アシメックは山の中にいた。オラブを探しているのだ。


春になれば一度人を繰り出して山狩りをせねばならないと思っていたが、みな忙しく、結局できないまま秋になっている。それが気になっていたので、アシメックは一人で山に来ていたのだ。


オラブはこの山のどこかに住んでいるのだろう。姿を見たものはいなかったが、それらしい痕跡を見たものはいた。誰かが木の皮を無理矢理引き裂いたあとがあったというのだ。


山を大事にする村のものは、木を引き裂いたりなどしない。山の木は大切にしなければならないという、カシワナカの教えをちゃんと守っているからだ。木は人間に恵みをくれるのだ。大事にしなければ罰があたる。子供でも、そんなことはしない。


なぜ木を引き裂いたのか。おそらくネズミの巣か何かを探すためだろう、とミコルが言った。馬鹿な奴は飢えるとネズミでも食うのだ。だが村の人間はネズミだけは食わない。それは魔の使いだという言い伝えがあった。見るだけでぞっとするのだ。


ネズミを食べるフクロウは、それゆえに神性を持っていた。魔の使いをやっつけてもくれるのだ。


アシメックは境界の岩に立ち、そこから先に行こうかどうか迷った。オラブはこの岩の向こうのどこかにいるに違いなかった。だが行こうとしても足が動かなかった。一度踏み込んだことはあったが、それは見事に自分の中に痛い記憶として残っていた。


先祖や神の教えを破るのは、やるべきことではない。自分の何かが汚れるような気がする。


だがオラブはその汚れの中に生きているのだ。神の教えにも先祖の教えにも歯向かって生きているのだ。苦しくはないのか。誰も友達はいないのに、神にさえ逆らって、どうして生きて行けるのか。


オラブの気持ちを思うと、アシメックは暗黒を見るような思いがした。


オラブに声をかけようとしたが、今はそれもできなかった。何度でもやってやらねばならないという気持ちが、なぜか今は起きなかった。それは何か、どこか、山に不穏な気が流れていたからだ。


そんなことをしてはならないと、誰かがアシメックに聞こえない声で言っているような気がした。


そういう時は、その声に従った方がよい。それはアシメックの方針だった。なんとなくしないほうがいいという感じがするときは、やらないほうがいいのだ。そのほうが後にいいことになることが多かった。


アシメックは境界の岩のそばから山奥の闇を長いこと見ていたが、しばらくすると思い切るように大きくため息をついた。そして山を下りて行った。


アルカ山を下り、イタカに出ると、高い空に鷲が舞っていた。アシメックは目を細めて見上げた。


何かが起こるような気がする。ふとそんなことを思った。そしてそれはおそらく、オラブと関係のないことではないのだ。何とかしなければならない。いつまでもこれは放っておける問題ではないのだ。イタカの野を歩きながら、アシメックの思いは見えない何かの中に這いこんでいた。何かをしなければならないという不穏なあせりが、心臓をあぶっていた。


村に戻って家に帰ると、家の前で、コルがしゃがんで、地面を小枝でひっかいて何かを描いていた。人の顔に見える。なかなかにうまい。アシメックは心がほぐれるような気がして、コルに声をかけた。


「うまいな。だれの顔だ」

するとコルは、明るい声で、「かあちゃん」と言った。


アシメックは絵をよく見た。ユカダにも、ソミナにも見える。コルにとっては、どちらも大事な母親なのだ。どちらなのだと問い詰めることはよしたほうがいい。アシメックはコルの頭をやさしくなでると、家の中に入っていった。すると外でソミナの声がした。


「コルや、おいで、虫がいるよ」

アシメックが入り口から外を覗いてみると、ソミナが大きな甲虫を手に持って、コルに見せていた。コルは虫が好きなのだ。コルはうれしそうにソミナの膝にだきつき、虫を見ていた。


コルが来る前は、虫になど何の興味もなかったがな。最近ではよく探してくる。ソミナはコルを愛しているのだ。我が子のように世話を見ている。コルの嬉しそうな顔を見ているソミナの顔は、本当に幸せそうだった。


子供をもらってよかったと、アシメックは思った。


族長の仕事は、こんなみんなの幸せを守ることだ。少しでも不穏な要素があれば、それを忘れてはならない。常に何とかしようと努力せねばならない。


さて、オラブをどうするべきか。アシメックは囲炉裏のそばに座って考えた。火種のくすぶっている囲炉裏を、鹿の骨でつつきながら、自然アシメックの思いはオラブの暮らしのことに飛んだ。


山でネズミも食って生きているという、その暮らしはどんなものなのか。まるで想像ができなかった。一人で何を考えているのか。あらゆるものに背を向けて生きて、どんな思いがするのか。


あれは弱いのだ。人より小さく醜く、体から嫌な匂いがすることで、子供のころから嫌われていた。それがつらかったのだろう。村のみんなが、全部自分よりいいものだと思うのだ。それでみんながうらやましくて、人のものを盗むようになった。人のものを盗むのは間違ったことだ。カシワナカも厳しくいさめている。そんなことをすれば大変なことになるぞと、親が何度もしかったが、オラブはやめなかった。


とうとう村にいることができずに、山に逃げた。


オラブが逃げた時、アシメックはまだ族長ではなかった。役男をしながら心配そうにオラブを見ていた。あの時、なにがしかのことをしてやっていれば、こういうことにはならなかったかもしれない。


エルヅのように、いいところを見てやっていれば、なんとかなったかもしれないのに。


そんな風に心を砕いているアシメックの心などおかまいなしに、次の日、オラブのことがまたアシメックのところに飛び込んできた。モカドが蓄えていた鹿肉と鹿皮をごっそり盗まれたというのだ。


「ほう、狩人組を狙ったのか」

報告に来たモカドの話を聞きながら、アシメックは呆れた。

「鹿肉が欲しかったんだろうさ。用心深く隠しておいたのに、どうして見つけられたんだか。簡単にはわからないと思ったのに」

「女たちが言っているよ。オラブは人が用心して隠していると、余計にそこを目ざとく見つけるとね」

「泥棒は泥棒なりに、腕があがるってか」

モカドはため息をついた。盗まれた鹿肉のことはあきらめてもいいが、鹿皮のことは悔しくてならないようだ。自分が初めてしとめた鹿からとったものだからだ。


アシメックは家の裏に回り、宝蔵にモカドを連れていった。そしてエルヅに言って、村の財産の中から鹿皮を一枚出させた。それを渡して、モカドに機嫌を直せと言った。


「とにかく、オラブをなんとかしないといけないな。本当に人を繰り出して山狩りをせねばならない」

「でももうすぐ稲刈りだ。みんなも忙しくなる」

「うむ。時期を選んでなんとかしよう」

新しい鹿皮をもらって幾分表情が明るんだモカドを送り出しながら、アシメックは言った。


後ろでエルヅは、しきりに何かを数えている。エルヅは数えるのが好きなのだ。広場や家の中の大きさを数えることを考え出してから、また新しいことをやり始めているようだ。オラブにも、そういうところを見出してやりたい。なんとかしてやれないものか。


宝蔵を出て、空を見ると、高い空をまた鷲が飛んでいた。それが、今のアシメックの不安を掻き立てるような気がした。


何かが起こるような気がする。この肝に砂をもみこむような苦しさはなんだろう。アシメックは急にミコルに会いたくなった。占いをしてもらおう。


訪ねると、ミコルは家の中で魚骨ビーズの首飾りをいじりながら、しきりに神謡をうなっていた。神謡とはカシワナカの神話を語る歌のことだ。ミコルが時々皆のために歌ってくれる。その様子が少し近寄りがたかったので、アシメックはしばし声をかけることができず、入り口で立ち尽くしていた。そのアシメックに、ミコルのほうが気付いて、声をかけた。


「やあ、アシメック、どうしたんだ」

「いや、ちょっと気になることがあるんで、占いをしてもらおうと思ってきたんだ」

「気になること?」


アシメックはオラブのことに不安を感じるということを話した。何か嫌な予感がしてならないという。


「確かにな。いつまでも放っておくことはできない」

ミコルは言いながら、家の奥から茅布と砂を持って来た。そしてそれを家の前に出し、風紋占いをした。


砂を茅布の上にまき、息を三度吹きかけて、その模様を見る。ミコルにはその意味がわかるのだ。


「どうだ?」アシメックが聞いたが、ミコルはしばし答えなかった。そして難しい顔をしてあごをなでながら、言った。


「神が何も言ってくれない」

「なに?」

「占いをしていると、いつもなにかが聞こえるのさ。心の中にね。それが何もない」

「どういうことだ」

「わからない」


沈黙が流れた。アシメックは自分でも砂の模様を見て、何かを探ろうとした。だが、何もわからない。一体どういうことだろう。


しばらくして、ミコルが言った。


「前の巫医から、教わったことがあるよ。一度神が何も言ってくれなかったことがあると」

「ほう、それはどんなときだ」

「あとで、村で死人が出た。すごくたくさん」

「ああ、それか!」


アシメックもそれは知っていた。一度、村に妙な病気が流行り、死人がたくさん出たことがあったのだ。


「オラブが病気でも持ってくるのか?」

「わからん。とにかく、オラブと関係があることは確かだろう」


アシメックはミコルに礼を言うと、まずはとにかくイタカの野に足を走らせた。そこからはオラブが潜んでいる山が見える。アシメックは遠目に山を見ながら、未来を探ろうとした。空には鷲が舞っている。それが何かを意味しているようにも思えるが、何もわからない。


ケバルライ


ふと彼は誰かの声を聞いたような気がした。耳にではない。


ケバルライ


そう。ミコルが言っていた。心に神がささやいてくれる。そんな感じだ。


アシメックは目を閉じた。そしてその声を探ろうとした。すると心に、鮮やかに一つに幻影が現れた。


自分よりも大きな男だ。背中に鷲の翼がある。だが影になって顔はわからない。その男は、不思議に自分に似た声で、言うのだ。


イタカの野に細い川を描き

稲を歩かせ

豊の実りを太らせよ


アシメックは目を開けた。きいっと、どこかで鳥の声が聞こえた。いやそれは鳥の声ではなかったかもしれない。彼の心が驚いた音だったのかもしれない。


これは何かの予言か。ミコルにはわからないことを、神は直接おれに教えようとしているのか。それにしても、ケバルライとは何なのか。


気が付くと、アシメックは村への道を急いでいた。家の前に戻ると、サリクがそこで待っていた。目を輝かせ、手に白いコクリの花を持っている。


サリクは去年アシメックに言われたことを、まだ忘れていなかったのだ。


咲いた白いコクリの花を見て、アシメックの頭はいきなり現実に戻ってきた。そして高らかな声で、言った。


「稲刈りだ!!」




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