要求


その年の春、アシメックは例年参加している鹿狩りに参加しなかった。歌垣の楽師役もほかのやつにたのんだ。そのことに、村のみんなも不安を感じ始めていた。オラブのことが原因で起こった、ヤルスベ族との間の険悪な雰囲気は、日に日に濃くなっていた。


「もともと、評判のよくない女ではあったらしいんだ」

歌垣が終わって数日の後、アシメックの家に役男が集まって話し合った。ダヴィルの報告を聞くためだ。ダヴィルはヤルスベとの付き合いが深かった。だからヤルスベに行って、つてを頼っていろいろと調べてきたのだ。


「向こうの知り合いに、いろいろ話を聞いてみた。あの女、まだ若いんだがね、言いがかりをつけて無理矢理人のものを奪うなんてこともしたことがあるらしい」

ダヴィルは言った。アシメックは囲炉裏を見ながら、苦い顔をした。


「あれから何度かお詫びの品を届けに行っただろう。あれで味をしめたらしいんだ。わざと怪我をして、人のせいにして、お詫びの品をせびるなんてことをやってるんだと。それでヤルスベ族は困ってるそうだ」

場からため息がもれた。役男たちは呆れた顔を見かわした。膝を打って嘆くものもいた。


「オラブのやつめ! なんてことをしてくれた!」

「どうする。こんなことになったのもカシワナのせいだって、ヤルスベ族の人間は言ってる」

「まずいな。鉄のナイフがもらえなくなるかもしれない」


役男たちは口々に言いあった。アシメックは目を閉じ、考え込んだ。先祖の知恵やカシワナカの教えの中に答えを探そうとした。だが何も見つからない。ヤルスベ族との間の感情が、こんなに険悪になってきたのは初めてだ。今までにも、何度かケンカじみたことはあったが、なんとかうまく行っていた。神の名前は違うが、どちらの部族の神も、みだりにケンカをしてはいけないと教えていたのだ。


だが、人間の感情というのはどうしようもない。神の教えがあるから、表向きはおとなしくしているのだろうが、見えないところで何かがくすぶっているような気がする。


「ゴリンゴは怒っているのか」

セムドがダヴィルに聞いた。ダヴィルは大仰にため息をついて、言った。

「もちろん。そうきついことは言わないがね。態度が冷たい。オラブがあんなことをしなければ、あの女もいい女になったかもしれないんだ」


アシメックは苦いものを噛むように顔をゆがめた。なんとかしなければならないという思いはあったが、雲行きはどんどん怪しくなっていた。ケセン川でも漁師同士の小さな小競り合いが頻発している。大きなケンカに発展しないよう互いにバランスはとっているが、それもいつ破たんするかわからない。


「どうする、アシメック」

ダヴィルがアシメックを見て言った。アシメックは目だけを動かしてダヴィルを見た。場に沈黙が流れた。みなの目がアシメック集中する。しばらく奥歯を噛んだあと、アシメックは口を開いた。


「ミコルの占いでも、何にも出ない。神は何も言ってくれない」


「そうなのか」


「そうだ」


役男たちは息を飲んだ。神が何も言ってくれないということは、よほど大変なことなのだ。村に何か嫌なことが起きたときは、今までなら巫医を通して神が必ず何かを言ってくれていた。


アシメックはまたしばし黙った。彼の脳裏の中では、青い空が広がり、その中で一羽の鷲が舞っていた。彼の心はまさにその状態だった。何かに取りすがろうにも、何も見えない。


今まで、まずい、と思うことは何度かあった。そのときは、神の教えを思い出して、正しいと思う方を選んだ。そうすれば必ずうまくいった。ならば、どうすればいい。今このとき、どうすればいい。神は何を教えてくれた。


正しきものついには勝たむ。


正しいことは何だ。お詫びだと言ってまた何かを持っていけば、余計に悪いことになるだろう。どうすれば、ヤルスベとの関係を元に戻せるのか。


「ゴリンゴと話をする」


アシメックは言った。それしかない。とにかく今できることは、それだけだ。


寄り合いが終わると、アシメックは早速楽師たちのところに行き、川岸で歌を歌ってくれるように頼んだ。お互いに行き来するときは、川岸で歌を歌って事前にそれを向こうに知らせる習わしになっていた。だが、カシワナの楽師たちがその準備をしている最中に、ヤルスベ側から歌が聞こえてきた。


明日いく

明日いく

ゴリンゴがいく

準備して待て


知らせを受けたアシメックが慌ててケセン川の岸に行くと、向こう岸でヤルスベの楽師たちが丸太をたたきながら繰り返し歌を歌っていた。聞いたこともないような調子だ。ヤルスベの歌は、カシワナ族の歌とは少し違うが、リズムの軽い、聞いておもしろいものだった。それなのに今聞いている歌は、まるで歌とも思えないような歌だ。低いところで抑揚のない音階を繰り返している。まるで怒った時の獣のうめきのようだった。


アシメックもすぐに反応した。追いついてきた楽師たちに、応えの歌を歌わせた。


明日来い

明日来い

われわれは待っている


そっけない返答だ。そうと応えるしかない。川を挟んだ話が成立すると、ヤルスベ族の楽師たちはすぐに帰っていった。アシメックはセムドに命じ、準備をさせた。


翌日の朝早く、アシメックは川岸に立って向こう岸を見た。そこではもうすでに白い舟の上にゴリンゴが立っていた。アシメックは目を細めてそれを見た。遠目にも、ゴリンゴが大きな熊の毛皮を頭からかぶっているのがわかる。あれはヤルスベ族が本気の話をする時のかっこうなのだ。アシメックもフウロ鳥の羽のついた冠をかぶり、キルアンの毛皮で作った肩掛けをつけていた。胸の前で腕を組み、堂々と岸辺に立った。真正面にゴリンゴの姿を見据えた。飲まれてはならない。


いずれ来るとは思っていたが、とうとう来るか。何を要求するつもりだ。アシメックが見つめる中で、ゴリンゴの船は滑るように川を横切ってきた。


舟が岸につくと、ゴリンゴはヤハ、と言ってアシメックに挨拶した。アシメックも、ヤハ、と返した。


話し合いは、いつも米の買い付けの交渉が行われる家で行われた。囲炉裏を真ん中にして、左右にカシワナ族とヤルスベ族がわかれる。ゴリンゴには四人のヤルスベ族の男がついてきていた。アシメックも周りに四人の役男を座らせた。緊張が辺りの空気に漂った。しばし、ゴリンゴとアシメックは目を合わさなかった。


囲炉裏の中ではくべた榾の透き間に、小さな火種が見える。火種は絶やしてはならない。一度消えるとまた起こすのが面倒だからだ。だからいつも誰かが必ず管理している。だがアシメックが見ているその火種は、今にも消えそうに見えた。


最初に口を開いたのは、ゴリンゴだった。


「知っていると思うが、カルバハは泥棒になった」

カルバハというのは、オラブが怪我をさせた女の名前だった。アシメックはそれを聞いて緊張した。

「これから、我がヤルスベの村に大きな災いを起こすだろう」

ゴリンゴが言うと、アシメックの後ろで役男たちが顔を見かわした。アシメックはゴリンゴを見た。ゴリンゴはその視線を受け、一瞬まぶしそうに目を細めた。頭にかぶっている熊の毛皮が、濡れたように光っている。


「わがヤルスベの村には、カシワナへの恨みがくすぶっている。このままでは、嫌なことが起こる恐れがある」

ゴリンゴは続けた。アシメックは黙って聞いていた。


「ヤルスベとカシワナの間に、いやな争いが起こるのは、わたしとて、望まない。お互いに大きな怪我をする。神の教えにも反する」


ゴリンゴは冷静だ、とアシメックは思った。感情的ではない。だが何かを隠している。


「ゆえに、このことに関して、カシワナのまことを示してもらいたい。わがヤルスベ族の気持ちがすむように、なにかいいことをしてもらいたい」


ゴリンゴは言った。アシメックは顔をそびやかせ、一旦わきにいるダヴィルを見た。ダヴィルはかすかにうなずいた。アシメックはゴリンゴに目を移し、言った。


「わかった。要求はなんだ」


美しい声だ。アシメックの声は、若い男のように澄んでいる。聞いていて気持ちがよい。ゴリンゴはまた目を細め、しばし黙ったあと、言った。


「米が欲しい。われわれも米が好きだ。できるなら毎日食いたいほど、米はうまい。米を、今までよりたくさんもらえたら、ヤルスベ族のものも、気がすんでくるだろう」


それか、とアシメックは思った。ヤルスベ族がカシワナ族への怒りを持ちながらも、大きなケンカをしないのは、米がもらえなくなると困るからなのだ。


アシメックは苦いものを食わされたかのように、しばし黙った。だが頭の中ではすばやく計算していた。背後で役男たちがざわめいている。だが迷っている時間など無駄だ。アシメックは厳粛に言った。


「エルヅを呼べ」


交渉は長引いた。エルヅはどう計算しても、十八壺以上は無理だと言った。それ以上やるとカシワナ族の食べる分が少なくなりすぎる。しかしそれだけではヤルスベ族は満足しなかった。


互に要求を戦わした上、最後はアシメックが決断した。足りない分は、自分と役男たちに我慢させればいい。最終的に、二十壺をヤルスベ族に渡すことで、交渉は成立した。


「では、明日にでも、約束を果たしにもらいに来る」

そう言って、ゴリンゴは舟に乗って帰っていった。その後ろ姿を、悔しそうに役男たちが見ていた。アシメックはゴリンゴの背中に、これだけではすまなそうな何かを感じていた。


空を見ると、高いところを鷲が舞っている。まるで神が空から自分を見ているようだ、とアシメックは思った。このことはたぶんこれだけでは終わらないだろう。なんとかせねばならない。だが、どうすればいいのか。


村のみなが家に帰り、ケセンの川岸に誰もいなくなっても、アシメックはまだそこに立ち、空の鷲を見上げていた。




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