放蕩者の死
泥棒には泥棒なりのやり方というものがある。
境界の岩を超えてはならないという、先祖の教えを破れば、すぐにおもしろい場所が見つかる。人間がこうだと決め込んでいることの裏をかけば、嫌な奴が生きることのできる道もできるのだ。それがオラブの考えだった。
オラブは放蕩者だった。子供のころから、親の言うことなどほとんど聞かなかった。生まれた時から醜く、親にさえも嫌な顔をされて見られることがあった。それがひねくれた原因と言えばそう言えるかもしれない。
まだ腰布もつけない子供のときから、人の物を盗んでいた。人の物を見る目だけはすばらしくよかった。三軒隣の家の子供が、親から栗をもらったのを、誰よりも早く見つけるのだ。そしてその子供がそれを食べる前に、巧みに盗む。
気付かれないこともあったが、気付かれることのほうが多かった。盗みがばれると、親にしこたま尻を叩かれた。罰だと言って、食事を抜かれることも多かった。親は半ば愛情があって、オラブの盗み癖を何とかしてくれようとしていたのだが、オラブはそんなことなど気にもかけなかった。嫌だった。何もかもが。みんなが、自分より美しい。自分よりいい子だ。
(おれは生まれた時から、みんなに嫌われていたのだ。醜いからだ。何にもしないで、人の物ばかり盗むからだ。そんなことは知ってる)
アルカ山の奥の洞窟で、トカゲを噛みながら、オラブはぼんやりと思っていた。腰布に使っている破れた鹿皮が少し湿っている。昨日、川を泳いだからだ。濡れたまま干しもしないで身につけたままなので、まだ乾かない。
おれは、あの女が見たかっただけなんだ。
昨日のことを思い出しながら、オラブは思った。アロンダを見かけたあの日から、彼はあの美女が忘れられなかったのだ。カシワナ族の女とはまるで違う。目も顔も髪も、姿もまるで違う。なんであんなにきれいなのか。もっとよく見てみたい。
そういう思いにとりつかれた彼は、あれから何度か川を泳ぎ、ヤルスベ側の岸を見に行った。首尾よくアロンダに出会えることもあった。だが、会えない時の方が多かった。
美しいものというのは、一体何なのだろう。おれは醜い。たまらなく醜いんだ。カシワナ族の女なんて、おれを見るだけでぞっとして逃げるんだ。いやなんだ、あんなやつら。ぶすばっかりなんだ。でも、あの女は、なんであんなにきれいなんだろう。カシワナ族とは全然違うし、変な格好してるのに、なんできれいに見えるんだろう。
オラブは、あの女の正体が知りたかったのだ。美しさの正体が知りたかったのだ。だけど女はいつも、オラブを見ると逃げるように消えていく。
女はおれを見ると、みんな逃げる。
オラブはひとりで腹をかきながら、思った。いつもひとりでいる彼は、自分と話をするように、そういう思いを自分の中に書く。
この前も、ヤルスベの岸にアロンダに似た女を見つけたので、思わず彼は岸に上ってしまった。よく見ると、それはアロンダではなかった。アロンダなら、悲鳴もあげないで逃げるだけだが、その女は、オラブを見るなり、素っ頓狂な叫び声をあげて、逃げ出した。
まずい、と思ったオラブは女を追いかけた。
村の方から男の声がしたので、すぐに川に戻って逃げたから、オラブはその女が、恐怖のあまり木に登り、高い枝から落ちて足を折ったことは知らない。とにかく彼は、逃げることだけは誰よりもすばやかった。
誰に知られることなくカシワナ側の岸につくと、至聖所の裏に回り、暗い抜け道を通り、アルカ山の自分のねぐらに戻った。村人は誰も知るまい。イタカを通らずに、アルカ山にゆける道があることを。こんなことも、至聖所の裏を通ってはならないという村の決まりを破ったから、知れることなのだ。
神の教えなんか守っていたら、絶対にわからないことを、オラブは知っていた。
ネズミの血がうまいことも。境界の岩を超えたところに、こんないい洞窟があることも。
人から物を盗むために、ありとあらゆる知恵を、オラブは身につけていた。村のみんながいいものを隠している場所が、だいたいどこらへんなのかということも、ほとんど知っていた。レンドは一番いいものを、家の西側の物入れの中に隠す。ジタカはいつも、栗を皮袋に入れて寝床のそばに隠すが、時々場所を変える。そんなことをすぐにオラブは見抜いた。
頭がいいと言えばいいと言えるかもしれない。遠いところにあるものを、くっきりと見ることもできた。だからあの日、遠いところから見たアロンダが、見たこともないような美しい女であることも、すぐにわかったのだ。
なんであんなものがいるんだろう。アロンダのことを思い出すたびに、オラブの胸の中で虫のようなものがうずく。美しくなりたいなどと思ったことはないはずだった。女なんてみんなブスに見えた。自分よりきれいで大きな男はたくさんいたが、そんなやつらもみんな嫌な目で見れば、嫌なものに見えた。馬鹿なやつらなんだ。正直に働いたって、みんなおれにとられるのに。
こんな世界にあるものになど、惚れるほどいいものはないのだ。オラブはそう思っていた。
それなのになぜあれだけはあんなにきれいに見えるのか。男女の交渉をしたいんじゃないんだ。そんなこととっくに馬鹿だと思ってる。あんなことのためになんで男がいいことをしなければならないんだ。それなのに、あの女のことだけが忘れられない。
美しいものって、何なのだ。なぜおれは、いつも、あれを見たいと思ってるんだろう。
寂しくなったオラブは自然に、右の腰につけているはずの、ネズミの頭蓋骨に手をやった。だがそれはそこにはなかった。いつも、お守りのようにヒモをつけて腰にぶら下げていたのだが、どこかで失くしてしまったらしい。
だれも友達はいないオラブにとっては、ネズミが友達のようなものだった。木の皮の中に住んでいるチエねずみは、かなりいい養分になった。山にはたくさんいるし、そんなに苦労なく簡単に捕ることができる。
村のやつらと付き合わなくても、生きていけるんだ。ネズミを食えば、それほど飢えないですむ。ネズミを食うなっていう話は、親から何度か聞かされたことがあったが、もうそんなことを守る気持ちは、子供の時に捨てていた。
歯向かって生きることが、楽なのだ。誰にも謝らずにすむ。嫌な奴に馬鹿にされずにすむ。おれはこれでいいんだ。
盗んだ栗を噛みながら、オラブは洞窟の中で漫然と過ごしていた。季節はだんだん冬に傾いていく。そろそろ寒くなる。モカドから盗んだ鹿皮を、彼は肩にかけた。この冬はこれが重宝するだろう。
もちろんオラブは、その頃アシメックがヤルスベに出向いて、自分が怪我をさせた女に、小さくなって謝っていることなど何も知らない。
しかしそれからしばらくして後、アシメックが山狩りを決行した日は、さすがに困った。村の男たちが繰り返し自分の名を呼ぶ声が、ここからも聞こえたのだ。
境界の岩を超えて来たらどうしよう。ここはそれほどあそこから遠くないのだ。馬鹿な奴が、禁を破る気にならないとは限らない。ほんとはこんなこと、誰にでも簡単にできることなのだ。
洞窟の奥で身を小さくしながら、オラブは声も立てず、ネズミのように震えていた。カシワナカのことなんて馬鹿にしていたけど、思わず、見つからないようにと祈りそうになった。見つかればおしまいだ。捕まって、嫌なことをされる。みんなに馬鹿にされる。それだけはいやだ。
しかし結局、だれも境界の岩を越えてこなかった。村のみんなの声が聞こえなくなったとき、オラブはほっとした。やっぱり馬鹿なやつらだ。あんなことなんでもないのに、クソまじめに決まりを守っているのだ。
山に夕闇がかかり、洞窟の中が寒くなってくると、オラブは自分の体を抱いた。いまだに湿っている腰布が煩わしかったが、脱ぐ気も起こらない。村のみんなはもう帰ったろうが、不安はぬぐえなかった。誰かがまだ残っているような気がした。
こんなくらし、いつまで続くのか。オラブはいつもは考えないようにしていることを、考えた。いつでも人目を忍んでいるんだ。友達なんて誰もいない。生きてる人間はみな、おれのことが嫌いなのだ。
オラブはアシメックのことを思い出した。彼だけはいつも、何とかしてやるから帰って来いと言ってくれる。
ネズミのように黒い彼の目が、零れ落ちそうなほど、オラブはあることに気付いて愕然とした。あんなアシメックの言葉など、信用していなかった。甘えたことを信じさせて捕まえようとしているのだと思っていた。だがこのたびは、そのアシメックの声が全く聞こえなかったのだ。
なんで、いつものあの言葉を言ってくれなかったのか。何とかしてやるから帰って来いと。心を揺り動かされないわけじゃなかった。今戻れば、村でまっとうに生き直すことができると、思わないこともなかったのに。
不安が一層寒さを感じさせた。だがオラブはすぐに、暗闇の中に逃げた。そんなことは馬鹿だ。何にも痛いことなんかないのだ。おれはこれでいいんだ。
夜が深まって来る。眠れない頭を無理矢理眠らせるために、彼は腰の辺りを探った。ネズミの頭蓋骨はなかった。
朝目を覚ますと、全身が枯れ葉のようにしびれていた。足の先に感覚がない。まるで何かが腐っているようだ。腰布はまだ湿っている。
体が動くようになるまで、時間がかかった。腹が空いている。何か食わねばならない。だが、蓄えてある栗を噛む気にはならなかった。ネズミが食いたい。ぬるい血をすすりたい。
オラブは何も考えず、のっそりと立ち上がった。そしてのろのろと洞窟を出た。外に出ると、梢を透く光が明るい。風はなく、ひやりとした空気はもう冬がそばにきていることを教えている。
オラブはぼんやりと風景を見ていた。何かが、昨日と違っているような気がした。
アシメックが何も言ってくれなかったということが、まだ心の隅にひっかかっていた。
かん高い鳥の声が聞こえた。あれはキジの声だ。捕まえればうまいだろうが、すばしこくてオラブにはできない。彼はチエねずみの巣がありそうな木を探した。
何本かの木の皮をはいでみたが、ネズミは見つからない。腹が鳴った。なんでもいいから食いたいが、体があまり動かない。
「こっちにきて」
ふと、声が聞こえた。女の声だ。まさかと思いつつ、オラブは顔をあげた。少し離れたところの木の陰に、きれいな女がいる。
アロンダ?
オラブは目を疑いつつも、その女がいるところに向かって、ふらふらと歩いた。だが女はすぐに身を隠した。
なんでだろう。なんであの女は、あんなにきれいなんだ。女だっていうだけで、なんであんなにきれいなんだ。
オラブは何かにとりつかれたように歩きながら、思った。梢を透く光が、だんだん濃くなってくる。風が吹き始めた。森の木々が、何かを感じたように、ざわめいた。だがオラブには何もわからない。
さっき女が見えた木のところに来ると、オラブは何かやわらかいものを踏んだ。見ると足元に、チエねずみの死骸がある。オラブはすぐにそれを拾った。まだ少し暖かい。死んで間もないやつだろう。これなら食える。オラブはほくそ笑みながら、洞窟に戻った。女のことはもう忘れていた。
洞窟の奥に座り、オラブはネズミを食った。皮を裂き、血をすすった。血はもう冷えていたが、うまかった。ネズミの肉も筋も骨も、存分に噛んだ。その姿を誰かが見れば、なんと哀れなことだと思ったことだろう。だが暗闇の中にいるオラブには何もわからない。何も見えない。
洞窟の中に、腐ったネズミの匂いが漂っていることにも、彼は気付かないのだ。
食えないしっぽを捨てて、食事は終わった。頭蓋骨をしゃぶりながら、オラブはまだ満足しない腹を撫でていた。慢性的な空腹に、胃が痛むが、それを何とかする気にもならない。馬鹿になっていればいいのだ。忘れればいいのだ。何もかも。
時間はまるで巨大な黒い芋虫のようだ。
のろのろと進む。
ぼんやりとしているうちに、また夜になった。
風の音が静かになり、冷気がまた洞窟の中に入ってきた。
激しい腹痛を覚えたのは、眠りかけた時だ。
突然下腹がきりきりと痛み、便意を覚えた。オラブは立ち上がり、外に出ようとしたが、間に合わなかった。洞窟の中で水のような糞を漏らした。吐き気が出るほどいやなにおいが洞窟に満ちた。
今までこんな腹痛を覚えたことはない。腹が痛くなったことはあったが、じっとしているうちになんとかなった。だがこの腹痛はただ事ではない。あのネズミだ。死んだネズミを食ったからだ。だがそんなことに気付いてももう遅い。
オラブは洞窟の中で一晩中もだえ苦しんだ。何度も糞を漏らした。口の方から出てくるものもあった。
だれか、だれか助けてくれ。
オラブは消え入りそうな意識の中でそう思った。村にいる、知っている人間の顔が何人か思い浮かんだ。母親の顔も浮かんできた。だが、誰も助けてくれるはずがない。
アシメック……!
オラブは族長の名を呼んだ。あれなら助けてくれるような気がしたのだ。だがそのとき、耳元でまた女の声がした。
「彼はもう来ないわ」
オラブは思わず振り向いた。幻のように、そこに美しい女がいた。
オラブは驚いた。なぜだなどと思う気力もない。激しい体力の減退の中で、彼は無意識のうちに繰り返した。
なんでなんだ。なんでおまえはきれいなんだ。
すると女は、哀れみのこもった目で、オラブを見た。何もかも知っているという目だ。
「愛しているからよ」
女は言った。そして消えた。
翌朝、梢を透いた光が洞窟の入り口を照らす頃、オラブはもうこときれていた。
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