テコラ誕生


冬が来て、最初の雪が舞いはじめたころ、その事件は起こった。


ケセン川で、漁場をめぐって、カシワナ族の漁師とヤルスベ族の漁師が争ったのだ。


協定で、カシワナ族の漁場と決まっているはずの漁場で、ヤルスベ族の漁師が漁をしたのである。それを見てカシワナ族の漁師が怒ったのだ。


殴り合いのケンカになる前に、冷静なやつがみんなをとめたが、険悪な雰囲気が流れた。ヤルスベの漁師は一旦は引き下がったが、また同じところで漁をしてやるというような目をしていた。


「オラブの件が響いている」

報告に来たダヴィルがアシメックに言った。アシメックはあごを撫でながら難しい顔をした。


そばではコルがソミナと一緒に、小さな木の実の独楽で遊んでいる。アシメックは自分の家の中にいた。ダヴィルは目を細めながらアシメックの渋い横顔を見つめていた。


「不穏だな。あれからお詫びには何度か行ったんだが」

「女はびっこをひいているそうだな」

「ああ、怪我が完全に治らなかったらしい」

「まずいな」


アシメックは深いため息をついた。コルは板の上で回る独楽を見てはしゃいでいる。ソミナはそんなコルを嬉し気に見ながらも、時々兄の難しそうな顔を心配してみていた。


「ミコルの占いによると、オラブはもう死んでるとさ」

アシメックが言うと、ダヴィルは、「そうだろうな」と言った。最近オラブの被害がとんと起きないからだ。村人の間にも、オラブが死んだのではないかといううわさが流れ始めていた。


「アルカ山の奥で野垂れ死にか。誰も葬ってくれない。悲しんでもくれない。ひとりで馬鹿なことばかりした報いだ」


ダヴィルは吐き捨てるように言った。アシメックは、あの日山で見たアロンダの幻を思い浮かべていた。あれはあの女の霊だったのだろうか。ならばなぜあんなところに現れたのだろう。


アシメックはオラブの死とアロンダが無関係ではないような気がしていた。だがもちろん、そんなことは誰にもいうことはできない。アシメックはダヴィルの目を感じながら言った。


「とにかく、今ヤルスベ族には、おれたちへの恨みがくすぶっているんだ。これからも同じようなことは起こるだろう。嫌なことにならないよう、どうにかしなければならない」

「漁場のことはどうする」

「一度ゴリンゴと話をしてみる」


コルが歓声をあげた。板の上で、二つの独楽がぶつかったのだ。


その二日後、アシメックはヤルスベでゴリンゴと話し合った。漁場のことはなんとかなった。ゴリンゴは冷静だった。ケセン川の漁場の協定は守らなければならない。余計な争いは互いを疲れさせるだけだ。しかし話し合いをしながらも、アシメックは常に威圧的な何かを感じていた。ゴリンゴの目つきから、時々不穏な光が見える。アロンダの言葉が気になる。


要求してくる、か。何を要求してくるつもりだろう。


ヤルスベから帰る船の上で、アシメックは考えた。


冬は平穏に過ぎていくようで、何かが確実に変わっていた。アシメックは、ネオという子供が女の家におしかけて、一緒に住み始めたという話を聞いた。


「ほう? 女のほうは身ごもっているのか」

「歌垣で一度交渉してから、女になついちまったんだ。親が困ってるんだが、どうする?」

セムドが少し渋い顔をしながら、アシメックに相談した。男が女の家に押しかけるなどということは、これまでになかったからだ。


「女の方はどうなんだ?」

「別に痛いとは思ってないらしい。ネオは毎日魚を釣って、女にやってるんだ」

「ほう、魚が釣れるようになったのか」

「子供にしてはうまいそうだ」


アシメックはおもしろいと思いながらあごを撫でた。エルヅのことでもそうだが、彼は変わったやつというのが、けっこう好きなのだ。


「ネオの親は、戻って来いと言ってるそうだよ。女の方の親も戸惑っている。トラブルになると困るが」

「様子を見よう。誰かにそう迷惑がかかるわけでもないだろう」

その場はそれだけで終わった。


おもしろいやつだな。一度話をしてみるか。セムドが帰った後、アシメックはそう思いながら、家を出た。冬の澄んだ空が広がっている。最近やたらと、空を見る。何か不穏な空気が、村を覆っているような気がするのだ。その中で、ネオの話は妙に明るいことのような気がした。これは何かのきざしだと感じる。何のきざしだろう。


アシメックはその足で、セムドに聞いていたモラの家の前に行ってみた。突然訪ねるわけにもいかないので、外から様子を見ようと思い、しばらく家を観察していた。粗末で小さな家だ。話によると、モラという女はまだ母親と一緒に暮らしているという。兄弟はひとりいるが、まだ小さい。親は干した木の実から腹の薬を作る仕事をしている。モラはそれを手伝っている。小さい家で、家族だけでも狭いのに、ネオが転がり込んできて困っているという。


「だがそう小さくもないな。ひとりくらいはなんとかなりそうじゃないか」

アシメックは家を見ながら思った。


しばらくすると、どこからともなく細い子供が現れ、いそいそと家に入っていった。近くでアシメックが見ていることにも気づかない。手には銀色の魚を持っていた。ほう、あれがネオか、とアシメックはうなずいた。


まだ子供だが、大人のように鋭い目をしていた。十二歳になったばかりだという。それくらいならまだ親の家を離れるのは早い。だがネオは女の家に入っていくのに、まるで我が家に入っていくかのように、挨拶も遠慮もしなかった。


普通、男が女の家に入る時は、かなりおびえるものだが。もう遠い昔になってしまったが、この自分も女の家に忍んでいくときは、周りで誰かが見ていないかときょろきょろしたものだった。だがネオにはなんの迷いもない。


家の中から、ネオと女が話す声が漏れ聞こえたが、何を言っているかはわからなかった。しかし女が魚をよろこんでいるらしいことはわかった。それなりになんとかなっているようだ。アシメックはひとつ息をつくと、自分の家に戻った。


家ではソミナがコルの腰布を換えてやっていた。小便で汚したという。ソミナはこのところコルに夢中だ。世話をしたくてしょうがないのだ。小便で汚れた腰布でさえ、うれしげにつまんで、いそいそと洗いにいく。アシメックはそんなソミナの様子を満足そうに見た。妹が幸せになっていくのは、彼の悦びだった。


その幸せを阻むものは、なんとしてでも何とかせねばならない。アシメックは囲炉裏のそばに座りながら、また考え込んだ。漁場の交渉をした時の、ゴリンゴのいわくありげな目つきが思い浮かんだ。


常に不安なことはあったが、その冬は平穏に過ぎた。春の風が吹き始め、イタカにミンダが咲き始めるころ、モラは子供を生んだ。娘だった。


モラが一晩苦しんで産んでくれた娘を抱いた時、ネオは震えて涙を流した。神に出会った時でさえ、こんな目はしないだろうというほど、大きな驚きの目をした。


「これ、おれとモラのこども?」

「そうよ」


モラは寝床で疲れた目をしながら、満足そうに答えた。初めての出産は怖かったが、なんとか自分でやり終えたことが、自分でもうれしかったのだ。ネオが自分の産んだ娘を抱いて、泣いて喜んでいるのも、おもしろかった。そんな男など今まで見たことはなかったのだ。


「か、かわいいな。名前、なんてするの?」

「テコラってつけるの。わたしの好きな名前。いいでしょう」

「うん、いいよ、いいよ」


ネオは素直に喜んだ。それは「気持ちのいい香り」という意味だった。女の子らしくていい。花やおいしい食べ物の香りみたいに、きっといてくれるだけでうれしい娘になるだろう。ネオの手の中で、テコラは指を吸いながら眠っていた。小さいのに、もうまつげがある。爪も生えてる。そんなことが不思議でたまらなかった。なんていいものなんだ、これ。


ネオはテコラをモラに戻すと、飛び上がるように立ち上がり、そのまま何も言わずに家を出て行った。そして走って村を横切り、サリクの家に飛び込んだ。


「サリク、おれ、子供ができたんだ!」

「ああ、生まれたのか」

サリクはいきなり飛び込んできたネオに、少し驚きながらも、快く迎えた。そして喜んでお祝いの言葉を言ってやった。自分に子供ができることは、男にとってもいいことなのだ。ちゃんとしたいい男であることの証明になる。


「男か、女か?」

「女! テコラっていうのさ、かわいいんだよ!」

「そりゃ、赤ん坊はかわいいさ。おれも妹ができたときは、よく抱いてあやしてたよ」


目を輝かせながらいうネオの顔を、笑って見返しながら、サリクは言った。よほど子供ができたことがうれしいらしい。


「ねえサリク、おれを狩人組に入れてよ」

「おいおい」

突然ネオが言うので、サリクは苦笑した。


「狩人やりたいんだ。おれ、いい仕事して、テコラにいいものやりたいんだ」

「まだ早いよ。十二になったばかりだろう。狩人組は十七くらいにならないと入れない。それも、体の大きなやつだけだ」

「おれ、でかくなる、必ず! だからシュコックになんとか言ってくれよ」

「わかった。なんとなく話しといてやるよ。でもすぐには無理だぞ。狩人組は厳しいんだ」


サリクは言ったが、ネオはまだ納得しかねるようだった。何かをしたくてうずうずしているらしい。子供が生まれて、親になったからには、もっとすごいことがしたい、なんてことを考えているのが、目を見たらわかる。男はこういう目をすることがある。サリクも男だからそれはわかる。でもネオはまだ十二だった。歌垣には出られるが、大人の男に入るにはまだ早い。


しかし悔しそうな顔をしているネオを、そのまま突き放すこともサリクにはできなかった。釣りだけでは満足できないのだろう。少し考えたあと、サリクは言った。


「わかった。弓の作り方くらいなら、教えてやる」

「ほんと?」

ネオは目を見開いて、サリクを見た。

「狩人組に入りたいなら、弓の作り方は基本中の基本だからな。今から覚えておいて損はない。入れなくても弓作りで協力できる」

「うん、うん!」


ネオは飛びつくようにその話に乗った。


ネオがサリクに習って、弓作りを熱心に覚えている話は、アシメックの耳にも入った。大人の男になりたくて、うずうずしているらしい、と、ある日シュコックがおもしろそうに彼に話したのだ。


「狩人組には入れそうか」

アシメックも笑いながら言った。

「サリクに言われて、見てはみたんだがね、ないとは言い切れない。もう少ししたら体が伸びてくる。骨組みなんか見ると、それなりに大きくなりそうな感じはするよ」

「シュコックがそう予想するなら、見込みはあるんだろう」


アシメックは、ネオの姿を思い出しながら言った。確かに、まだ細いが、何かものになりそうな雰囲気はする。おもしろいやつだ、とアシメックは思った。何かになりそうな気がする。注意して見ていこう。将来的に、何かがあるかもしれない。


族長というものは、男というものを常に見ていなければならない。村を守り、何とかしていけそうないい男がいれば、子供の時から押さえておかねばならない。アシメックもまたそうだった。前の前の族長は、アシメックが十五になる前から、いずれこいつは族長になると思っていたらしい。そういうことを思わせる何かが、アシメックにはあったのだ。


族長は村を守らねばならない。村のみんなの幸せを、守らねばならない。


冬は乗り越えた。もうすぐまた鹿狩りの季節が来る。キルアンがいなくなったからそれは幾分楽になるだろう。しかし、アシメックの胸からは不安が去らなかった。


オラブが残した遺恨が、ヤルスベ族の人間の目を暗くしていた。ケセン川でも、漁師たちが陰険な目を交わしているという。


何かが起こる気がする。それは何なのか。


狩人組がイタカにいき、鹿を七頭も仕留めたころのことだった。アシメックは漁師から噂を聞いた。


オラブが怪我をさせた女が、働かなくなっているらしいということを。



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