し、枯れていたが、美しかった。まるで神のようだ。これはカシワナ族の宝なのだ。カシワナカがくれた、極上のおいしい食べ物だ。これがあるからこそ、カシワナ族は豊かに太ることができる。みんないい暮らしをすることができる。だが、ここにある稲からとれる米だけでは、カシワナ族が食べるだけで精いっぱいなのだ。ヤルスベ族に分けられる分は少ない。だが、ヤルスベの要求はどんどん大きくなってくる。


どうすればいいのか。アシメックは顔をしかめて稲を見つめた。もっと、米がたくさん採れれば、このオロソ沼が、もっと広ければ。……広さ?


「クプダ(広さ)というんだ、場所が大きいことを、クプド(広い)というじゃないか」


その時、エルヅの言葉が頭にひらめいた。クプダ、広さ。


広くなれば、オロソ沼を広くすれば、なんとかなるのではないか?


イタカの野に細い川を描き

稲を歩かせ

豊の実りを太らせよ


夢で聴いた神の声がありありとよみがえった。たちまちのうちに、アシメックの頭の中にある情景が浮かんだ。川だ。川を掘ればいい。ここに川を掘って、沼をイタカに広げるんだ。そしてその沼に、稲を植えれば、沼が広がる、米がとれる量が増える!!


これか!!


アシメックは振り向き、イタカの野を眺め渡した。野も、オロソ沼に近い一帯には草が少なく、水たまりがあちこちにあった。野はオロソ沼に向かってわずかに傾斜しているのだ。地面も低く、ぬかるんでいるから、鹿もここまでは来ない。そうだ、この湿った辺りを、みんな沼にしてしまえばいい。川を掘って、水を流してしまえば、低いところはみんな沼になる。


アシメックはいつの間にかイタカの野を走っていた。村に帰り、ミコルの家の前にある板をたたいた。ミコルはようやく寝床から起きてきたところだった。呼ばれて外に出てみると、真っ青な顔をしたアシメックが息を切らせている。


ミコルの顔を見ると、挨拶もそこそこにアシメックはしゃべりだした。自分の心にあることを口でいうのが難しかった。ミコルはアシメックが何を言っているのか分からず、怪訝な顔をしている。アシメックは何度も説明した。


「イタカの野にオロソ沼を広げる?」

「ああ、土を掘って川を作るんだ。そして水を導いて、イタカに沼を広げるんだよ」

「……そんなこと、できるのか?」

「やってみねばわからない。とにかく、オロソ沼の近く一帯の野は、ほかより地面が低いんだ。それは確かめてきた。沼の岸の辺りの土を掘って、溝をつくれば水を導ける。それで沼が広がって、稲を植えれば」

「確かに、理屈では、稲が増えるが」

「そうとも、米の収穫量も増える」


アシメックは夢でカシワナカの声を聴いたことは言わなかった。それはミコルには言ってはいけないような気がしたからだ。神の声を聴くのはミコルの仕事だった。だからアシメックは、ミコルに占いをしてくれるようにたのんだ。ミコルは戸惑いつつも、風紋占いをした。茅布の上に色砂をまき、息を吹いてその文様を見る。


「どうだ?」

アシメックが聞くと、ミコルはしばし黙った。かすかに、のどの奥でミコルがうなるような声をあげた。

「……やって、みろとは聞こえる。だが」

「だが、なんだ」

「そんなこと、できるわけがない」


アシメックはそのことは聞かなかった。やってみろの一言だけでいい。彼は挨拶もせずにミコルの所を離れ、今度はセムドの家に向かった。そしてセムドを呼び出し、また同じことを説明した。


セムドは家の外に出て、藁を打っていた。アシメックの姿を見ると立ち上がって挨拶をしようとしたが、その前にアシメックが話し出した。今度も怪訝な顔がアシメックを待っていた。


「イタカに、沼を?」

「ああ、広げるのだ」

「確かに、沼が広くなれば、米の収穫量も増えるが」

「ああ、ヤルスベの要求にも対処できる」

「しかし、ほかにもっと簡単な方法があるだろう。溝を掘って川を作るなんて」

「男が十人もいたら、ひと夏でできる。人集めをしてくれないか。やってみたいんだ」


アシメックは熱を持ってまくしたてた。その様子が少し気ちがいじみて見えたので、セムドは少し落ち着けと言った。言われて、アシメックも少し度を失っていたことに気付いた。自分の思い付きに酔っていたらしい。だが、夢で聴いたカシワナカの声は、このことだとしか思えなかった。


アシメックはもう一度セムドに人集めをしてくれと頼んだ。それはセムドの仕事だからだ。しかしセムドはいい顔をしなかった。


冬は寒い。春は鹿狩りが忙しい。野でそんな大それた仕事をするとしたら、夏しかなかった。しかしそれでは夏の土器づくりが難しくなる。土器づくりは重要だ。毎年作れば作るだけ、壊れる土器も多いのだ。余っている人員は少ない。


「……トカムは、何とかなる。あれはいまだにろくな仕事をしてないんだ。だがほかのやつは、難しい」

セムドは細い声で言った。まだ頭がアシメックの考えについていけないのだ。


「そうか、トカムには声をかけておこう。とにかく、夏までに人を選んでおいてくれ。それまでに、おれは細かい計画を考える」


そう言ってアシメックはまた、セムドの元を離れた。足は自然にまたイタカの野に向かった。


イタカの野とオロソ沼の境界あたりで、アシメックはずっと地面を睨んでいた。エルヅは、歩く足の幅を数えて、広さを測ると言っていた。それをやってみた。


太陽を見ながら方角を測り、自分の歩数をざっと数えてみた。水たまりをよけながら歩き、歩数はすぐに百を超えた。アシメックはエルヅにならい、百以上も数えた。オロソ沼の近くの、低い湿った地面の広さは、南北に向かってだけで六百歩あまりもあった。東西は数えられなかったが、同じくらいある。かなり広い。これだけの広さを沼にして、稲を植えるには、どれだけの人数がいるだろう。土木工事だけなら十人で十分だ。だが、稲を植える時にはそれだけでは足らない。


稲は、春の若い苗の内に、とって植えればいい。毎年沼から自然に生えてくる苗を、いくつか株分けすればいい。そうすれば、いくらでも増えるはずだ。だがそれをやる時期と人員は……


歌垣の前だ。狩人組には鹿狩りをやらせればいい。そのほかの人間には、稲を植えさせる。


アシメックの頭の中には、着々と計画が盛り上がって来ていた。夢で聴いた神の声をもう一度思い出した。


イタカの野に細い川を描き

稲を歩かせ

豊の実りを太らせよ


わかった。おれはそれをやるのだ。なんでもない。カシワナカの教えにもあった。とんでもない難を解決せねばならない時は、とんでもないことをやってみろと。


やってみるしかない。





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