青い鹿


夢の中で、アシメックは冬の星を見上げていた。あれはカシワナカの星だ。


まだ宵の口だというのに空は漆黒に近く、星はまるで月のように大きく見えた。


まだ冬の最中だが、春はそう遠くない。アシメックは星を見上げながらそう思った。春がくれば鹿を狩ろう。みなが喜ぶだろう。


そう思いながら、アシメックは何かを感じて後ろを振り向いた。


するとそこに、山のように大きな青い鹿がいた。


おまえはだれだ、と鹿は言った。


アシメックは自然に笑い、アシメックだ、と答えた。


鹿は顔をそびやかせ、不満のありそうな顔をした。そしてまた言った。


おまえは、仲間を守ったのか。


今度はアシメックが不思議そうな顔をした。こいつはだれだろう。どこかで見たような気がするが。


おれも仲間を守っていた、と鹿は言った。


アシメックはぼんやりと鹿を見ていた。鹿の目は月の明るい夜空のような深い青色をしていたが、その中に何かが見えるような気がした。こいつはだれだろう。


星の光が静かに降っていた。アシメックと鹿はしばしともに沈黙を抱いた。夢の中で、何かが起ころうとしていた。


だがおれは死んだ。おれはアルカラより遠いところにいく。おまえは、おれの体を食え。そしておれの角を、神にささげるがいい。そうすればおれは、おまえを祝ってやる。


そういうと鹿は、幻のように解けて消えていった。ふと背後から、またどこかで聞いたことのある声がした。


ケバルライ


その声はアシメックをそう呼んだ。


ケバルライ? それはなんだ、と振り返った途端、彼は目を覚ました。


涙を流しながら自分を見ている、ソミナの顔が見えた。


「あにや、あにや、目を覚ましたかい?」


ソミナが嬉しそうな声で言った。アシメックはぼんやりした意識の中で、自分がいつの間にか自分の家にいることを確かめた。


「ああ、ソミナ、どうしたんだ? おれは」


「サリクとシュコックが抱えて、ここまで運んでくれたんだよ。ああ動かないで、肩にけがをしているんだ」


見ると、アシメックの右肩は、きれいな茅布で包まれていた。ソミナが手当てしてくれたのだろう。アシメックは、少し血の染みの浮き出た茅布に触れた。痛みが走った。彼は床に身を預け、しばしまた目を閉じた。


「あの鹿はどうしたんだろう?」


「キルアンのこと? まだ解体されないで、広場においてあるよ。シュコックは、どうするかアシメックにきめてもらうって」


「死んだのか」


「うん、みんなで殺したって」


ソミナは涙をふきながら言った。アシメックが目を覚ましたのが本当にうれしいのだ。真っ青な顔をして運ばれてきた時には、兄が死んでしまったのだと思った。だが強い男というのはなかなか死なない。鹿に頭突きされたくらいでは、絶対に死なない。ソミナは硬くそう信じて、アシメックの手当てをした。


「トカムはどうしてる?」


アシメックが聞くと、ソミナは少し目を曇らせた。

「セムドが連れて行った。セムドは謝りたいって言ってたよ。トカムを狩人組に入れてくれなんて頼むんじゃなかったって」

「ああ、それはいいんだ。トカムも馬鹿をやろうとしてやったんじゃない、気をつかってやれ。こんなことになって、トカムもつらいだろう」


それだけ言うと、アシメックはしばし黙った。肩の痛みに耐えていたのだ。ソミナは苦痛に歪んだアシメックの顔を、心配そうにのぞきこんだ。


「あにや、いたいかい。ミコルに痛み止めもらって来ようか、ちょっと待っておくれね」


そういうと、ソミナは家を出て行った。そしてしばらくして、ミコルと一緒に帰って来た。ミコルも心配そうにアシメックの顔を覗き込み、小さな器を差し出しながら言った。


「これを飲め。イゴの実を煎じた水だ。痛みがしびれてくる」


「ああ、ありがとう」


言いながらアシメックは器を受け取り、ソミナに背中を支えられながら、それを飲んだ。水は苦かったが、アシメックは喉が渇いていたこともあり、それを一気に飲み干した。するとしばらくして、肩の痛みが和らいできた。ミコルの薬はよく効くのだ。


ソミナは囲炉裏のそばに座り、火をかきたてて何かを煮始めた。しばらくして米の匂いがしてきた。ああ、米を煮てくれているのか、とアシメックは思った。米はいい。あたたかい米を食えると思っただけで、安らいでくる気がする。ソミナはいつもより水を多くして、ミコルがくれた薬草もきざみ入れて、うまい粥を作ってくれた。アシメックはそれを食いつつ、仲間とはいいものだとしみじみ思った。弱っているおれを助けてくれる。


粥を食べ終えて、しばらく休んでいると、シュコックとセムドが家に入ってきた。


「大丈夫か、アシメック」


シュコックの心配そうな声に、アシメックは笑いながら、「ああ、大丈夫だ」と言った。セムドはすまなそうな顔をして、アシメックに言った。


「すまん。わしのせいだ。わしが、トカムを連れて行ってくれなんて言わなかったら」

「いいんだよ、それは。トカムはどうしてる?」

「家でひきこもっている。反省はしているようだ。謝りたいが、気持ちがつらくてできないようだ」

「そうだろう。しばらくはそっとしておいてやったほうがいいだろう」


セムドは深いため息をついた。彼はトカムのことをことのほか心配しているのだ。もういい大人だというのに、未だに仕事が決まっていない。手に技を覚えさせてやろうと、ヤルスベに修行にやっても、すぐにあきらめて帰って来る。かといって、女のように家で茅織りをしたり酒をこしらえたりするのも嫌だというのだ。茣蓙くらいは編むが、それもみなのように上手ではない。


オラブのようなものにしたくはない。だからセムドもいろいろ考えたあげく、狩人組に入れてくれと頼んでみたのだが。


役男は常にみんなのことを心配しているものだ。セムドの気持ちはアシメックにも痛いほどわかった。


会話が途切れてしばらくして、シュコックが口を挟んだ。


「キルアンは広場においてある。どうする、アシメック」


「ああ」


アシメックは、その時になって、眠っていた時にみた夢を思い出した。変な夢だったが。アシメックはちょうどそこにミコルがいたこともあり、その夢をみなに話してみた。ただ、ケバルライと誰かに呼びかけられたことだけは言わなかった。


「それはキルアンの霊だな」

とミコルが言った。

「そう思うか」

とアシメックが答えた。

「キルアンは角を神にまつれと言ったのか」

「ああ、そうすれば祝ってくれると。祝うとはどういうことだ? ミコル」

「みとめてやるということだ。アシメック、おまえ、鹿にみとめられたんだろう」

「みとめる?」


みながざわついた。鹿は神がカシワナ族にくれた宝であり、神の使いでもあった。それに認められるということは、実にいいことなのだ。


「吉兆だな。きっとキルアンを食えば村にいいことがおこるだろう」ミコルは言った。

「吉兆か。たしかにいい鹿をとったらみんなにいいことがあるとは言われている」

「キルアンみたいな鹿は今まで見たこともないからな。それはすごい霊なんだろう」

「アシメックはあれをやったのか」


アシメックの夢の話は、瞬く間に村に広がった。アシメックがけがをしたということは、村に衝撃を与えていただけに、村人はその話に飛びつくように乗った。


段取りはすらすらと進み、キルアンは解体されることになった。


肉は切り分けて皆に分け与えられ、半分は三日のうちにみんなが食った。半分は干されて干し肉になった。角は夢のとおり、至聖所で神にささげられた。そしてその青みを帯びた毛皮はしばらく干され、アシメックのものになることになった。


アシメックの回復は早かった。すぐに立てるようになり、七日もすれば生き生きと働けるようになった。そして、キルアンの毛皮を肩にかけたアシメックは、前よりももっと高い男になったように見えた。


きっとアシメックは、キルアンの加護を受けるに違いない。そんな話が村人の中に流れた。それで、きっとすごくいいことがあるに違いない。


キルアンの霊の話はそのまま、カシワナ族の神話に取り込まれていった。山のように大きな青い鹿と闘った、勇気のある族長の話は、こののち部族に長く伝えられていくのだ。


アシメックがいなくても、鹿狩りはシュコックの指揮のもと、毎日行われた。キルアンがいなくなったので、それほど鹿狩りに難しいことは起きなかったが、狩人たちは前よりも鹿を大切にするようになった。サリクなどは、鹿に矢を放つたびに、涙を流して、すまんというようになった。


「ありがたく食うから、無事にアルカの向こうにいけ」


狩人たちは鹿のためにそう祈るようになった。そうすれば、キルアンの霊が喜び、アシメックを固く守護してくれると思ったのだ。


鹿狩りの季節は終わった。キルアンに認められたからか、この季節はいつもより多い鹿が狩れた。村はにぎわった。アシメックは、鹿と神に感謝しようと、みんなに言った。いい肉と皮を鹿はくれる。その鹿をくれるのは神なのだ。みんなが仲良く、いいこと、正しいことをしているから、くれるのだと。



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