儚いもの
第23話
最終オーディションに残った三人の資料を抱え、本間はROZAにいる美波を尋ねた。
時間が少し早かったこともあり、そこは最初に踏み入れた時のような熱気に包まれ、ステージの中央には微笑みひとつ浮かべない【ミナミ】がマイクを持って歌っている姿があった。
本間は左端に空いているカウンターの席を見つけると、そこに腰を下ろす。
それと当時にバーテンダーが目の前に立った。
「あ、車で来ているんでウーロン…え?」
何気なく見上げた本間の視線に映ったのはROZAの制服をきちんと着こなした一史だった。
「お前!」
「しっ!! ウーロン茶ですね」
気持ち俯いたままの状態で本間の発言をねじ伏せ、一史は奥に引っ込んでいく。
唖然の様子の本間に気付いた貴昭が近付いた。
「ビックリしました?」
我を忘れていた本間は彼の声でハッと気付いた顔をする。
「ビックリっていうか。あいつここで何をやってんの? 新しいドラマの仕事が」
「断ったらしいですよ、どうしても美波の作品に出たいからって」
ステージでは演奏を終えたミナミが客席に向って一礼をしている。
「だからって、ここであいつは何を?」
「ちょっと待っていてください」
貴昭は従業員に指示を出しながら入口のドアを自ら開けに行く。
その瞬間、冷たい空気が一気に室内を新鮮な色に変える。
さっきまでの出来事がまるで夢だったかのように集まったお客は思い思いの感情を抱きながら落ち着いた表情を浮かべ、自分たちの世界へと帰っていく。
その様が妙に切なく本間の目には映った。
「所詮、ひと時の夢か…」
戻ってきた貴昭は本間のぼやきに首を傾げた。
「いや、こういう空間に身を置くと実感するんです。俺等が提供しているものと似ているから。結局は儚い夢っていうか」
「意外だな、本間さんからそんな言葉」
貴昭は一史が運んできたウーロン茶を自分が代わりに出し、一史には違う仕事を指示する。
本間はそのやり取りに気づくことなく、楽しそうに友達と話しながら出て行く人や携帯電話で誰かに連絡している人の姿を考え深げに見つめている。
「意外じゃない、常に不安と隣り合わせです。自分がいいと思って発信しているものがちゃんと伝わっているのか、そのことによって誰かが苦しんでいないのか、プラスのこととマイナスのことがいつも頭の中を支配している。女が逃げていくはずです」
テーブルに置かれたウーロン茶に気付いて本間は浮かべていた笑みを消して一史を探す。
「彼なら裏で片付けしています」
「なんで、そんなこと」
「美波が彼に出した課題ですよ」
貴昭は何か作りましょうか? と本間に尋ねる。
その申し出に本間は申し訳なさそうに頷き、言葉を繰り返す。
「課題? それがバーテンダー?」
「美波の作品を読んだんでしょ? だったらお分かりじゃないんですか?」
冷蔵に手を伸ばした貴昭は答えを告げずに本間に背を向ける。
「それってつまり」
思い当たることがあった本間は自分が体を乗り出していることに気付くと、慌てて腰を椅子に深く下ろした。
「タスクはステージに立たない日は矢上匡として俺の下で働いていました。その変貌はファンの子達さえ気付かないほど完璧だった。彼の徹底ぶりは見事でしたからね」
貴昭の説明に本間は思わず吹き出す。
「それで一史も? よく思いついたな」
「京一の提案だったようですけどね。彼も自分の立場上、ここに彼が通っているってことが公になっては困るみたいですし」
ライブハウスにいた最後のお客が出て行く後ろ姿に貴昭が「ありがとうございました」と声をかける。
それと同時に暗かった室内に明かりがつき始め、二人のバイトが掃除を開始する。
「じゃ一史にもまだチャンスがあるってことか。人間、粘ってみるもんですね」
「さすがに美波も困っていました。急に素っ気無くなった本間さんの態度に責任を感じていたような気がしないでも…。まさか、そこまで計算はしてないですよね?」
本間は貴昭の指摘に右手を上げ、小さく左右に振って否定した。
「さっきの続きじゃないですけど、頭の中はプラスとマイナスでいっぱいですから」
美波からの連絡を聞いてもちろん期待は抱いていた。
けれど好転するとは思えなかった。
だとすれば彼女が気に入る人間を探して来なければならない。
ここ数日は最終オーディションに残る人材の確保に必死だったのだ。
「これは嬉しい誤算だ。一史には頑張ってもらうしかないかな」
「やっぱり彼がベストなんですね」
手際よく食材を炒め始めた貴昭の問いに本間は大きく首を振って頷く。
「ええ。常に不安と隣合わせで生きていると妙に信じてしまうものがあるんですよ」
「信じてしまうもの?」
「運命ってやつ。出会うべきして出会うもの。俺の中で根拠のない自信を持たせてくれるというか。俺と藤原美波の作品との出会い、俺と一史の再会。そして俺の現場復帰。今までにないほど、この運命に期待しているんですよ」
力強く、何かを捕らえるような眼差しに貴昭は調理をしながら微笑みを見せる。
「さっきまで儚い夢だってぼやいていた人とは思えないですね」
「そうですか。でも儚いものだとは思っていますよ。この作品だって、どうなるのかは未知数ですから。でも」
「でも?」
火が通ったことを確認して貴昭は焼き飯をお皿に盛り付けると、本間の前にそっと置く。
「それでも人は、その儚いものに希望を見る。そこから何かを得て自分の人生を考える。誰もがそう思ってくれているかは分からないけど誰か一人でも何かを思ってくれるなら成し遂げた意味はあるって信じているんです。その小さな変化は、きっと必ず大きな波を呼ぶ。[サイレント ワールド]という作品は、その力を十分に持っているものだと思うし、それを一人でも多くの人間に伝えるには【今井一史】が適任だと俺は思っているんですよ」
本間は熱弁している自分にちょっと恥ずかしくなって頭に手をやった。
その仕草に貴昭は笑みを絶やさない。
「本間さんて本当に不思議な人ですね、美波の言うとおり」
「俺にすれば彼女だって不思議な存在ですよ。あんなに抑えきれない感情を抱えていて、それを封じ込めている。妙に平然な表情で。あの年令で彼女は一体、何を抱えているのか、俺は単純にそこが気になりますけどね」
貴昭の賄いに手をつけながら本間は美波に対してずっと気になっていたことを口にした。
その問いに貴昭は楽屋から出てくる美波の姿を捉えて囁く。
「別に難しいことじゃないんですよ。彼女が描いた作品どおり。一人の人間に恋をした。それが始まりだった。だけどそれは普通の恋とは違っていた。そのせいで彼女は背伸びをしたんです。自分の背丈に見合わないものを選ぶしかなかったから」
真剣な表情を浮かべ、それを崩し、貴昭は近付いてくる美波に聞こえないように囁く。
「だけど彼女にはまだ未来は残っている。必ず彼女を救ってくれる出会いがあるとオレは信じていますけどね」
仲間に囲まれ、現われた美波の姿に気づいた本間は合図を送ると、自分の用意してきた書類を静かに鞄の中になおした。
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