暗雲


ヤルスベに米を渡して後、しばらくは平穏な日々が過ぎた。


米ほどうまいものはない。食えば生きる苦しみをすべて忘れるほどうまいのだ。涙を流しながら食う者もいる。だから米を渡せば、ヤルスベ族はカシワナ族への怒りをしばし忘れてくれる。


だが、人間というものは痛いものなのだ。カルバハのように、うまいことに味をしめればまたやることがある。


今までよりもたくさんの米を食ってしまえば、その味を覚えて、また食いたくなるだろう。アシメックはそのことを考えていた。


季節は夏を過ぎようとしていた。夏の土器作りも終わり、また秋が来る。イタカにはコクリの株があちこちで芽生えていた。


アシメックは澄んだ青空を見ながら、その日、オロソ沼に向かった。稲の実り具合を見ようと思ったのだ。今年のヤルスベとの交渉では、おそらく例年よりも多い米を要求されるだろう。今年はどれくらい米がとれるものか、それが気になったのだ。


沼の岸につくと、稲はもう丈高く伸びていた。赤米の稲は人間よりも背が高い。それが広い沼にびっしりと生え群がっている。もう穂ができていた。実りはまだだが、今年もそれなりの収穫はありそうだ。


稲の群れを見ていると、アシメックは神に祈りたくなる。神は何でこんないいものを下さるのか。カシワナの村のオロソ沼に、なんでこんないいものがあるのか。アシメックはしばらく稲の群れを見渡しながら、澄んだ感動に浸っていた。涙さえにじんだ。


そしてしばらく岸に添って歩いていると、岸辺の大きな岩の上で、釣りをしているネオに出会った。傍らに茅袋を置き、その中にはもう何匹かの魚が入っているらしく、びくびくと震えている。


ネオは一心に、沼に刺した釣り糸の先を見ていた。アシメックがいることにすら気付かない。アシメックはふとほほえみ、ネオに近づいて行った。


「よう、釣れるか」


声をかけられて、ネオはびっくりして振り向いた。見ると後ろにすごく大きな男がいる。それが族長アシメックであることに気付くのに、しばらくかかった。ネオのような子供は、めったに族長に近寄ることはできないのだ。


「う、うん、まあまあ」


震える声で答えた。アシメックはフウロ鳥の羽を一本髪に差し、ビーズの首飾りを三つかけていた。頬の赤い文様がすごく恐ろしく見える。だが目はとても暖かかった。ネオに笑いかけている。


サリクと全然違う、とネオは思った。


「釣りはおもしろいか」とアシメックは言った。

「うん、面白い」とネオはぼんやり答えた。冷汗が流れるのを感じた。胸がどきどきし始めた。

「結構釣ってるな。一人では食えない。誰かにやるのか」

「うん、モラにやるんだ」

「ほう、女にか」

「うん、テコラにもやるんだ」

「おお、おまえの娘だな」


ネオはアシメックが自分の娘のことを知っているのに、驚いた。自分がモラのところに転がりこんで、ずっと一緒に暮らしていることが、村のみんなに知れ渡っていることは、知っていたが。


「娘はかわいいか」とアシメックは聞いた。この変わった子供に、興味があったのだ。ネオは聞かれると、目を輝かせて答えた。

「うん、すっごくかわいい。モラが産んだおれの子供なんだ。もうはってるんだよ。おれが抱くとすごく喜ぶんだ」

「普通男は、赤ん坊にはあまり興味を持たないもんだが」

「うん、みんなそういうけど」

ネオは少し暗い顔をした。自分がテコラに夢中だということを、よくサリクやほかの男たちにからかわれるからだ。


「でもおれ、モラとテコラと一緒に暮らせないのは嫌なんだ。ずっと一緒にいたい。それって、だめなの?」

「だめじゃないさ」アシメックは笑って言った。「おまえがそうしたいならしたらいい。誰にも迷惑をかけないことなら、別にいいんだ」

アシメックがそう言ってくれたので、ネオは顔を明るくして笑った。そしてまた釣り糸の先に目をやった。


「なかなか釣れないな」

「うん、ここの魚も結構かしこいんだ。おれがしょっちゅう来るから、最近は、おれの影を見るだけで逃げるんだよ」

「ほう」

「だんだん、釣れる魚は少なくなってきてる。でもおれ、今んとここれくらいしかできないんだ。弓作りも習ってるけど、サリクみたいに立派なのは作れない」

「弓作りもおもしろいか」

「うん。結構おもしろい。でも、おれは狩人組に入りたいんだ。もっと、すごいことやりたい。立派な鹿捕まえて、テコラにいいものやりたい」

「愛しているんだな」


そのことばを聞いて、ネオは驚いた。「愛している」などという言葉は、この当時ではめったに聞くことができないものだったからだ。聞いてもしばらく意味がわからないほどだった。


少しの間沈黙してから、ネオはやっと答えた。

「うん」

そう言ってから、涙がにじんだ。自分でもそのわけはわからなかった。「愛」などという言葉がよくわかるほど、この当時の人間は深い経験をしたことがなかったのだ。


「おれ、男の仕事したい」とネオは言った。アシメックは黙ってネオの顔を見た。ネオの目が涙で濡れている。


「モラとテコラのために、おれ、早くおとなの男になりたいんだ。そういうと、サリクはまだ早いって笑うけど」

「おれは笑わないぞ」

「ほんと?」

「ほんとさ。よしわかった。覚えておいてやる。おまえが今言ったこと、覚えておこう」

「そ、それ、どういう意味?」

ネオはアシメックの顔を目をまるまると開いて見た。アシメックはその顔に笑いかけながら言った。


「いい男の仕事をしなければならなくなった時、おまえのことを思い出してやる。そして声をかけてやるよ」

「ほんと?」

「ああ、本当だ。おまえはネオだったな」

「そう、ネオ!」


ネオの顔に明るい喜びが満ちた。族長が自分の名前を覚えてくれていたのだ。それはすごくいいことだった。特に男にとっては、自分を認めてもらえたことに等しい。


「おれ、なんでもやる!!」ネオは叫ぶように言った。

「よし、ほんとだな。男と男の約束だぞ」

「うん!!」

そう言うと、ネオとアシメックは自然に手を握り合った。合意すると、男はそうするものなのだ。そしてその約束は、絶対にたがえてはならない。


いいものを拾ったな。そう思いながら、アシメックはネオを残してオロソ沼を離れた。まだ子供だが、いい目をしている。女のために男が本気になるということはよくあることだったが、あれはどこかが違うようだ。


ものになりそうな男は、子供でも押さえておかねばならない。


その年の稲刈りも無事に行われた。不安はあったが、アシメックの指導のもと村の皆はきびきびと働き、オロソ沼の稲を収穫した。米も例年と同じくらいの収穫量があった。エルヅは稲蔵の中を歩き回り、壺の数を嬉しそうに数えていた。


収穫祭も楽しく行われた。アシメックはカシワナカの扮装をしてみなの前で踊りながら、何かが例年と違うことを感じていた。それが何なのかはわからない。だがそれは人間ではないということはなんとなくわかった。ヤルスベ族との間の心情のもつれはまだあったが、村の皆はそう心配はしていなかった。いつも通り、収穫を喜び、酒や歌を楽しんでいる。人間が変わっているのではない。変っているのは、そう、たぶん、世界なのだ。


何もしなくても、毎年オロソ沼には稲が繁る。当然のように収穫している。毎年のようにそれを神がくれる。もらえるのが当たり前だと思っていた。だがもしかしたら、それは違うのかもしれない。アシメックの心に、そういう思いが付きまとい始めていた。


やがてまた、ヤルスベ族から例年の交渉部隊が来た。ゴリンゴを中心に、四、五人の男たちがヤルスベから来て、鉄のナイフといくらかのほかの宝を見せ、米をくれと言った。それが前と違うのは、要求する米の量がずっと増えたことだ。


「三十は多い」

アシメックはゴリンゴの要求を聞いて驚いた。いつもより格段に大きい数字だが、彼が持ってきた交換用の宝は去年と同じくらいなのだ。


しかしゴリンゴは引き下がらなかった。アシメックが渋ると、途端にカルバハを持ち出し、彼女が村でどんな悪さをしているかという話をし始める。それを聞くと、カシワナ族の役男たちも何も言えなくなった。


カルバハはどんどんおかしくなっていた。村のものがどんなに諫めても、働こうとしない。毎日のように人に無体ないちゃもんをつけて、詫びの品をせしめようとするのだ。


結局、ぎりぎりに話を詰めて、二十九壺で話をつけた。ゴリンゴは不満がありそうだった。しかしそれ以上とられては、カシワナ族の食べる分が少なくなる。米はうまいだけではない。村のみんなの貴重な食糧なのだ。あまりとられては、カシワナが飢えてしまうかもしれない。


「オラブのやつめ!」


ケセンの川岸でゴリンゴたちの舟を見送りながら、アシメックの後ろでセムドが悔しそうに言った。あれから、村ではオラブの被害はとんと起きなくなっていた。しかしやつのやったことはずっと響いている。ヤルスベ族はカシワナを許しそうもない。


山を探して遺骸を見つけ、それを粉々に砕いてやりたいほどだ。誰かがそんなことを言った。アシメックは目を細めた。その目は向こう岸を見ているようで見ていない。心の中には、山奥のどこかで獣のように野垂れ死んでいるオラブの姿が浮かんでいた。


どこで死んでいるにしろ、今頃は骨になっているだろう。


泥棒などヤルスベにもいると、ゴリンゴは言ったことがあったが、それがこんな形で、自分たちに暗い影を落とすことになるとは思わなかった。


いつの時代にも、オラブのような馬鹿な奴は出てくるのだ。嫌なことをしてみんなに迷惑をかける。そのたびに、いい人間が努力して何とかしてきたのだが。


今回のことも、何とかして乗り超えねばならない。だがどうすればいいだろう。答えを探そうにも、先祖の教えの中にも何も見つからない。カシワナとヤルスベの仲がこんなに険悪になったことは、今までになかったのだ。


一度米をたくさん食べられると、その味をしめるだろうと、アシメックが予想していたことは外れなかった。ヤルスベは、あれから、何度もカシワナに米を要求するようになった。米はうまいのだ。食べればもっと食いたいと思う。ヤルスベ側では、それは例年、秋の悦びだということになっていたが、カルバハをネタに要求すると、ほかの季節でも食えるということになった。それでどんどん要求するようになったのだ。


カシワナの稲蔵から、米の壺がどんどん減っていった。交換として一応何らかの宝はもらえるが、それは食べられるものではない。


このままでは、カシワナ族が飢えてしまう。アシメックはだんだん危機感を深めていった。


その年の冬は一応乗り超えられた。米の量は減ったが、その分栗の収穫量が例年より多かったのが助かった。しかし、干し肉や干し魚がだいぶ減った。村人は食べ物が減った時のために、たいてい干した鹿肉や魚を蓄えているのだが、その備蓄が尽きてしまったものもたくさん出た。


春になればまた鹿が来る。今年はいつもよりたくさん狩らなければならないだろう。だが、あまり鹿を捕り過ぎると、鹿がイタカに来なくなるという話も伝えられていた。実際、遠い昔、あまりに多くの鹿を狩りすぎて、イタカに下りてくる鹿の数が激減したことがあったのだ。


村を覆っている不安の暗雲は、どんどん濃くなってきていた。ケセン川での漁師同士の軋轢もまた増えてきていた。どうにかせねばならない。


毎日のようにあせりに肝をあぶられながら、アシメックは考え続けた。どうにかせねばならない。





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