耳をふさぐ

文学少女

人間失格

「どうだ? 受験勉強の方は」

 お盆休みで帰省した兄が、家族で晩御飯を食べている中、大きな口で白米をほおばったあと、茶碗に箸を置いて、何気ない様子で僕に向かってそう言った。浪人している僕を気にかけているようだった。食卓の上には生姜焼きが並べられていて、その香ばしい匂いが食卓の上を漂っていた。僕はその質問で血の気が引き、咀嚼していた生姜焼きを無理やり飲み込んだ。ちゃんと嚙まれていない生姜焼きが喉を通る感覚が気持ち悪かった。

「まぁ、ちゃんとやってるよ」

 僕の声は、頼りないほどか細い声で、情けなかった。声が少し震えていたかもしれない。胃の中の食べ物が逆流しようとしていて、僕は必死にそれを抑えた。兄の方を見ることはできず、視線はまだ残っている生姜焼きに注がれていた。

「もぉやめてよ新太。新太と違って、秋人くんは別に言われなくてもちゃんと勉強するのよ? ね?」

 べたつくような甘ったるい声で、母親はそう言った。母親は兄を呼び捨てにするが、僕は君付けで呼んでいた。僕だけが家族としての距離感から疎外されているようで居心地が悪く、僕を神格化しているようで気持ち悪かった。

「うん、そうだね」

 ぼそっとそう呟くのが、僕の精いっぱいの返事だった。残っている生姜焼きを無理やり口に放り込む。味がしない生姜焼きを必死に咀嚼し、飲み込む。吐きそうなのを必死にこらえる。ただこの場所から逃れたい一心で、僕はその作業を繰り返した。体内に入れてはいけないものを飲み込んでいるような感覚だった。家族が楽しそうに話している声が、だんだん遠のいていった。僕にとって食事ほど嫌なものはなかったが、今の食事は一段と酷いものだった。

 僕は何とか食べ物をすべて飲み込んで

「ごちそうさま」

 と言って席を立ち、足早に食器を流し台の方に持っていき、僕は部屋に向かった。僕の背後から「あいつは偉いなぁ」という兄の声が聞こえて、僕はまた吐きそうになったが、なんとかこらえた。

 部屋に入ると、僕は勉強机に向かわず、ベッドに一直線に向かい、横になった。胃に異物感がある感覚が消えるのをしばらく待った。ベッドに寝ると全身から力が抜けていき、脳味噌が麻痺していく。何もする気が起きなかった。考えることも、体を動かすことも、僕の体が拒否していた。

 掛け時計の秒針が鳴らす、かち、かち、という音が、変に大きく聞こえた。それを意識し始めると、その音に僕の頭は支配されていく。そして、胸の中で漠然とした不安がどんどん広がる。疲れて、眠りたいのに、秒針の音がうるさくて、僕は眠れなかった。そうしているうちに、時計は、午前0時を告げる、「星に願いを」のオルゴールを奏でた。美しいオルゴールの音色が、僕の耳に清らかに流れて、僕の心に浸透する。オルゴールの美しい音楽を聴きながら、「星に願いを」の歌声が、僕の頭の中で流れていた。


『輝く星に心の夢を

祈ればいつか叶うでしょう


きらきら星は不思議な力

あなたの夢を満たすでしょう


人は誰もひとり

哀しい夜を過ごしてる


星に祈れば淋しい日々を

光り照らしてくれるでしょう』


 僕は、一日の終わりを告げる、「星に願いを」のオルゴールを聴くのが怖かった。今日も、勉強できずに、一日を無駄に過ごしたのだと思うと、憂鬱になり、強烈な虚無感が僕を襲った。身を引き裂くような罪悪感が、静かに燃えていた。閉塞感が息苦しかった。


 三月。僕は布団にくるまりながら、スマートフォンで合否を確認した。予想通り、僕の番号はそこにはなかった。現役で東大に行くなんて、そもそも僕には無理な話だったのだ。心臓の音が段々と大きくなっていき、呼吸が浅くなっていく。指先は冷たい。下の階にいる両親に結果を報告しに行かなきゃいけないことを思うと、全身におもりが埋め込まれたかのように、気が重かった。早く落ち着きを取り戻したいのに、心臓は、はげしく動き続ける。僕はなんとか布団から出て、部屋を出た。階段を下りるとき、脚が震えていた。震える脚を抑えながら、僕は階段を下りて、リビングに入った。両親は並んで食卓に座っていた。

「どうだった?」

 目を輝かせながら、弾んだ声で母親がそう尋ねた。そんな母親を見ると、不合格という言葉を口にするのがためらわれた。僕はうつむいてしばらく黙っていたが、声を振り絞った。

「ダメだった」

 かすれた、情けない声だった。僕は早くこの場から消えてしまいたかった。黙っていた僕の様子を見て、両親はある程度察しがついていたのだろう。あまり驚くような様子はなかった。しかし。明らかに落胆した雰囲気が、僕に重くのしかかった。

「そうか」

 と、父親は静かに呟き、母親は黙っていた。滑り止めで受かった大学は、決して悪い大学ではなかったが、兄と同じレベル帯の大学だった。その大学に行くのは、勉強ぐらいしか取り柄のない自分が、そして、言葉にはしないが、それ以上に両親が決して許さないだろうと思った。僕は声を震わせながら、小さな声で

「もう一年、頑張ろうと思う」

 と言った。

「わかった。まぁ、きっと大丈夫だろう」

「そうね。秋人くんならきっと大丈夫よ。頑張ってね」

 両親は、これまでに聞いたことがないような優しい声で僕にそう言った。両親の優しさがとてつもなく痛くて、僕は両親の顔を見ることが出来なかった。僕はリビングのフローリングの床を、ただ見つめていた。


 翌日の昼間、僕は家で一人だった。僕以外の家族は父の実家に行っていて、僕は勉強するからと家に残ることにした。実際にそうしたいところだが、僕はベッドの上で動けずにいた。また、あの感覚だった。僕の頭の中を黒い憂鬱が満たしていき、脳がどんどん活動を停止していく。脳が麻痺して、僕は何もできなくなる。このままじゃいけないと思いながらも、僕はただ無気力で、怠惰だった。勉強しなきゃ。そう思えば思うほど、僕の体は動こうとしない。なぜ、立つことができないのだろう。こんな簡単な動作が、どうしてできないのだろう。僕の体は、何かに縛り付けられたようだった。立たなきゃ。立たなきゃ。でも、立てない。頭の中を黒い憂鬱が満たしていき、体が麻痺していく。明日は勉強しようと思い続けて、なにもできないまま、今日まで来た。そんな僕とは裏腹に、浪人もすれば、僕ならきっと大丈夫だろうという周りからの期待が、僕を取り囲んで閉じ込めていた。日々、罪悪感がつのるばかりで、今にも発狂しそうな激しい衝動が僕の胸の中でうごめく。それでも僕はなにもしない。なにもできない。ただ無気力で、怠惰なのだ。僕は近頃、これが僕の本質なんじゃないかと思うようになった。

 何もできず、浪人生なのに勉強をしていないという罪悪感がつのり、その罪悪感がますます僕を憂鬱にして、また何もできなくなるという悪循環が、繰り返されていた。浪人生という今の僕の肩書は、勉強をすることでしかその存在を許されない。それなのに勉強をしていない僕は、許されない存在だった。電気もつけず、カーテンも閉め、薄暗い部屋の中にいた。カーテンの隙間からわずかに日の光が漏れ、枕元にある「人間失格」に、黄金色の一筋の光が差し込んでいた。

「今日暇かな? ご飯でも食べない?」

 と、恋人のあゆみLINEを送って、携帯を足元の方に放り投げた。自分の世界に閉じこもるように、僕はまた布団の中にもぐった。布団の中にいるときだけ、僕は安心できた。何からも疎外されて、ただ一人でいる空間が、心地よかった。

 しばらくして、僕は空腹を感じた。なにもしていなくても、食欲はわいてくる。僕はこの食欲が嫌いだった。重い体をなんとか動かして、僕は立ち上がり、下の階に降りた。やかんに水を入れ、火をつける。僕は暗いキッチンで、水が沸騰するのを待つ。特になにをするだとか、なにかを考えるということはできずに、待つことしか出来ない。電車が走り去る音が聞こえる。僕はまた、さみしくなる。沸騰を知らせる、高い、不快な、やかんの鋭い音が、僕の耳に刺さった。僕は火を止めた。そして、やかんのお湯をカップラーメンに注いだ。タイマーが三分経ったことを知らせ、僕はカップラーメンをテレビの前のテーブルに持って行き、胡座をかいて座った。食事の時間は苦痛だった。僕は何もしていないのに食事をするというのが、なんだかすごく違和感があって、罪悪感があった。ただ食欲を満たすための食事は、とても恐ろしい。テレビをつけて、僕はカップラーメンを食べ始めた。

 テレビでは甲子園が放送されていた。高校球児が甲子園で見せる涙を見て、僕は感動するわけでもなく、貶すわけでもなく、ただ羨ましく思っていた。涙を流すほど、本気で打ち込み、悔しむことができる彼らが、羨ましかった。僕には涙を流す権利すらないのだから。

 部屋に戻ってLINEを確認すると、あゆみから

「いいよ~。十八時に駅でいいかな」

 と返信が来ていた。

「了解」

 とだけ返して、僕はまた布団の中にもぐった。


 約束の時間の十分前になって、僕は家を出た。まだ外は明るい。群青の青空が鮮やかで、入道雲は大きく膨らみ、穏やかに横たわっていた。僕はその美しい夏の青空を見ると吐きそうだった。ぎりぎりとした蝉の鳴き声が響き渡る中、駅から家に帰る人々に逆らって、僕は駅に向かう。制服や、スーツを着た人々。確固たる身分がある人々。勉強することすらできない浪人生の僕は、何者でもなかった。僕だけがこの世界から疎外されていて、地面に足がついていない浮遊感があった。

 駅に着くと、もうあゆみはいた。

「お待たせ」

 と言いながら、あゆみの前で立ち止まった。

 あゆみは高校から付き合っている恋人だった。黒かった髪は茶色に染められ、ピアスを着け、おしゃれな服を着ていて、相変わらず無地で地味な服装をしている僕と違って、あゆみはいかにも大学生という風貌になっていた。僕だけが何もできずに、変われずに過去にとどまっていて、他の人は前に進んでいるという事実を、僕はあゆみと会うたびに見せつけられているように感じた。

「うんうん、待ってないよ。サイゼでいいかな」

「うん」

 あゆみとともに、僕はサイゼリヤに向かった。僕はこのごろ、あゆみの隣を歩くことが苦痛になっていた。僕が隣にいなければ、あゆみは精神的にもっと前に進めているんじゃないかと、歩きながら考えてしまうようになっていた。あゆみは外見がいいから、よく周りの視線を集めた。その隣にいる僕は、地味ななりをしている、勉強もできない浪人生で、そんな僕はあゆみの隣にはいてはいけないような気がした。

 店に入ると店員が来て

「何名様でしょうか」

 と聞いた。

「二人です」

 と、あゆみは大きな声で堂々と答えた。席に案内され、「ご注文はこちらの紙に番号を書いてお渡しください」と店員に言われ、あゆみは「ありがとうございます」と、店員の目を見て自然な笑顔で返していた。内向的な僕は、こういう会話をあゆみに任せていた。こんなことすら未だに恋人に任せている自分が情けなかったし、大学生になってどんどん外交的になっていくあゆみを見るのは辛かった。あゆみは接客のバイトをしていて、その雰囲気がこういう会話から感じられた。注文をして、二人で水を取りに行った。

 席について、あゆみは「そういえば今日ね」と、その日の出来事や最近の出来事を、僕に向かって楽しそうに話す。僕はあゆみが楽しそうにする話を聞くのが好きだった。楽しそうな恋人の姿を見れば、僕も自然と楽しくなった。だが、ここ最近、僕はあゆみが楽しそうに話すのを、心地よく聞けない自分がいることに気がついた。学科の友達の話、サークルの話、バイトの話、僕の知らない人間関係がどんどん構築されていき、新しい世界が開かれていき、あゆみは楽しそうに過ごしている一方で、僕は日ごとに罪悪感を募らせ、憂鬱になり、何もできずにいる。僕は惨めだった。ただ僕が惨めなだけなのに、じわじわと、僕はあゆみが許せなくなっていた。自ずと返事も、素っ気ないものになっていった。

 あゆみにはカルボナーラ、僕にはミラノ風ドリアが運ばれた。あゆみがフォークを取ると同時にスプーンを取って、僕に差し出し、ありがとうと言って僕は受け取った。あゆみはスプーンとフォークを使ってカルボナーラを綺麗に巻いて口に運んだ。そのカルボナーラを飲み込み

「どう? 勉強の方は?」

 と、あゆみは聞いてきた。また、あの質問だった。今咀嚼しているミラノ風ドリアが、昨夜食べた生姜焼きの味に移り変わってゆく。異物感。吐き気。食べてはいけないものを咀嚼している感覚。僕は吐きそうになるのを必死で抑えながら、ミラノ風ドリアを飲み込んだ。ドリアが僕の喉をなでながら胃に落ちていく。それが手に取るようにはっきりと僕は感じられる。気持ち悪い。

「まぁ、大丈夫だよ」

 僕はまた、本当のことを言えなかった。「大丈夫じゃない」という言葉が、僕はどうしても人に言うことが出来なかった。それは、強がりとはもっと別の何か、もっと歪んだ何かによるもので、僕は人に弱みを漏らすことを罪悪のように感じていた。自分のことは自分でなんとかしないといけないという強迫観念のようなものがあった。

「そっか。まぁ、あきくんなら、きっと大丈夫だよね」

「うん」

 そこで会話は途切れた。二人とも黙々と食べ続け、きん、と食器がフォークやスプーンに当たる高い音や、近くの席で会話している声が、とても大きく聞こえた。僕はなんとなくその会話を聞いていたが、僕とあゆみの沈黙が、時間がたつごとに重たい空気になっていき、どんどんと気まずくなっていった。

「私、あきくんが何考えてるのか、わかんないよっ……」

 あゆみは泣き始めた。周りに聞こえないように嗚咽を必死に抑えて、溢れてしまう涙を隠すようにぬぐっていた。僕は突然泣き始めたあゆみを見て、呆然とし、何もすることが出来なかった。僕が何をしてもあゆみの神経を逆なでするだけで、不正解のように思えた。

「いつもつまんなそうな顔して、時々悲しそうに笑って、辛そうで、だから私頑張ったんだよ。あきくんのためにたくさん頑張ったんだよ。いつも悲しそうだから。いつもさみしそうだから。そんなあなたをどうにかしてあげたくて、浪人生になってから、どんどんさみしそうでさ、私あきくんに笑ってほしくて、すこしでもつらくないようにって、頑張ったのに。でも、わかんないよ。全然わかんない。あきくんは辛そうなのに何も言ってくれない。黙ったまま、どんどん辛そうになってさ、私が何しても無駄みたいに思えてさ、もうわかんないよ。私、どうしたらいいの? どうしたらあきくんは笑ってくれるの? 私の何がいけないの? 私のこと嫌なら、なんで会おうとするの? わかんないよ。あきくんが何を考えてるのか、何にもわかんないっ……。言いたいことがあるなら、辛いことがあるなら、何か言ってよ……」

 嗚咽で止まってしまう声で、とぎれとぎれ、あゆみはそう言った。周りの客や店員の目線が、僕とあゆみに注がれる。僕はその視線が気になって仕方なかった。同情と敵意の視線。針のように鋭い視線が、僕を刺し、貫く。僕は早くこの場から逃げ出したかった。周りの視線と、目の前で泣いているあゆみを見て、僕はどうすればいいのか分からなかった。あゆみに何か伝えたかった。嫌じゃないとか、そういうことじゃないとか、そういう、何か。でも、僕はうまく言葉にできなかった。僕があゆみに会いたかった理由。それはただ、さみしかったからだ。

 つくづく、僕は面倒くさい人間だと思う。こうして言葉にできずにぐずぐずして、何を考えているのか、うまく伝えることが出来なくて、申し訳なさが胸に広がり続けるが、言葉は喉につっかえてうまく出てこない。何か伝えたいことがたしかにあって、その伝えたいものが輪郭をぼやかした塊のまま喉に湧き上がって、つっかえて、もどかしくて、ただ、申し訳なかった。

「私さ、あきくんのためにこんなに頑張ってるのにさ、あきくんは何にも頑張ってないじゃんっ……。私ばっか頑張ってるじゃん。私もう許せないの。あきくんのこと、許せないの……」

 頑張るとか、頑張らないだとか、僕は考えたこともなかった。自分のことで精いっぱいで、自分のことしか見ていなくて、僕は、あゆみのことを見ようとしていなかった。自分のことをいつも被害者の位置に置き、自分は悪くないとしていた僕は、加害者だった。僕はあゆみの言葉に対して、どう返せばいいのか分からなかった。ごめんと言うだけではとても軽薄なように思えたが、今すぐ何かを言わないといけないという焦りがあった。でも、その焦りがより言葉を喉に詰まらせて、僕は何も言うことが出来なかった。溜まっていたものを吐き出し、すすり泣くあゆみを目の前にして、僕は黙って俯くことしか出来なかった。残っていたドリアを食べる気にはなれなかった。泣き止んで、落ち着きを取り戻したあゆみは

「もう帰る」

 と言い、荷物をまとめ始めた。僕はそのあゆみを見て急いで自分の荷物をまとめた。あゆみが店を去り、僕は後を追うようにすぐに会計を済ませて、慌てて店を出た。あゆみは店のドアの横で待っていた。いつのまにか外は暗くなっていて、鼠色の雲が夜空を覆っていた。どんよりとした空気が立ち込めていた。あゆみは泣いてすっきりした笑顔を僕に向けた。でもその笑顔は、どこか物憂げで、申し訳なさそうだった。

「ごめんねあきくん。私じゃダメだった。どうにかしてあげたかったけど、私にはできなかった。でも、きっと大丈夫だよ。あきくんには、きっと、私なんかよりも良い女の人がいるはずだよ」

 あゆみの声は、とても悲しそうだった。あゆみの言葉は、僕が過去の恋人に言われたのと全く同じ言葉だった。僕は、同じ過ちを繰り返していた。僕はあゆみに向けてなんとか言葉をひねり出した。

「本当に、ごめん。あゆみはダメなんかじゃない。ダメなのは僕だ。何も言わなくて、独りで勝手に沈んでいって、排他的になって、何も言えなくて、何も許せなくなって、また、自分を閉じ込めて、あゆみを見ようとしなかったんだ。あゆみは、何も悪くないんだ」

「……ううん。そんなこと、ないよ」

 あゆみは、僕の手を握り、僕の目を見て、そっと微笑んだ。あゆみの手は冷たかった。その冷たさが僕の体に沁みた。あゆみは静かに手を放し、

「じゃあね」

 と言って、去って行った。僕は追いかけることなく、あゆみの背中を眺めていた。あゆみの後ろ姿が、夜の街の中に溶けていった。


 帰ってから、僕は、ベッドに倒れる気にもなれなくて、明るい電気をつける気にもなれなくて、オレンジの豆電球が、さみしく、ぼんやりと灯りを広げる僕の部屋で、ベッドの端に座り、膝を抱えて、あゆみのことについて考えを巡らせていた。そうしているうちに父の実家から家族が帰ってきたようだったが、返事をする気になれず、寝たふりをしてやり過ごした。とても、人と話せる気分ではなかった。

 僕の言葉に嘘はなかった。僕だけが、悪かった。あゆみをあんな風に泣かせてしまった自分が、情けなくて、あまりにも最低で、死ぬという選択が、僕の頭に浮かび上がってきた。勉強が出来なくなってから、すべての歯車が狂っていった。僕はずっと、何をしているのだろう。やるせない気持ちが抑えられず、肺がむかむかとして落ち着かなかった僕は、タバコとライター、灰皿を持ってベランダに出た。僕は浪人生になってから、隠れてタバコを吸い始めていた。家ではなるべく吸わないようにしているが、吸うときは、ベランダに出て、座ってタバコを吸っていた。暗闇の中で、タバコの先端は、赤く輝いていた。何度か煙を吸って吐くうちに、少しずつ気分は落ち着いていったが、それと同時に、苦しいさみしさが湧き上がってきた。もう一度、僕は思った。僕は、何をしているのだろう。

 ベランダから部屋に入るとき、最も恐れていた事態が起きた。そこには、洗濯物を干しに来た母がいた。心臓が跳ねた。いつもなら、絶対にそうならないような時間を選び、物音に耳を済ませながらタバコを吸っていたが、今日、僕は、それを気にする気力がなかった。氷のように冷たい空気が、僕と母の間に流れた。母は、驚きと失望の眼差しを、僕に向けていた。冷や汗が止まらなかった。タバコを握る手から、手汗がじわじわとにじみ出た。

「ねぇ、秋人、それ何持ってるの? それ、タバコだよね? どうしてそんなもの持ってるの? あんな馬鹿な新太と違って、秋人くんはしっかりしてると思ったのに。そういうことしないと思ってたのに。お母さん、うまく育てたと思ったのに。あんた勉強はちゃんとしてるの? そんなもの吸い始めて、何してるの? ねぇ。黙ってないで何か言いなさいよ。なんなの、あなた。私の秋人くん返してよ。秋人くんはそんな子じゃない。やめてよ。頼むから、変なことしないでよ!」

 普段は吐かれる、べたつくような甘い声ではなく、鼓膜をぎりぎりひっかくような、やけに耳に刺さる甲高い声で、母はそう言った。その声を聞いていると、僕はあたまがおかしくなりそうだった。いつもその声で、母は兄を叱っていた。僕は遠くでその声を聞いて、苦しくなって、耳をふさいでいた。僕は、あの声が嫌だったのだ。とにかくあの声を聞きたくなくて、僕は母に叱られないように生きてきただけなのだ。黒板を爪でひっかいたような、背筋が凍る、おぞましいあの声。その声を浴びせられ続けていたが、途中から何を言っているのか分からなかった。母に灰皿を取られ、投げ捨てられ、吸い殻と肺が床に散らばったところで我に返った。母はばたばたと足音を響かせながら下の階に降りて行った。僕は床に散らばった吸い殻を眺めていた。しばらくして、無心で吸い殻を集め、灰を拭き、布団に潜った。眠りたかったが、いつものように、秒針の音がうるさくて、中々眠りにつくことが出来なかった。今日の出来事を思い出して、心臓が、また、どくどくと激しく動き始めた。今日も、「星に願いを」のオルゴールが鳴った。嫌でも僕の鼓膜に浸透してくる美しい音色から逃れたくて、僕は耳をふさいだ。


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耳をふさぐ 文学少女 @asao22

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