オラブ
冬の日々は穏やかに過ぎていった。
エマナのほかにも、3人の女が無事に子供を産んだ。それは恵みの少ない寒い冬の日々を、明るくしてくれるいいことだった。
赤ん坊は、アルカラの恵みをこのカシワナ族の村に持って来てくれるのだ。大事に育てれば、皆を喜ばせるいいやつになってくれる。
アシメックも赤子を見に行った。族長として、新たに村に加わったものはちゃんと覚えておかねばならない。
エマナのところにいくと、エマナはアシメックを見てうれしそうに眼を輝かせた。そして子供を抱いてくれとせがんだ。アシメックは喜んで抱いてやった。
小鳥のように軽い子だった。生まれてすぐに目があいたんだよ、とエマナが言った。かわいくてしょうがないというように。アシメックは子供の愛らしさをほめ、がんばったエマナをほめてやった。エマナは本当にうれしそうだった。
エマナに赤子を返すと、エマナは本当に愛おしそうに赤子を抱いた。その顔を見て、アシメックは感慨を受けざるを得なかった。どんな女でも、子を抱く時の笑顔は神のようにうるわしい。
エマナの家を出ながら、女はいいものだ、とアシメックは思った。子を産んでくれる。大事に育ててくれる。今、村のために働いてくれている男も女も、みんな女が産んで育ててくれたのだ。大事にせねばならない。
よいものは大事にせよ、というのはカシワナカの教えだった。神の教えを守り、正しいことをしていけば、人はどんな難しい試練に出会おうとも、必ず最後には勝つことができると。
そんなある日のことだった。
冬も最も厳しい寒さを越え、いくぶん春の気配が感じられるようになってきたころのことだ。
またオラブが出た。
アシメックのところに、シロルという男が訴えてきた。家に蓄えておいた栗の壺をごっそり盗まれたと。オラブに違いないと。
「おれの子供にやろうと思って、たくさん皮をむいておいたんだ。人に見えないところに隠しておいたのに、一体どうやってわかったものか。オラブのやつめ」
「間違いないのか」
「ものがなくなったら、絶対にオラブのせいなんだよ」
アシメックはため息をつき、腕を組んだ。いつまでも放っておくことはできないと思っていたが、とにかく何かをしないわけにはいくまい。そう思ったアシメックはミコルに相談した。するとミコルは、眉間に深々としわをよせつつ、まじないをつぶやきながら、風紋占いをした。
地面に敷いた茅布に色砂をまき、それに息をふきかけて、その文様を見るのだ。ミコルは砂の文様を見ながら、しばらく考えたあと、言った。
「やっぱり山にいるようだな。一度、山狩りをしたほうがいいだろう」
それを聞いたアシメックは、ひとつ息をつき、言った。
「それしかあるまい。だが、今は冬だ。冬山に登るのは危険だ。どうしたものか」
アシメックはしばし考えた。もう寒さの峠は越えたが、山の天気は厳しい。いつ雪が降るかわからない。オラブは一体どうやって暮らしているのだろうか。山の栗や林檎も、いつまでもありはすまい。そこでアシメックは、とにかく山の方にひとりで行ってみようと思った。山には入らない。だが、入り口のところで、何かを呼び掛けてみよう。オラブが聞くかもしれない。
アシメックは肩掛けと足袋を身に着け、イタカの野に赴いた。そしてまっすぐに山に向かった。イタカは冬枯れの様子を呈していたが、そこここに、花芽をつけはじめている草もあった。春がくれば、イタカは花園になる。魚骨ビーズを塗る色をとる赤いミンダの花や、青いクスタリが咲き乱れる。だが今はどこまでもが寂しい冬の野だ。
山の入り口は冬枯れたイゴの木の枝がかぶさっていて、実にうらぶれた様子をしていた。冬の間はだれも人が来ないから、木々も少し寂しそうだった。
冬の山には一歩も足を入れてはならない。それは先祖から伝わる教えだった。だがアシメックは一足でも中に入りたかった。入って、オラブを探したい。だが彼はその気持ちを抑えた。冬の山の厳しさは、当然のごと、馬鹿な過ちをした人間の伝説をともなって、身に染みてわかっていた。
一歩でも入れば、どんどん中に入ってしまうだろう。そうすれば雪の魔にとらわれて、魂を吸われてしまうのだ。そしてアルカラではないところに連れていかれてしまう。そんなことになればもう、人間に戻れなくなるのだと言われていた。
アシメックは山の入り口に立ち、山を見上げた。冬の山は暗く、激しく怒っているかに見えた。オラブはこの山のどこにいるのだろう。どこに住んでいるのだろう。このまま村の者たちを裏切ってひとりだけで暮らしていれば、きっとアルカラに帰れなくなるにちがいない。そう思うと、いつしかアシメックは叫んでいた。
「オラブ!!」
すると、木立に風が吹き、かすかにざわめきが起こった。オラブが答えたような気がして、アシメックは続けた。
「オラブ! かえってこい!! おれがなんとかしてやる!! もう馬鹿な暮らしはやめろ!!」
アシメックの声に、かすかな木霊が帰って来た。山が、動いたような気がした。何かがいる、とアシメックは思った。オラブだろうか。
「泥棒なんぞやめて、まっとうな暮らしに戻るんだ! おれが仕事をなんとかしてやる! みんなに謝って、村に帰れ!!」
アシメックはそう叫ぶと、しばし答えを待つかのように沈黙した。耳を澄ませてみたが、鳥の声すら聞こえなかった。今は鹿も冬眠に近い状態なのだ。
アシメックはそのまま山の前でしばらく待った。オラブが身を縮めながらアシメックの前に現れるのを。だが、当然、そんな様子は微塵もなかった。
春になって、歌垣が終わった頃、人を集めて山狩りをするしかあるまい。それまでに、何度かここにきて呼び掛けてみよう。アシメックはそう思った。そして、息をつくと、山に頭を下げ、踵を返して村に帰っていった。
山に静けさが訪れた。すると、入り口から少し奥のところにある木の影で、何かの気配が動いた。アシメックは知らなかった。オラブは普段は山の奥の洞窟で暮らしていたが、冬の寒さが厳しいころは、山のふもとにおりてきて、木陰に鹿皮をしいて暮らしていることを。
アシメックがいなくなってしばらくすると、オラブは木の陰から出てきた。それは髭も髪も荒れ放題に伸ばした、醜い小男だった。青白い顔をして、痩せている。手にはネズミの頭蓋骨を持っていた。腹をすかせたときにそれをしゃぶるためだ。
オラブは入り口から山を出ると、イタカの野に目をめぐらした。そして遠目の効く目で、もう誰もいないことを十分に確かめた。オラブは知らなかった。自分が人よりずっと目がよく、遠くのものや暗いところにあるものを、実によく見ることができることを。だから人が暗いところに隠した栗の壺なども、すぐに見つけることができるのだ。
「へっ」
オラブは入り口を覆う木の下に、アシメックの大きな足跡を見つけると、つばを吐くように言った。馬鹿馬鹿しい。謝るなんていやだ。おれはここで、ひとりで暮らしている方がいいんだ。
オラブはねぐらにしている木の根元に戻ると、シロルから盗んだ栗の壺の中に手を入れた。そして皮をむいた栗の実をふたつとりだして、それを噛んだ。火で煮ていない栗は硬かったが、それでも食うとうまかった。オラブは煮炊きなどほとんどしなかった。火を起こす錐は一応持っていたが、煙が出れば居所をすぐに見つけられてしまう。だから、激しく米が食いたくなったとき以外は、めったに火など起こさなかった。
冬の山は寒い。雪に降られれば魔にさそわれる。だからふもとの方に下りてきていたのだが、まさかアシメックがこんな時に山に来るとは思わなかった。オラブは内心、見つからなくてよかったと思っていた。アシメックに見つかれば、きっと無理矢理村に戻されるだろう。体力では、オラブはアシメックにはとてもかなわない。
栗を噛むのに飽きてきたころ、オラブは何だか肉を噛みたくなった。体が何かを欲しているような気がした。面倒くさかったが、しかしほかに何をすることもなかったので、彼は立ち上がった。そして山のふもとの方にある木の間をめぐり始めた。
チエねずみが冬眠していそうな木を探していたのだ。
しばらくして、根元が半分腐ったニガの木か何かの木を見つけた。オラブは鼻をきかせ、その樹皮をかいだ。そしてここらへんかと思うところの木の皮をはいでみた。
いた。
オラブはにたりと笑った。林檎のようにまるまった、灰色のチエねずみが冬眠していた。オラブはやすやすとそのネズミをつかまえ、それを片手でにぎりながら、ねぐらに帰った。
ねぐらの鹿皮の上に座ると、オラブは石包丁を取り出し、そのネズミを早速切り裂いた。そしてその血と肉をしばし存分に味わった。もしかその様子を、村人が見ていたら、まるでけだもののようだと思うことだろう。オラブは顔じゅうをネズミの血で汚しながら、ネズミを骨になるまで貪り食った。
食えないしっぽをちぎり捨てると、オラブは少し嫌になってきて、食っていたネズミをおいた。ネズミ一匹では腹がいっぱいになどなれないが、それでも自分の体の中にぬくいものが流れてくるような気がした。ざわざわと寂しさが起こってくる。肉を食ったときにはいつもこの感情が来る。涙が出そうになる。つらい、つらい。
アシメックの言葉がよみがえった。かえってこい、と彼は言った。帰りたくなった。
だが、オラブはまた、へっ、と息を吐き、自分でその感情をつぶした。今さらどの面を下げて村に帰ろうというのか。
村の人間など、俺が盗むために働いてくれている、馬鹿なのさ。オラブはいつものように、そう思うことにした。そして膝を抱きながら、次の盗みのことを考えた。
栗がなくなる前に、また村に言って、盗んで来なくてはなるまい。今度は魚が欲しいな。シメラの家にいけば、いつもうまそうな干し魚が干してあるんだ。あれを狙おう。
シメラの家は、川の近くにあった。そこで彼は、川にいったときのことを思い出した。
アロンダ。
その名を知ったのは、最近のことだ。
盗みをしに村に忍び込んだとき、若い男たちの噂話を盗み聞いたのだ。
あのとき、秋の交渉の日に、遠めから見たあの美しいヤルスベの女が、アロンダという名であることを、彼はそのとき知った。
オラブは目がよかった。遠くのものを、実によく見ることができた。ものかげに隠れながらも、よほど遠くに小さく見えていたその女が、目も覚めるような美しい女であることを、彼は正確に見抜けるのだ。
長い髪がつややかにたれていた。目は黒くてまるくて、花のように光っていた。あれはなんだ、と思ってひきこまれたとき、村人に見つかったのだ。
アロンダ、と彼はもう一度言った。あの女を、もう一度見てみたい。そんな気持ちになったのは初めてだった。村の女たちは、彼をトカゲのように嫌っていた。彼もまた、村の女たちを、ネズミのようなぶすだと日ごろからののしっていた。しかしアロンダはちがう。あれはなんだ。なんであんなに美しいのか。オラブの頭の中で、あの時に見たアロンダの美しい横顔がよみがえった。オラブはうめいた。
だがあれはヤルスベの女だ。ケセンを渡らねば見ることはできない。彼はそう思って一度ケセンを泳いでみた。そしてそのよく見える目で向こう岸を探った。
川岸で洗濯をしていたヤルスベの女たちの一群を見たが、その中にアロンダの姿はなかった。
ヤルスベ側に上陸しようかとも思ったが、そのときに村の漁師に見つかったので、彼はあわてて逃げた。
だが、もう一度会ってみたい。会って、あの美しさをよく見てみたい。オラブはそう思っていた。
日が暮れてきた。オラブは寒さに身を縮めた。また夜がやってくる。寂しい夜が。彼は、自分がすすり泣くのをとめることができなかった。
眠ればいい。眠ればなにもかもを忘れられるのだ。そうして彼はうとうととし始めた。夢の中で、かすかに、ほほ笑んだアロンダの顔を見たような気がした。
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