稲舟
族長というものは、ただ偉ぶっているだけではできない。昔の族長にはそういう者もいたらしいが、アシメックはそういう男ではなかった。
毎日、部族の民の家を訪ねては、その家の仕事を手伝った。そしてみんなのいろいろな話を聞いてやった。そういうことをするのが、好きな男だったのだ。
朝起きると、ソミナの作ってくれた朝餉を食ってから、ミコルの風紋占いを尋ね、それを参考にしながら、その日に訪ねていく家を決めていた。
その日も、アシメックは朝早くからミコルを尋ね、占いの結果を聞いた。ミコルは言った。
「稲舟の手入れはどうなっているかな」
「ああ、そうだな。コクリもぼちぼち咲くだろう」
イタカの野でコクリの花が咲くと、稲舟を出せというのが、部族に伝わることわざだった。暦がまだ十分にできていないこの時代では、人間の経験的知識が暦を補っていた。
アシメックはその日、村の舟大工の家を訪ねることにした。この時代にも、舟を作る技術はあった。イタカの野のはずれにはかなり大きな山があり、そこから伐り出してきた木を、石斧で裂いて板にする。その板を組み合わせて、木釘で打ち合わせて、細い貝のような形をした小さな舟を作るのだ。水が入り込まないように板と板の継ぎ目には、木くずを松脂で練ったものを詰めた。そんな簡単な舟だったが、稲の採取をするときや、川で漁をするときには大層役に立った。
村の舟大工は、スライという名前だった。二十代から三十代に入る間の年だ。男の親が舟大工だったので、それを頼って教えてもらったのだ。このように、母親を離れて、自分の父だということがわかっている男についていく子供もあった。
遺伝という概念は当時にもあった。生まれてくる子供は母親によく似ていたが、父にも実によく似ていた。スライは、一目で誰の子かとわかる子供だったのだ。幼い頃から舟ばかり見ていた。自分の師匠だった父親には、確かに深い血のつながりを感じていた。一心に父を慕い、そのやっていることを全部真似して、舟の作り方を覚えたのだ。
その父がアルカラに行ってから、村の舟大工の頭はスライになった。村で使う舟はみな、スライが作っていた。
アシメックがスライの天幕を訪ねると、スライは天幕の外に寝かした舟に、油を塗っているところだった。古い舟を補修しているらしい。油は鹿の油だった。それを湯で溶かしたものを、丁寧に舟に塗っていくのだ。そうすれば舟が沈みにくくなる。
「精が出るな」とアシメックはスライに声をかけた。
舟づくりに集中していたスライは、多少驚いた表情で、アシメックを振り向いた。だがその目はすぐに歓迎の表情になった。
「ああ、明日までにもう一つ塗り終えたいのだ。もうすぐ稲刈りだからな」
「何か手伝うことはあるか」
「そうだな。ではそっちの舟に、カシワナカの目を描いてくれないか」
そういうとスライは、少し奥の方にある、もう一つの舟を指さした。アシメックがその舟を見ると、舟の舳先に描いてあるカシワナカの目が、少し薄くなっていた。
カシワナカの目というのは、鷲の目を図案化した記号のようなものだった。船の舳先には必ず描かれた。薪の炭で、器用に描かれる。その上を油で塗れば、水に濡れても落ちにくい。この文様を見れば、水にすんでいる魔物が恐れおののいてはなれていくといわれていた。昔から、舟の難というのも多かったのだ。水の上で作業をする人間の不安を抑えるためにも、そういうまじないは必要だった。
「ああ、わかったとも。炭はこれだな」
アシメックは快く引き受けた。舟の傍らにある小さな土器の皿の上に置いてあった、炭のかけらを手にとり、舟の舳先のカシワナカの目を丁寧になぞり始めた。
手仕事というのは麗しい、とアシメックは思う。みんながまじめに仕事をして、村が常によいことになっていくことが、アシメックは嬉しいのだ。舟にカシワナカの目を描きながら、アシメックはハルトのことを思い出した。あれは、この稲舟をあやつるのがうまかった。あれが乗って漕げば、それはすいすいと、まるで鳥のように舟が水の上を進んでいったものだ。
そう思うと、少し涙が目ににじんだ。あれはもう、アルカラでじっくりと休んでいることだろう。カシワナ族の神話では、死者の魂はアルカラという天国にしばらくの間住み、十分に魂の勉強をしてから、またカシワナ族の子供として生まれてくる。ならばきっと、いつかハルトもこの村に生まれてきてくれるだろう。そのときにはまた、軽やかに舟を操る男になるだろう。
アシメックは、消えかけた文様の縁を丁寧になぞり、濃くはっきりとそれを描きなおした。カシワナカの大きな目は迫力があり、見るだけで魔物が逃げるということもわかる気がした。
部族の神カシワナカは、鷲の目と翼をもつ、とても立派な大きな男の姿をしているという。死者の霊魂が住むという美しいアルカラの国と、このカシワナ族の住む土地を作り、カシワナ族の人間とそれが生きるために必要なものを、すべて作ったという。
部族にはその神の偉大さと勇猛さを伝える話がいくつもあった。アシメックは幼い頃、それを母から何度も聞いた。そのすばらしい神が、いかにうまくカシワナ族の人間を作ってくれたか、カシワナ族を食おうとする魔物から、どんなに苦労をして守ってくれたか、母はすべてを知っていた。
アシメックの心の中には、いつも、大きな鷲の翼をもつ神カシワナカの姿があった。あのように生きたいと、思っていた。みなのために、よき知恵を教えてくれるフクロウを作ってくれたことの話など、美しいと言ったらない。思い出すたびに涙が出てくる。
カシワナカは、夜の森に迷い込み、寒さをしのぐ知恵すらもない人間を見て哀れと思った。そこで枯れ葉を集め、そこに水に映った月を込めた石を二つ入れて、命を吹き込み、フクロウを作った。そしてフクロウに不思議な歌を教えた。人間はそのフクロウの声を初めて聴いた時、自分の中に不思議な知恵の泉ができたという。その泉から、いろいろなことを考えることができる力がわいてきた。そして人間は初めて、火を起こすことを考え付いたのだ。
カシワナカは、人間のためになることをなんでもやってくれた。アシメックにとってカシワナカは、自分の生き方そのものだった。カシワナカがしてくれたようなことを、族長として、みなのためにすべてやっていきたかった。
しかし、ケセン川の向こうにすむヤルスベ族に、このカシワナカの話をすると、いつも奇妙な顔をされた。彼らを創った神は、全然違う別の神だというのだ。アシメックにはそれが不思議だった。カシワナカのほかに神がいるなどとは思えなかった。彼らは一体どういう人間なのだろう。ヤルスベ族を創ったという神の名前を聞いたことはあるが、なんだかそれはとてもいやなもののような気がして、アシメックは聞くたびにすぐに忘れてしまった。
彼らには彼らの流儀がある。真実というのはきっと深いのだ。何かが違う形で、彼らには流れてきているのだろう。そんなことをおぼろげに考えていた。とにかくアシメックにとっては、すばらしい神はカシワナカ以外にいなかった。
アシメックがカシワナカの目を九分通り仕上げたころだった。背後で突然スライが声をあげた。
「このどろぼう!」
おどろいて振り向くと、スライは油を塗る筆を振りながら作業場を走っていた。
「どうした」と言ってアシメックも立ち上がった。スライは作業場を走り出て誰かを追っていったようだ。アシメックもあとを追ったが、すぐにスライを見失った。彼はもう一度叫んだ。
「スライ、どうした!」
すぐに返事はなかったが、しばらくしてスライは悔しそうな顔をして作業場に戻ってきた。その顔を見て、アシメックは何が起こったかわかった。スライは悔しそうに、「ちきしょう」と言いつつ、天幕の裏に回った。
「やっぱり、裏に干してあった魚がない。こそどろめ、やりやがった」
「オラブだな」
「決まってるだろう」
カシワナ族にも、困ったやつというのはいた。オラブはそういう男だ。村でまっとうな仕事をせず、しょっちゅう人からものを盗んで暮らしていた。子供の時に盗みを覚えて味をしめて以来、そればかりやるようになって、母親にもあきれられ、十五の年に家を追い出されてから、どこに住んでいるのかもわからない。ただ時々、村に忍び込んで来ては、適当な家から何かを盗んでいくのだ。
「困った奴だ。どうにかしないといけない」
アシメックは苦い顔をした。今まで何度となく、オラブを捕まえて説教をしようとしたが、オラブは恐れてだれにも近寄ろうとしなかった。スライやエルヅのような、比較的体の小さい男の家を狙って盗みをする。女の家からも盗む。
オラブはエルヅよりも体が小さく、醜かった。嫌な臭いがすると言って、女たちにもひどく嫌われていた。そんなことも影響しているのだろう。子供のころから友達は全くおらず、親にもいい顔はされていなかったようだ。
どんなやつにも、カシワナカが与えてくれたいいものがあるはずだ、という信念を持っていたアシメックは、オラブにも何かをしてやりたかった。エルヅのような、まっとうな生き方をさせてやりたかった。だがそういうアシメックだけには、オラブは絶対にちかよらない。何が何でも逃げ続ける。
「ちきしょう、今日の夕餉がなくなっちまった」とスライがまた悔しそうに言った。アシメックは言った。
「うちの糠だんごが余ってるから分けてやるよ。後でもってこよう」
「いや、いいよ。栗をためてあるから今日はそれを煮る。オラブのやつめ。逃げ足だけははやいんだ」
「なんとかしないといかんな。すみかは全然わからないのか」
「イタカでよく見かけると言ってるやつがいるよ。山の方に住んでるんじゃないか?」
イタカの野の奥には緩やかな山があり、部族の人間も秋にはよく茸や木の実を採集にいった。榾を拾いにいくものも多かった。だが、山の奥の方は闇が深く、あまり人は近寄らなかった。こそどろが隠れるとしたらあそこしかないと、だいたいのものは思っていた。
たぶんそれは外れていないだろう。アシメックは、一度男たちを集めて、山を捜索をしなければならないと考えた。いつまでも放っておくわけにはいかない。彼は母親から教えられて忘れることのできないカシワナカの歌を思い出した。
知恵はいいことに使え
いやなことをするとフクロウがたたる
正しいものが常に勝つ
オラブは一体どんな暮らしをしているのか。悪いことばかりして、神の歌に逆らっていて、苦しくはないのか。アシメックはイタカの方向にある空を見つつ、小さく息をついた。そばでしきりにスライが悔しがっている。アシメックはスライを慰め、今日は一日手伝ってやるよと言った。
その言葉通り、アシメックは夕方近くになるまで、スライの仕事を手伝った。スライは喜んだ。彼もアシメックのことはとても好きだったからだ。いい体をしたいい男が、自分の言うことを聞いて仕事を手伝ってくれる。それだけで、オラブにとられた魚のことなどすっかり忘れてしまった。
仕事が一段落すると、スライは嬉しそうに言った。
「あと十日もすれば、稲刈りが始まるだろう。十分に舟はできている。今年の稲はどんな感じだね」
アシメックは答えた。
「オロソ沼の見張り役によると、上々だそうだ。この秋もいい米がたくさんとれるだろう」
「またうまい米がいっぱい食えるな」
「そうとも」
夕方、アシメックが帰る頃になると、スライは天幕の中に入って土器の壺に手を入れ、栗を十個ほども出してきた。そしてそれを皮袋に入れながら言った。
「今日の礼だよ。手伝ってくれて助かった。少しだけど持ってってくれ」
「いいのか」
「いいとも、いいとも」
スライが嬉しそうに言うので、アシメックは栗を快く受け取った。皮袋はまた返しに来なければならない。
家路をもどりながら、アシメックはもらった栗をさわりつつ、オラブのことを思った。山に住んでいるというが、どんな暮らしをしているのか。山で木の実でも拾って食っているのだろうか。誰にも相手にされず、さみしくはないのか。
いずれ山に行って、探してやらねばなるまい。
アシメックはそう思った。そして自分の家が見えるころ、アシメックは気付いた。米の匂いがする。おお、今日は米を食う日だ。ソミナが青菜と一緒に米を煮ているのだ。
そう思うと、急に腹が鳴った。米ほどうまいものはない。おれに食わせるため、時間をかけて米をついてくれたのだろう。ソミナはいい女だ。おれのために面倒なことはなんでもやってくれる。大切にしてやらねばならない。
アシメックが自分の家の入口の覆いに触れるころ、東の空には夜の気配が漂い始めていた。
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