族長アシメック


朝、アシメックが目を覚ますと、もう妹は朝餉の準備をしていた。うまそうな糠だんごの匂いがする。それは彼の好物だ。


アシメックはこの天幕に、妹と二人で暮らしていた。親はとっくに死んでいた。妻はいなかった。


はるかな後世の人間が、紀元前3000年ごろだと推定するだろうこの頃、人間社会に結婚制度というものはまだなかった。人間は大人になると、ほぼ自由に、好きなように異性と交渉していた。子供は女のものだった。男はほとんど子育てに関与しなかった。


アシメックにも子供はいた。彼も何人かの女と交渉を持ったことはあったのだ。今はほとんど興味をなくしたが、若い頃は数人の男友達と連れ立って、目をつけた女の家に忍び込んだこともあった。その女の一人が産んだ娘が、最近また娘を産んだ。彼の孫にあたるが、平均寿命が四十にも満たなかったこの時代、孫を見ることができる人間はまれだった。


彼は四十二になろうとしていた。当時としては老人の域だ。だがまだ若々しかった。高い望みを胸に秘めていた。


妹が、飯ができたと声をかけてきたので、アシメックは寝床から立った。火を絶やさないように気を付けている囲炉裏のそばにいくと、土器の皿に糠だんごを二つ載せて妹が差し出してきた。妹には子供はいなかった。醜女だったので、男がつかなかったのだ。名はソミナという。しかしアシメックはこの妹を愛していた。不細工だったが、声や頬の線が母に似ていた。つくってくれる飯もうまかった。


糠だんごは、米糠を熟成させ、甘菜の蜜をまぜてねってまるめたものだ。癖はあるが、なれるとうまい。いい身分の人間が食うものではないのだが、アシメックが好きなので、妹はたびたび作ってくれた。このカシワナ族の村の南には、オロソ沼という大きな湿地帯があり、そこにはすばらしい野生の稲の群れが自生しているのだ。カシワナ族の人間はその稲を採取し、それを主食にして暮らしていた。赤米だが、実にうまく、人々は毎年目の色を変えて採集していた。精米する過程で大量に出る糠も、人々はさまざまに利用していた。糠だんごもそのひとつだ。


二つ目の糠だんごを食い終わると、アシメックは口をぬぐいつつ、出口のところに置いてある土器の広鉢のところに行った。それには水が張ってあり、カシワナ族の男は、毎朝それを水鏡にして顔を見、化粧を直すのが習慣だった。入り口から光を入れながら水に映した自分の顔を見、頬に入れてある文様を確かめた。彼の両頬には、赤土を解いた紅で描いた三角形の模様があった。それは神カシワナカのしるしで、カシワナ族の族長のみが顔に描くものだった。族長である限りは、その印を消してはならない。崩してもならない。アシメックは水鏡を見ながら、文様が特に崩れてはいないのを確かめた。ゆえに彼は、今朝は広鉢の横に置いてある赤土を入れた小さな土器には触れなかった。文様が崩れていたときは、それを水で溶き、文様を書き直すのだが、今日は別にそれをしなくてもいい。


それから彼は家の外に出た。明けて間もない空を見つつ、朝の冷えた空気を肺いっぱいに吸った。心地よい。アシメックはこの朝の時が一番好きだった。これから始まる一日の予感が、明るくよきものとして体中に満ちてくる気がするのだ。


彼は族長の顔をし、肩に威厳を出して歩き出した。行く先は、三軒隣の家に住んでいる、巫医のミコルのところだった。ミコルはもうすでに家の外に出て、地面に敷いた茣蓙の上に座り、何事かをしていた。アシメックは遠慮なく声をかけた。


「今日の占いはどうだ」


「これからだ」とミコルはすぐに答えた。


ミコルはひとひらの茅布を地面に敷き、その上に赤い色砂をまいた。そしてひとしきり神への祈りの呪文を唱えたあと魚骨ビーズの首飾りを振りながら、その砂に三度息を吹きかけた。そして茅布の上に現れた砂の文様を見ながら、しばらく考えていた。


それは風紋占いといい、カシワナ族に昔から伝わる、神の心を知る方法だった。アシメックはミコルのわきからその砂に現れた文様を見た。アシメックにはその意味はわからなかったが、ミコルにはわかるらしいのだ。


「どうだ」としばらくしてアシメックは言った。するとミコルは答えた。


「西の方がよい。今日は川の漁がうまくいくだろう」

「そうか」

アシメックはそれを聞くと喜び、ミコルに礼を言うと、そのまま川の方に向かって歩き始めた。村を横切り、しばらく歩くと、川の匂いがした。


ケセンの川と、カシワナ族が呼んでいる川は、村の西側をゆったりと流れていた。それは国境でもあった。川の向こうの土地はもうカシワナ族の土地ではなかった。そこにはヤルスベ族という部族の村があり、何もかもがカシワナ族の村とは違っていた。


肌の色は同じだったが、顔の特徴が違っていた。カシワナ族は鹿皮の腰布を着用するが、彼らは熊の皮の腰布を着用した。カシワナ族は赤土で顔に文様を描くが、彼らは胸に妙な刺青をしていた。言葉も微妙に違う。自分たちと違う部族には、人間はいつも強い不安を感じるものだ。だがヤルスベ族を馬鹿にするわけにはいかなかった。彼らはカシワナ族にはない高い技術を持っていた。それをカシワナ族は必要としていた。


川での漁をすることも、ヤルスベ族との交渉なしではできなかった。たびたび、川ではヤルスベ族との争いが起こった。そのたびに、カシワナ族の族長は川に来てけんかの仲裁をした。お互いに仲良く川の魚を分け合えるように、決まりを作って、ヤルスベの族長と何度も話し合った。


わけのわからないやつらだが、かたきにしてはだめだ。おれたちにはないいいものも、やつらはもっているのだ。


アシメックは常にそう考えていた。難しい相手でも、カシワナ族のためには必要なのだ。部族のためにやらねばならないことは、族長がやらねばならない。アシメックはそう思いながら、川への道を歩いていた。


川の岸辺に来ると、もう何人かの男が漁をしているのが見えた。小さな舟を川面に出し、枝を編んで作った大きな罠を引き上げて確かめている。魚がたくさんかかっているらしく、男たちは嬉しそうに騒いでいた。アシメックは目を細めて彼らを見ていた。


男たちは罠籠を持って舟をこぎ、岸に戻ってきた。そして岸に茣蓙をしき、籠をひっくり返して、とれた魚を出した。三つの罠籠から、三十匹ほどの魚が落ちて、さっそく男たちはそれをより分け始めた。銀色の細長い魚は食うものだ。だが、緑色の模様のある小さい魚は食わない。それは身をそいで、骨から魚骨ビーズをつくるのだ。


石を削る技術などないこの時代には、魚骨ビーズが身を飾るものだった。美しい色を塗り、茅草で作った糸に連ねると、それはきれいな首飾りができた。文様を入れ込み、いいものができると、神にささげた。村で高い役をする男には、優先的に与えられた。女にも時々与えられた。


魚骨ビーズは一匹の魚から十個ほどしかとれない。貴重なものだった。一つの首飾りを作るのにかなりの苦労がいった。だからその首飾りをつけられるのは、村でとてもいいことをしたものに限られた。


当然、アシメックの胸にも魚骨ビーズの首飾りがあった。それは三連の立派なもので、アシメックの広い胸でいつもちらちらと光っていた。それを見るたびに、村人は、アシメックがみなのためにどんなことをしてきてくれたかを、思い出すのだ。


魚をより分けながら嬉しそうな声をあげている男たちを、アシメックは愛おし気に見ていた。そして声をかけてやった。


「たくさんとれたな。神の恵みだぞ。ありがたく思え。まじめにはたらいて、いいことをしていると、神がたくさんのものをくれるからな」


アシメックの暖かい声は、みなの心に解けるように入っていった。それだけで幸せになるような気がした。また川に舟を出して働こうと、明るく思うことができた。


とれた魚は、漁で働いた男たちに平等に分けられた。アシメックも三匹もらった。アシメックは遠慮したが、どうしてももらってくれというので、アシメックは断ることもできず、もらうことにしたのだ。三匹の大きな銀の魚を見つつ、アシメックはその一匹は妹のソミナにやろうと思った。そしてもう一匹はミコルに、あともう一匹を、少し考えてから、宝蔵を守っているエルヅにやろうと考えた。


そう思うと、アシメックはすぐにでもエルヅに会いたくなった。そこで、漁をしていた男たちに礼をいうと、村に帰っていった。


宝蔵(たからぐら)というのは、族長の天幕の裏にある天幕のことだ。そこには村の共有財産が収められている。大事なものだから、常に見張り番がいて、管理をしていた。その管理をしている男が、エルヅという男なのだ。


エルヅは変わった男だった。体が小さく、鹿狩りなどの厳しい労働には向いていなかったが、数というものに強く執着していた。数を数えるのが好きなのだ。


カシワナ族にも計算というものはできる。だが、どんなに頭のいいものでも、百以上の数を数えることができなかった。カシワナ族の言葉では、百のことはティンダという。そしてそれ以上の数は、ティンダレア(百以上)と言って、もう考えることができなかった。しかしエルヅはその先のことを考えていた。そして十進法を発展させて、三千まで数えることができたのだ。


「簡単なことだ。一がウスで、百がティンダなんだから、百より一つ多い数は、ティンダウスだろう。それでずんずん増やしていけば、クルティンダクルサムクル(九百九十九)の次に、くらいをあげればいいんだ。それをおれはメイダ(千)というんだ」


エルヅはそういうことを考えるのが好きなやつだった。アシメックはそういうエルヅの話を、いつも静かに聞いてやった。自分の興味を持っている数の話をする時、エルヅはとても嬉しそうだった。そういうエルヅのかわいい顔を見るのが、アシメックは好きだった。


小さくて弱い奴にも、いいところがあるというのが、アシメックは好きなのだ。アシメックはそんなエルヅのいいところを生かして、宝蔵の管理をさせていた。宝蔵にある宝の数を数えさせ、みんなの宝が盗まれたりしないように、注意させていたのだ。


村の道を戻り、自分の天幕に入って、妹のソミナに二匹の魚をやり、一匹はミコルに分けるように言づけておいてから、アシメックは裏の方の宝蔵に言った。エルヅはずっとそこに住んでいるのだ。宝蔵は、普通の天幕を三つ組み合わせたような大きな天幕だった。容易には入れないように、周りに石をたくさん置いてある。神カシワナカを現す文様を削り出した板を外部に吊り下げ、そのすみには盗人は罰されるという意味の記号も彫ってあった。これもエルヅがつくったのだ。


アシメックが宝蔵の入り口に回り、エルヅの名を呼ぶと、しばらくして中から小さな声が聞こえた。


「入り口は今開いてるから、入ってくれよ」


そこでアシメックは遠慮なく、入り口に下げてある鹿側の帳をあげ、宝蔵に入っていった。中では、エルヅが茣蓙に座り、何かをしきりに数えていた。


アシメックはしばらく宝蔵の隅に立ち、その様子を眺めていた。


エルヅは厚い茅布で作った袋から、鉄のナイフを取り出し、それを数えていた。鉄のナイフは村の共有の財産で、部族の一番の宝だ。カシワナ族はまだ鉄のナイフを作ることができなかったので、隣のヤルスベ族からそれをもらっていた。もちろんただではない。カシワナ族の居住域には、オロソ沼という広大な湿地帯があり、そこには野生の稲の大群落が自生していた。その稲を採取し、採れた米を交換物として差し出し、ヤルスベ族から鉄のナイフをもらうのだ。


ヤルスベ族には鉄のナイフを作る技術があった。聞いたところによると、昔ヤルスベ族の神からもらった炉を使い、熱い火を燃やして石を溶かすのだという。それでナイフを作るのだが、ヤルスベ族はどうしてもその技術をカシワナ族に教えてくれなかった。どんなやり方で作っているのかと詳しく聞こうとすると、ヤルスベ族の民は途端に嫌な顔をする。そして仲間でない者には絶対に教えないと言って、変な呪文を叫び、カシワナ族を追い返してしまう。


鉄のナイフは美しい。そしてその切れ味と言ったらすばらしいのだ。石包丁だったら、稲を切ると四本目くらいですぐ欠けてしまう。だが鉄のナイフならずっと欠けずに使えるのだ。丁寧に手入れしていけば、一生使うこともできるのだ。


鉄のナイフは大事な宝なので、アシメックは稲刈りの時のみに使うことにし、普段の調理には石包丁を使わせていた。稲刈りの季節でないときは、みなここに集めて、茅袋に入れ、エルヅに管理させているのだ。


しばらく見守っていると、エルヅはナイフを数え終わったらしく、大きく肩で息をした。アシメックはさっそく声をかけた。


「いくつある」


「ティンダイタ(百二)だ」


「うむ。減っていないな」


「うん。だけど、かなり、腐りかけているのがある。ずいぶんと古いのだ。鉄のナイフも使いこんでいくと傷んでくるな。新しいのをもらわないといけないよ」


「もちろんもらうさ。この秋の稲刈りが終わったら、収穫の一部を出して、ヤルスベからまたナイフをもらうつもりだ。腐ってきているやつは別にしておいてくれるか」


「うん、わかった」


エルヅはまだ若い。二十代の半ばくらいだ。子供のころから小さく、大人になってもみんなほど大きくならなかった。それでいじめられたこともあった。アシメックはこういうやつが気になってならないのだ。無事に生きていけるかどうか心配で、ずっと見ていた。エルヅに数を数える才能があるとわかったときは、アシメックは自分のことのように喜んだ。


エルヅも、宝蔵の管理という仕事を、喜んでしているようだ。いろんなものを数えられるのがうれしいらしい。鉄のナイフや、まだ細工する前の魚骨ビーズや、収穫した米を入れた土器の数だとか、毎日のように数えていた。そして数えていくうちに、いろんな足し算をして楽しんでいるらしい。


四と七を足すと十一だとか、狐の足の数とフウロ鳥の足の数を足すのだとか、いろんなおもしろい遊びをしているのだという。フウロ鳥が八羽と鹿が三匹なら足は何本かとか、考えるだけで楽しいらしい。


アシメックはエルヅが立派に生きているのがうれしかった。こんな風にして、族長は、部族のすべての人間のことを考えているのだ。なぜかはわからない。ただ自然にいつの間にかそんなことばかり考えるようになっていた。アシメックは生まれた時から、人より体が大きかった。顔も声も美しかった。それで若い時から、族長になることを期待されて育った。そのせいなのか。彼は部族のみんなをほめまくった。みんないいやつだ。いいやつだ。どれだけでもがんばって、おれがみんなをいいことにしてやるんだ。


明るい目で言うアシメックは、部族の皆に好かれていた。


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