山へ
交渉の日からひと月ほど経った。舟を白く塗る方法については、あれからとんとん拍子に話がきまり、もう三人のカシワナ族の男がヤルスベに習いに行っている。村の男の職業を決めている役男が、名をセムドというのだが、トカムをその中に入れてやった。後の二人は成人寸前の少年だった。大人になってもまだはっきりと仕事の決まっていないトカムに、技を覚えさせてやろうという、セムドの計らいだった。アシメックはそれはとてもいいと言った。
白塗りの技術を手に入れることができれば、またいろいろなことができる。そっけない土器や板にも色を塗ることができるらしい。そうなれば楽しみも増えるだろう。ヤルスベ族はやりにくい相手だが、カシワナ族の知らないことをいろいろ知っている。大事にしていて損はない。こちらも、ヤルスベ族の知らないことをたくさん知っているのだ。いい感じで付き合っていけば、何かといいことがある。
秋も深まってきた。米がびっしりと詰っている蔵を見ながら、アシメックは冷たい風を感じた。そろそろ山へ行かねばならない。もう栗もりんごも充分に熟れていることだろう。冬に備えて、榾も充分に拾ってこなければならない。
そう思ったアシメックは早速セムドのところに行った。人集めはセムドの仕事だからだ。
「セムド、そろそろ山へ行こう。山へ行くやつを決めてくれないか」
「それならもう、あらかた決まっている」
とセムドは言った。
「去年はクスダの周りのやつが行ったから、今年はキリナの周りのやつが行くことにするよ。みんな秋の山狩りには行きたがるが、オラブのこともあるし、村を空けるわけにはいかんからな」
セムドの言葉を聞いて、アシメックの眉が少し曇った。
「オラブか。いつも困らせる。やつが山に住んでいるらしいというのは本当か」
「山で見かけたやつはいないんだが。イタカで見かけたやつはいるらしい。山に隠れているのは本当だろうさ。隠れられるのはあそこくらいしかない。ネズミでもとって食っているんだろう」
セムドが苦々し気に言った。アシメックは目をそらして考え込んだ。馬鹿な奴だが、何とかしてやらねばならない。エルヅのように、いいところを見てやって、生かしてやれば、村で生きることができるだろうに。しかしそれにはまず、山に行ってやつを探さねばならないな。
アシメックは空を見た。この季節はあまり雨が降らない。明日も晴れそうだ。アシメックは言った。
「明日には山に行けるかな」
「声をかければすぐに集まるとも」
「では集めてくれ。明日の朝早くにすぐ出発だ」
そして次の日の早朝、アシメックが準備を終えて広場に行くと、もう三十人ばかりの人が集まっていた。男も女も年寄りも子供もいる。みな藁縄や大きな鹿皮の袋を持っていた。茅布の袋も丈夫だが、重い栗や林檎の重みには耐えられないからだ。
「よし」とアシメックは言った。空も晴れている。みなもうれしそうだ。秋の山狩りは、村人にとっては一大娯楽だったからだ。今の季節、イタカの向こうにあるアルカの山に行けば、木の実やキノコがおもしろいほどたくさん採れるのだ。
イタカの野は、村の東側にある。草原が広がり、そこから南西の方に行けばだんだん地面が湿って来てオロソ沼になる。だがもっと東に行けば、アルカというなだらかな山があるのだ。アルカはアルカラへの道と言われていた。人間は死ぬとき、この山の上を越えて、死者の国アルカラにいくそうだ。
アシメックは一行を導いてイタカの野に出た。遠目にアルカ山が見える。見事に紅葉していた。実に美しい。どこからか夏鳥の声も聞こえる。まだ渡りをしていないのだ。ということは、今年の山の恵みもすばらしいということだろう。
野をしばらく歩いていくと、木立が多くなる。先祖の時代から覚えている道を行くと、大きな灰色の岩にぶつかる。そこからが山の始まりだった。その岩につくと、アシメックは一行を振り返っていった。
「ここからはみんな自由行動だ。二人以上一組で行動しろ。迷ったらいかんぞ。子供は必ず大人についていけ」
そうすると、わあっという歓声をあげて、村人は一斉に山に入っていった。
まず最初に狙うのは、ふもと近くに生えている大きな栗の木だ。昔からみんなこの木のことは知っている。毎年、それはたくさんの栗の実をつけるのだ。栗は十分に熟れていた。男が独り栗の木の幹をつかみ、威勢よく揺らした。すると栗の実がどんどん落ちてきて、下にいた子供たちが大はしゃぎにはしゃいだ。
栗のいがは痛い。だが村人はそれを、鹿皮で作った足袋(あしぶくろ)に覆われた足を使い、器用にむくことができた。むいた栗は急いで鹿皮の袋に入れた。袋はどんどん重くなる。うれしくてたまらないというような笑い声が、あちこちで起こった。
アシメックはその様子をほほ笑みながら見つつ、自分は少し奥に行った。そこには目当ての野生の林檎の木があるのだ。林檎は赤く熟れていた。栗の実よりも一回り大きいほどの大きさで、噛むと苦いが、これはいい酒の材料になるのだ。干して砕けば風邪の薬にもなる。とてもいいものなのだ。
村には酒つくりの上手な女がいた。そいつに渡せば、ことしもうまい酒を造ってくれるだろう。アシメックは精を出して、林檎を摘み始めた。
キノコを探しているものもいた。山ブドウを探しているものもいた。榾を集めるものもいた。秋の山は宝の山だ。人間は神に感謝しなければならない。こんなうれしいものを、毎年のようにもらっていいのか。アシメックは時々そう思った。特にいい仕事もしていないのに、法外な報酬をもらっているような気がするのだ。
アシメックは林檎を摘みながら、ふとオラブのことを思い、少し気持ちが暗くなった。この山のどこかに住んでいるというが、何を食っているのか。秋には実りがあるからいいが。
いつまでも放っておくわけにはいかない。なんとかしてやらねばなるまい。
アシメックがそう思った時だった。少し離れたところから、子供の泣き声が聞こえた。アシメックははっとして、林檎を摘むのをやめ、振り向いた。
「どうした!?」
すると、女がひとり、アシメックに近づいてきて、言った。
「榾のとがったのを踏んで、子供が足を怪我したの。足袋を脱いで裸足で歩いていたらしいわ。泣いてる。どうしたらいいかしら」
「手当はしたのか」
「一応なめてあげたけど」
アシメックは女に導かれて、怪我をした子供のところに行った。こういうトラブルはいつものことだ。子供はいつでも予想外のことを引き起こす。
怪我をしたのは男の子だった。栗の木の根元に座り、右足を伸ばして、大声で泣いている。アシメックは近づきながらなだめるように言った。
「どら、見せてみろ」
アシメックは子供にやさしく声をかけながら、身をかがめ、子供の足の傷を見てやった。右足の裏に、かなり大きな傷があり、血が流れていた。アシメックは、自分の汗拭き用の茅布を取り出し、それで傷をしばりながら、言った。
「大丈夫だ、痛くない。男は我慢しろ。しかしこれでは歩けないな。だれか背負って、村に帰してやってくれないか。ミコルのところに行って、薬を塗ってもらわねばならない」
アシメックがそう言うと、周りを取り囲む村人の中から、「おれが行くよ」という声がした。見ると、それはサリクだった。
アシメックはサリクを見ると、「じゃあ頼む」と言った。するとサリクはさっと表情を明るくして、子供の所に来た。アシメックの役に立てるのが、うれしくてたまらないのだ。
「どら、おれが背負ってやるよ。山で栗はひろいたいだろうけど、今は我慢しろ」
サリクが背中を向けてやると、子供はおずおずと身をかぶせてきた。なりは大きめだが意外と軽い子供だ。母親が寄って来て、子供をなでながら「頼むよ」とサリクに声をかけた。サリクは笑って答えた。
「こんなこと、なんでもないさ」
それはアシメックの真似だった。アシメックは人に御礼のようなことを言われると、いつもこういうのだ。
サリクは子供を背負って、山を下りて行った。軽い子供だが、やはりずっと負っているのは疲れる。だがサリクの胸は明るかった。ずいぶんと自分がいい奴のような気がしていたからだ。子供を背負ってやるなんて、なんておれはいいことをしているんだろう。
ふとサリクは、傍らの木の根元に、紫色のキノコが生えているのに気付き、「お」と言った。
早く帰らねばならないが、これを見逃すのは惜しいと思い、子供に言い聞かせて、一旦子供をおろしてから、キノコを採った。すると子供が言った。
「それ毒だよ。母ちゃんが言ってた。食うと死ぬって」
「ああ、知ってるよ。食うわけじゃないんだ。鹿狩りの毒に使うんだよ」
「へえ? 鹿狩り!」
急に子供が目を輝かせた。この子供は、大人になると鹿狩りの仲間に入りたいのだ。
「毒って、そのキノコ使うの?」
「子供は触っちゃだめだぞ。これはね、蛙の毒と混ぜるんだよ。すると一撃必殺の毒ができるんだ。蛙の毒でも十分に殺せるが、これを混ぜるともっと効くんだ」
「毒蛙って、あの赤いのだろう? あれも食べちゃダメだって、母ちゃんが言ってた」
「あれは食べたらのたうち回って死ぬんだ」
子供は目を輝かせて、サリクに鹿狩りのことを尋ねた。
「鹿って怖いの? 角あるよ」
「怖くないさ。毒矢を使えば一発なんだ。でも手ごわいのはいるよ」
「てごわいって?」
「六年前に生まれた、キルアンていう名の雄鹿がいるんだ。こいつがデカいんだけど、すばしこくてなかなか矢が当たらない。おまけに毒矢が当たっても死なないんだ」
「へえ、キルアン!」
「俺たちが狩りをしてると、どこからかやってきて、向かってくるんだよ」
「へえ!!」
子供と話をしながら、サリクは自分がずいぶんと立派な男になったような気がした。アシメックのように、小さいやつは大事にしてやらねばならない。特に男の子には、大人の男のやり方ってものを、見せてやらねばならない。サリクは嬉しそうに尋ねた。
「おまえ、名前はなんていう? 年は?」
「ネオ、もうすぐ十一だよ」
「へえ、じゃあ次の歌垣には出れるな」
「うん、まあね」
サリクはキノコを腰に下げた袋に入れると、また子供を背負い、山を下りて行った。
その頃、アシメックは、少し高い山の尾根に立ち、風景を見まわしていた。アルカの山は美しいが、先祖からの言い伝えで、これ以上奥に行ってはならないという境界の岩があった。その境界を越えると、アルカラではない魔の世界に迷い込んでしまうという言い伝えがあったのだ。
その境界の岩をなでながら、たぶんオラブはここを越えて言ったのだろうと、アシメックは思った。
きっと山の奥のどこかに住んでいるのだろう。なんとかしてやりたいが。
アシメックは少し考えた後、意を決して、大声で言った。
「オラブ! いるか!」
その声に反応してか、近くの木の枝の上で、栗鼠か何かが動いた。アシメックは続けた。
「返事をしなくてもいい! 聞いてくれ! もうそんな暮らしはつらいだろう! 戻って来い! おれのところにきたら、なんとかしてやる!」
もちろん返事などはない。背後で村人たちが、静かな目で自分を見ているのを感じた。アシメックは続けた。
「みんなに謝って、まっとうな仕事に戻るんだ! それが幸せだぞ!!」
風が起こり、山の木々の梢を揺らした。アシメックは木霊を待つように、何かの反応を待った。しかしそんなものは何もなかった。
だがいい。これからも山に来るたびに、こうして呼び掛けよう。いつか、オラブに届くかもしれない。アシメックはそう思った。
日が陰り、みなの袋が十分に膨らんできたころ、アシメックは皆を率いて山を下りた。
それから、冬にさしかかるまで、山での採集は毎日続いた。山の宝はすばらしかった。土器の壺に、栗の実が満々と満ちて、それがいくつも家の周りに並んだ。酒つくりの上手な女は、さっそく林檎を壺にいれ、水と種を入れて酒を造り始めた。子供がとってきたグミや、キノコを干す板がそこら中に並んだ。寒い冬を過ごすためにとってきた榾も、広場に山のように積まれた。
また人々の中から自然に歌が生まれた。
山はいい
山はいい
なんで神は
こんなにたくさんくれるのか
ひとよひとよ
いいことをしろ
正しいことをしろと言って
くれるのだ
アシメックも毎日、山に言った。山にいくたびに、オラブに呼び掛けた。だが返事は一切なかった。それでも呼び続けた。
そして、もうそろそろ冬がやってくるという、最後の山行きの日、アシメックは意を決して、境界の岩を越え、オラブを探してみた。道に迷わないように枝折をしつつ、用心深く藪をまたぎながら、オラブをよびつつ探してみた。
「オラブ! もう冬が来る。寒いだろう! どうやって暮らすつもりだ! かえってこい!!」
だが、何度叫んでも答えはなかった。アシメックはあきらめるしかなかった。
そんなアシメックの様子を、村人たちは、尊いものを見るように見ていた。悲し気に泣く者さえいた。オラブのやつめ。アシメックはいいやつなのに。
山行きが終わると、冬がやってくる。とうとうオラブは見つからなかった。ただ一度だけ、川で漁をしている男がこう言ったのを、アシメックは聞いた。
「昨日、ケセンを泳いでいる変なやつがいたけど、あれはオラブかもしれない」
「ケセン川で?」
それを聞いた時、アシメックはふとアロンダのことを思い出した。まさかとは思うが。
しかしその不安が的中するとは、このときアシメックはひとかけらも思ってはいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます