アロンダ


ケセン川の岸辺は、女たちの洗濯や水汲みの場にもなっていた。土器の皿や壺を洗いに来るものもたくさんいた。働き者の女たちは、朝早くから大きな壺を肩に載せ、川辺に向かう。水がなければ一日の暮らしは何もできない。一壺の水では足りないから、何度でも家と川を往復する。


それはヤルスベ族でも同じだった。昔の族長たちが取り決めを交わし、ケセン川は、カシワナ族とヤルスベ族が共有するものだということになっていた。漁をする男たちも漁場を決め、互いの漁場は侵さないことになっていた。


むろん、川を渡るときは、勝手に渡ってはいけない。楽師を立てて歌を歌い、向こう岸に渡っていくことを知らせてから渡らねばならない。


二つの違う部族が共存していくには、それなりの協定が必要なのだ。争いなどしていてはみんながつらいことになる。いやなことがないように、バランスをとりつつやっていかねばならない。


ヤルスベ族の村でも、朝早くから女たちが行列をつくり、壺をもって川辺に向かっていた。小鳥の声を聞きながらいつもの道を川に向かっていく。その女たちの行列の中に、アロンダがいた。


ひときわ目立つ黒い大きな目をしている。つややかな黒い髪を長くのばし、茅ひもでひとつにまとめて背中に流していた。肌の色がほかの女よりわずかに明るく、細いしなやかな手が、肩に載せた壺を抑えている。遠目にも、際立って美しい女だとわかる。


カシワナ族でもヤルスベ族でも、アロンダを知らない人間はいなかった。


美しい女だから、男たちの見る目も違うのだが、まだ子供はいなかった。まともに交渉を挑んでくる男がいなかったのだ。またアロンダも、この人と思う男はいなかった。族長のゴリンゴは年が少々離れていたし、同じ世代の男ではものたりないものを感じていた。


なお、ケセン川のことを、ヤルスベ側では、ミタイト川という。こういう歌があった。


ミタイトの水は恋の水

愛しい人を思うてくめば

神のなさけがあふれて

くるぞ 愛しい人が

おまえのもとに


そういう歌を歌いながら、女たちは行列を作り、川の水を汲みにいくのだ。


アロンダはみなと一緒に川岸につくと、川の水を汲みながら、対岸を見た。向こう岸はカシワナ族の村だ。緩やかな岸辺の地形に、茅草が茂っている。そんなに遠くない。舟で渡ればすぐだし、泳いででも簡単に向こう岸にはたどり着ける。だがそれでも、アロンダにとってはどこよりも遠いところなのだ。


壺の中に水を入れながら、アロンダの目は見るともなく遠い記憶を見ている。あのとき、あの男が無理矢理自分を後ろに引き戻し、前に立って自分を守ってくれた。そのたくましい背中が、まだ忘れられないのだ。


馬鹿なことを、と思う。ヤルスベ族の女にとっては、他部族の男など蛙よりも嫌いなものなのだ。絶対に男と女の仲になどなりたくない。はずなのだ。


カシワナ族の族長の名前はみんなが知っていた。アシメックなんて変な名前だ。部族が違えば、名前の好みも違う。それはわかっていたが、ヤルスベ族の常識ではちょっと受け入れがたいおかしな響きなのだ。だがアロンダには、それさえも不思議な魅力を持って聞こえた。


アシメック。


居心地のわるい響きが、胸に痛い陰を落とす。何で忘れられないのか。何でその名前を、いつでも心の中で繰り返してしまうのか。


この当時の常識では、他部族との通婚はほとんどどころか、全くなかった。お互いに、お互いを、性的交渉の相手と見ることはほぼ無理だった。どんなに美しい相手でも、何かが邪魔するのだ。それなのに、アロンダはあの男のことばかり考えている。


自分はおかしい、と思う。いやなことになったら困るから、そんな自分の気持ちは、誰にも言ったことがない。


ミタイトの水を汲めば

神のなさけが降りてくる

おまえの歩く足元に

きれいな花が咲く


ヤルスベ族の神話には、女性の神がいた。テミナガという神だ。それが主神テヅルカに大きな影響を及ぼしていた。それゆえにか、ヤルスベ族の女はカシワナ族の女と比べ、明らかに何かが違うという色を持っていた。


アロンダは美しい。テミナガのように美しい。女たちはみな言い合った。できればあのようになりたいという目で見る女もたくさんいた。だがアロンダはそれを苦しい気持ちで受け止めていた。人より美しい容貌のせいで、彼女はいつも一人だったからだ。


だれにも自分の存在をまっすぐに受け止めてもらえないような、苦しい壁のようなものが村にはあった。みんなは彼女をいじめたりはしなかったが、あまりかかわろうともしなかった。


美しい女というものには、何か神霊めいたものを感じてしまうのだ。だからふざけたことができない。ヤルスベ族の人々は、アロンダをなんとなくそんな感じで見ていた。


そのようにアロンダは自部族の中にいても、どこか自分をみんなと隔てて感じていた。そういう気持ちが、他部族の男のことを思わせるのかもしれなかった。


何度か川と家を往復し、水を入れた壺を家の隅におくと、アロンダは囲炉裏のそばに座り、小さな茣蓙を編み始めた。干した茅草の束に手を突っ込み、適当な茅を一本取っては編みこんでいく。子供のころに母親から習った仕事だ。一日に四枚は編む。編んだ茣蓙は一枚は家に蓄えておき、あとの三枚はほかの村人と、なにがしかの品物と交換するために使った。


アロンダは四年前に母親が死んでから一人で暮らしていた。他に兄弟はいなかった。母親もかなり美しい人であったので、そのためにあまり男が来なかったらしい。そういうものだ。きれいな女というものは、かえって男がよりつきにくい。


茣蓙を編みながら、アロンダは母親のことを思い出す。いつもさみしそうな顔をしていた。家に来てくれる人間も少なかった。それなりにいい茣蓙を作っていたが、なぜかあまりいいものと交換してもらえなかった。


「上手に編めるようになるんだよ、アロンダ。いいものを作らないと暮らしていけない」


母が編んでくれた茣蓙は今も残っている。自分の下に敷いて使っている。もう擦り切れてところどころ崩れてきているが、捨てられなかった。母以外に、自分をわかってくれる人はいないと、彼女は思っていた。


「おまえはきれいになるだろう。だから、つらいことにひとりで耐えなくてはいけないよ」


母が言っていた言葉がよくわかったのは、本当につい最近のことだ。


ほかの女と比べると、際立って美しいということが、彼女の周りに違う空気を作っていた。みなと一緒の仕事をしていても、周りにいる人間が自分を違う目で見ているのを常に感じていた。自分の村にいながら、アロンダは自分だけが異部族の人間ではないのかと思うことがたびたびあった。男もあまり近寄って来なかった。


その自分を、あの男はまるでなんでもないかのようにつかみ、後ろに引き戻したのだ。そんなに無造作に人に扱われたことは、アロンダにはあれが初めてだった。


自分はカシワナ族ではない。彼らのように赤い土を顔に塗るなんてとてもできない。言葉も変だし、彼らは時々、ヤルスベ族には信じられないようなこともするのだ。


わたしはヤルスベだ。交渉をするのなら、胸に刺青のある自部族の男の方がいい。カシワナの男なんてぞっとする。それなのに、なぜ、あの男のことばかり、思い出すのだろう。


茣蓙を編みながらアロンダの心は迷走していた。頭の中は幻想のようなことを考えているのに、手は別物のように動き、美しい茣蓙を編んでいく。アロンダの茣蓙も美しかった。もう母の茣蓙にも負けずとも劣らない。編みあがったら、隣の家のマルコバに、干しすぐりの実と換えてもらおう。


日が、西側の山の方に傾くころ、アロンダは再び、川に向かった。エビをとるためにしかけた罠を見るためでもあったが、本当は向こう岸を見たかったのだ。


エビはかかっていなかった。それを確かめると、アロンダは向こう岸を見た。いつからか、時々こうして、夕方近くに岸に立ち、ひとりで向こう岸を見ることが習慣になっていた。


カシワナ族の村に行っても、また似たような目で人に見られるだろう。いや、もっと嫌な目で見られるかもしれない。でも、もう一度、あの男に会ってみたい。そういう気持ちが自分の中にあることを、アロンダはもう否定できなくなっていた。


次の日、アロンダは村の広場に向かった。その日は巫医のシロマゴによる語りがあったのだ。ヤルスベ族の村では、定期的に巫医による語りの集まりがあった。ヤルスベ族の神話の物語を、シロマゴが話してくれるのだ。子供に神のことを教えるのが目的だったが、シロマゴの声がいいので、大人もよく集まって来て聞いた。


アロンダも毎回聞きに行った。一人暮らしであることもあり、ほかの村人とより会える場所には必ず出て行った。そうでないと何かを失うような気がしていたからだ。


まだ刺青をしていないヤルスベ族の子供たちを前に、シロマゴは小さな弓の弦を弾きながら、リズムに乗ってヤルスベ族の神話を語った。


「昔ジンスマルの山に、テヅルカという大きな神が降りてきた。その神はそこで、テミナガという美しい女神と出会った。テヅルカとテミナガは一目で意気投合し、ふたりでヤルスベの世界を造ることにした。


まずテヅルカはジンスマルの山から石を七つとり、それを食った。そしてテミナガがテヅルカの腰をたたくと、テヅルカの口からヤルスベ族の男が生まれた。次にテミナガがテヅルカの腹をたたくと、テヅルカの口からヤルスベ族の女が生まれた。男と女は一目見るなり意気投合し、お互いに協力してヤルスベ族の村をつくることにした」


シロマゴの声は美しく響き、子供たちの胸に溶けていく。アロンダも小さい頃はああして、大人が歌ってくれた神話の歌を聞き、ヤルスベ族の始まりの物語を覚えたのだ。


ヤルスベ族は、テヅルカの中から生まれた。ヤルスベ族はみんなテヅルカの子供なのだ。では、カシワナ族は?


アロンダはカシワナ族にもカシワナ族を作った神がいることを知っていた。その神の名を聞くことは、恐ろしいような気がしたので、知らないが、彼らがテヅルカが作った人間ではないということは知っていた。


テヅルカ以外に神がいるなどと考えるだけでも、アロンダはぞっとした。子供のころから知っているテヅルカの神以上に、すばらしい神がほかにいるなんて、思えなかった。いや、思いたくなどなかった。


でも、あの男は、テヅルカの子供ではないのだ。


背丈はゴリンゴより大きく、美しいが、顔には変な赤い土を塗っている。肩は張ってたくましいが、その姿の特徴は明らかにヤルスベ族と違っていた。


ヤルスベ族には、あんなに腕が長い男はいない。


アロンダは鋭い目でそれを見ていた。


ヤルスベ族はカシワナ族に比べると、若干小さいのだ。


何であんな人間たちがいるのだろう? なんで、ヤルスベ族と違う人間がいるのだろう? なんで彼らは、わたしたちと違うのか。


アロンダはそれをシロマゴに聞いてみたかった。だが、聞けば妙な顔をされるような気がして、言えなかった。シロマゴは今、ヤルスベ族の最初の男と女が産んだ子供が、ミタイト川で大魚と闘う話をしている。


その子供は、川で銀色の山のような大魚と出会い、石をぶつけてそれを殺したのだ。そうするとその中からひとりの女が出て来て、その子供はその女と結婚し、また子供が生まれたという。


テヅルカの神話にはカシワナ族のことはかけらも出てこなかった。彼らは何者なのかを教えてくれる話はなにもなかった。


彼は何者なのだろう。あの男は。あんなに美しいのに、なんで刺青をしないのだろう。


刺青をしない男など、ヤルスベの村では考えられないのだ。大人になる痛みに耐えられないということだからだ。だのにあの男と来たら、自分の知っているどんな男より、大人に見えるのだ。


あんな男がいていいのだろうか。


シロマゴの話を聞き終えると、アロンダは広場で会った知り合いに軽い挨拶をして、家に帰ろうとした。だが、家に帰ってひとりになればなったで、いやなことを考えるような気がした。だからシロマゴが弓を持って帰ってしまっても、まだ広場でまごまごとしていた。子供が広場の隅に集まって、何か話をしている。


「ねえ、知ってる? アルトゴがカシワナ族の漁師に聞いたんだってさ」

「うん、知ってるよ。カシワナ族の族長が、鹿にやられたんだろう」


その子供の話を聞いて、アロンダはびっくりした。思わず振り向き、子供たちの顔を見た。三、四人の子供が顔を寄せ合い、面白そうな顔をして笑っている。


「仲間をかばって、おっきな鹿と闘ったって、カシワナの漁師が自慢げに話してたんだってさ」

「大けがしたって。やっぱりカシワナ族って馬鹿なんだ。テヅルカを尊敬してないからだ」


アロンダはいつの間にか、小走りに川に向かって走っていた。


あの男が怪我をした? 本当だろうか。怪我はどれくらいなのだろう。鹿なんて、見たことはないけれど、獣と闘うことが危ないことくらい、アロンダも知っている。


エビの罠をしかけてある、例の川辺まで来ると、アロンダは向こう岸を見た。風は向こう岸から吹いて来る。だが、茅草の茂っている向こう岸は、何も教えてはくれない。


胸が高鳴っていた。涙が頬を伝っていた。そういう自分の変化を、アロンダは心のどこかで悔しく感じていた。


会いたい。会ってみたい。もう一度。


そう思うと、アロンダはいつの間にか川に片足をつっこんでいた。


ぴしゃり、と水の音がした。アロンダは驚いた。自分が起こした音ではない。目を音がした方に振り向けると、そこにいつしか、奇妙な男がいた。


川の中に下半身を浸し、大きな目をして、呆然と自分を見ている。薄汚れた顔をして、髪も髭も何の手入れもしていない。男にしては体が小さめだった。だが、胸に刺青をしていない。


カシワナ族だ。カシワナの男だ。


それを見た途端、アロンダはぞっとした。そして急いで川から足を抜き、家に逃げ帰った。


いやだ、カシワナの男なんて。刺青のない男なんて、考えられない。


転げ落ちるように自分の家に飛び込むと、アロンダは囲炉裏のそばで自分の体を抱きしめた。やはり、自分はヤルスベ族だ。カシワナの男なんて絶対にいやだ。あんな男のことなど、もう忘れてしまうのだ。


怖さのためか、体が震え、涙が頬を流れた。しかし動悸が落ち着いてくると、アロンダの脳裏にはまたあの男の姿がよみがえった。


アシメック。あの男、怪我をしたのか。


そばにいきたいという、女の気持ちになっている自分を、アロンダは認めないわけにいかなかった。


アロンダは、その日、川辺で妙なカシワナ族の男に会ったことを、誰にも言わなかった。言っては、自分の心が誰かにばれるような気がしたのだ。


知られたくなかった。誰にも、知られたくなかった。異部族の男のことで悩んでいる自分の心など。


永遠に、誰にも言うことはできない。




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