オラブの変
その年の稲刈りも無事に終わった。村の皆で協力し合い、オロソ沼の豊かな稲を刈り、村の稲蔵にはまたたくさんの米が入った壺が並んだ。エルヅがそれを嬉しそうに数えている。
「今年の壺の数は去年と同じだよ。またうまい米がいっぱい食える」
エルヅは最近楽しそうだ。場所の大きさを数える方法を編み出して以来、いろいろな場所を数えている。ただそれだけのことなのだが、数えられることそのものが楽しくてしょうがないらしい。
「クプダ(広さ)と名付けることにしたんだよ。場所が大きいことをクプド(広い)というじゃないか」
「ああ、そうだな」
アシメックも面白そうにうなずいた。誰かの明るい顔を見るのが、彼はうれしいのだ。
「いろんなクプダを数えているんだ。この前はレンドの家の中を数えさせてもらった。レンドには変な顔されたけど、おれは数えるのが好きだし。迷惑はかけないから」
「ああ、いいよ。宝蔵の見張りをさぼらない程度に、自分の好きなことはやればいい」
アシメックが言ってくれたので、エルヅは嬉しそうに笑った。エルヅもアシメックが好きなのだ。子供のころから変わった奴だと言われてきたけれど、アシメックだけはいつでも、エルヅのこういうところを好きだと言ってくれる。
アシメックはエルヅのそばを離れると、自然、足をイタカの野の方に向けた。オラブのことが気になってしょうがなかったのだ。稲刈りは何の支障もなく無事に終わったが、ミコルの占いのこともあり、何か妙なことが起こるような予感がしてならない。
エルヅのように、村で生きる方法を見つけてやれれば、オラブも何とかなるんだ。そういう思いをアシメックは捨てられなかった。だが、状況は全然別の方向に行っているような気がした。この世には、人間の力ではどうにもならないことがある。神でなければわからないことがある。それは知っていた。だが、かけらでも希望があるのなら、何かをやってやりたい。
だが、オラブは全然違うところに行こうとしている。境界の岩を超えて、神にも祖先にも村のみんなにも背を向けて、長いことひとりで生きている。何が彼を生かしているのだろう。神ではない何かに従っているのだろうか。それが魔というものだろうか。
カシワナ族の神話では、魔というものは、人間を嫌なことにする影のようなものでしかなかった。ネズミはその使いであるという話はあったが、それが確かな形をとって現れる話はなかった。
カシワナ族の人間の心には、いつも太陽のように神カシワナカがいた。正しく、美しく、雄々しい神。鷲の翼をもつ、大きな男の姿をした神。それがアルカラという天国を作り、このカシワナ族の村を作ったのだ。
そのカシワナカの威光を脅かす魔の影は、わずかなものでしかなかった。世界はほとんど光に満ちていたのだ。まじめに働き、よいことをしていけば、どんな苦労があっても、正しいものが最後には勝つのだと、カシワナカは言った。その通りだった。
時にはオラブのようなものが出て、嫌なことをすることがあったが、いつでも最後には正しいものの方が勝った。悪いことをしたものは滅びていった。
だがあのオラブは、その神に逆らったまま、境界の向こうで、もう何年も生きているのだ。たびたび村人から物を盗み、何度も追いかけられているのにかかわらず、一度も捕まったことがない。
正しいものが常に勝つなら、すぐにでも捕まるはずなのに。
そのことに、アシメックは不安を感じていた。もしや、神カシワナカを脅かすような魔が、オラブを助けているのだろうか。
そんなはずはあるまい。すばらしい神カシワナカを脅かす魔など、いるはずはないのだ。
米の収穫が終わって数日後、例年のようにまたヤルスベ族が米を買い付けに来た。ゴリンゴと何人かのヤルスベ族の人間が来たが、その中にはアロンダの姿はなかった。
有名なヤルスベ族の美女を見られることを、内心期待していたやつは、少々がっかりしたらしい。今年の交渉が終わった後、ヤルスベ族の人間にアロンダのことを尋ねるやつがいた。それによると、アロンダは最近病気になって寝付いているらしい。だから来れなかったというのだ。
「ほう、病気か」
「胸が悪くなったんだとさ」
「そりゃいかんね。胸の病気は、心に重いものがあるっていうぞ」
「隠し事でもあるのかな」
アロンダが病気になったという話は、多少の尾ひれをつけながら、村に伝わっていった。アシメックもそれを耳にしたが、たいして気にはしていなかった。
稲刈りが終わると、山の採集がある。イタカの向こうのアルカ山に木の実やキノコを採集しに行くのだ。今年の秋の実りもすばらしかった。栗の木は例年になくたくさんの実をつけていた。アシメックも、去年と同じように、野生の林檎の実をもいだ。実を取る人間のほうが不安になるほど、林檎はたくさんの実をつけていた。
アシメックは境界の岩の所にいき、その向こうを見た。オラブに声をかける気は起らなかった。去年とは何かが違う。あのときはまだ人間の世界にいたオラブが、今は全然別の世界にいるような気がするのだ。
なぜだろう。何が、去年とは変っているのか。
榾を背負っていた女が一人転んでひざをすりむいたが、ほかには大して何事もなく、今年の採集は終わった。子供が一人、鳥を捕まえたと言って喜んでいた。珍しい鳥だ。キジに似ているが、羽の一部が白い。
それを見てアシメックははっとした。前の族長の教えに、山で変わったものが取れた時は気をつけろというのがあったのだ。
アシメックは子供に言い聞かせ、その鳥をキノコ三つと取り換えた。子供が持っていては危ないと感じたのだ。鳥はもう死んでいた。子供の話では、捕まえた時にはもうすでに死にかけていたという。
形はキジだが、両方の羽の部分だけが白い。他に特に変わった様子はなかった。だがこいつは食ってはならない。何かがある。帰ってミコルに聞いてみよう。
しかしその鳥を見せられたミコルは難しい顔をしてしばし沈黙した。そんな鳥など見たことはなかったのだ。風紋占いをしても、相変わらず何もわからないという。
「昔の知恵に、似たようなことはなかったか」
アシメックは聞いた。
「そうだな。若い頃聞いた話に、白い蛙がとれたことがあるというのがある」
「ほう、それで」
「特になにもなかった。誰もそれを食えなかったから、すぐに沼に逃がしてやったそうだ」
「そうだろうな。変わったものは食ってはならないと、前の族長も言っていた」
「その鳥は山に埋めてやったほうがいい。なんにもしないほうがいいだろう」
「ああ、そうするよ」
アシメックは鳥を茅布で包み、一晩は自分の家においた。だがその翌日の朝早々、アルカ山にそれを埋めに行った。境界の岩が見えるあたりに穴を掘り、その鳥を茅布に包んだまま埋めた。作業が終わると彼はまた境界の岩のところに行き、その向こうを見た。
山はだんだんと冬枯れに近くなってゆく。紅葉していた木もどんどん葉を落とし、裸に近くなっていく。風も冷たかった。岩の向こうの闇は深いが、その奥で何かがうごめいているような気がする。
不安が再び胸の奥で凝結するのを感じた。オラブの影は、彼の中で一つの魔の形に変わりつつあった。幻影だ、そんなことは。と彼は打ち消そうとした。あいつは弱くて馬鹿なやつなのだ。なんとかしてやらねばならない。だがなぜ、そのオラブの姿が今、得体のしれない魔物のようなものになって、自分の中に現れるのだろう?
アシメックはどんよりと曇った不安を不意にちぎるように、踵を返して、山を下りて行った。そのアシメックがイタカの野を歩いていた時、向こうから誰かが走って来るのが見えた。ダヴィルだった。真っ青な顔をして、アシメックを目指して走って来る。
「アシメック! 大変だ!!」ダヴィルが叫んだ。
「どうした!!」と言いつつアシメックも走った。野の中ほどで二人は出会い、話し合った。
「オラブが出た。なんと、ヤルスベに出た!」ダヴィルは息を切らせながら言った。
「なんだ、それは!」
アシメックは目を丸くした。
「川辺で洗濯をしてたヤルスベの女に、襲い掛かったそうなんだ。ヤルスベの男が、かんかんに怒って言いに来たんだよ。女の話では、刺青をしていなかったからカシワナの男だと。どんな風体かって聞いてみたら、オラブだとしか考えられない」
「ほんとうか、それは!」アシメックは言いながら、足早に村へ向かって歩きだした。歩きながら、ダヴィルと話した。
「相手の女はオラブに追いかけられて大けがをしたらしいんだ。オラブはすぐに逃げたらしい」
「捕まってないのか」
「あいつ、魔にでも取りつかれてるのか! いつでも煙のように消えやがる!!」
アシメックが村に戻ると、遠くから、歌が聞こえてきた。川の方からだ。アシメックは息をのんだ。ヤルスベの歌だ。ヤルスベ族が、川の向こうで丸太をたたき、歌を歌っているのだ。
アシメックは走ってケセン川に向かった。後をダヴィルも追った。空の上で、鷲が舞っている。その鳥が、自分を見ていることを、アシメックは奇妙な感覚で感じていた。
ケセン川の岸では、大勢の村人が不安そうに集まっていた。アシメックが現れると、みんなはすがるような目で彼を見た。
向こう岸にはヤルスベ族の人間が大勢集まり、楽に合わせて大きな声で歌っていた。
あしたいく
あしたいく
ゴリンゴがいく
用意して待っていろ
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