第2話

「いらっしゃいませー」


シュテルンのバイト先、【Lacheln】。

昔からあるレトロな雰囲気なカフェで、通うお客さんはこの町にずっと住んでいる住人ばかり。いつからか、老人たちのお話場となってしまっている。

でも、それがここでは当たり前で、変わらない穏やかな日常の一つだった。


「あ、ジェムさんこんにちは」

「あぁこんにちは。いつもの席は空いてるかい?」

「はい、ご案内しますね」


この町では、住人全員が知り合い。だから、バイトもお手伝いに近いものだった。

ここのオーナーはシュテルンの母の知り合いで、ちょうどこの店の人手不足のタイミングでシュテルンがバイトを探していたことがきっかけで雇ってもらえることになった。


「この前の嵐は久々だったなぁ」

「あぁも激しいと、何かの前触れみたいで嫌だね」

「昔は、あぁいう嵐の次の日には死体が海に浮かんでるって言われたものだよ」


お客さんの会話というのは、意識して居なくても耳に入ってくるものだった。

この町の老人たちは、幼い頃に両親から怖い《人魚の物語》を聞かされていた。



ーー あるところに若い男がいた。その日、男はなんとなく気分で浜辺を歩いていた。すると、どこからか女性の歌声が聞こえてきた。それはとても美しく、男は無意識にその歌声の方へと足を運んだ。そこにいたのはとても美しい女性だった。しかし、下半身は魚ですぐに異形の存在だと気づくが、その美しい容姿に惹かれ、一歩、また一歩と女に近づく。

男に気づいた女は、歌を歌いながら両手を広げて男を迎え入れる。男は女に抱きしめられる。その歌声と抱きしめられる心地よさに、少しばかり夢心地になっていた。次の瞬間。気づいた時には海の中にいた。呼吸が苦しくなって男はもがくが地上に戻ることができない。何かが足を引っ張り、逃がそうとしなかった。

視線を下に向けると、先ほどの女がいた。だけど、惹かれるような容姿なのは変わりないのに、ひどく恐怖心を煽るような笑みを浮かべていた。

翌日、漁に出ていた数名の男たちが、海の上で溺死している男を発見した。一枚の、美しい鱗と髪の毛を握りしめて……ーー


嘘か本当かわからないお話。もしかしたら、夜に子供が出歩かないための脅しのようなものだったのかもしれない。実際、この話を初めて聞いた時、シュテルンは子供らしからぬ疑問を母に尋ねたことがあった。


「おかあさん。みんなしんだのに、どうしてにんぎょさんのしわざなの」


成長してこの時のことは母は懐かしみながら度々話すことがあった。まぁ母自身もあまりこの話を鵜呑みにはしていなかった。幼い頃は、祖母に聞かされて恐怖を抱いていたが、今やこの話を口にしているのは町の老人たちだけだった。

この物語について語られて居たのはシュテルンの母たち世代までで、シュテルンが母から聞かされて居た人魚の物語は、そんな怖いものではなく、哀しく尊い物語だった……


「それじゃあ私は上がりますね」


決められた時間の労働を終えると、シュテルンは着替えをすませてオーナーに挨拶をする。

気づいたオーナーは作業の手を止め、彼女の元までくると「お疲れ様」と声をかけてくれた。


「いつもすまないね」

「いえ。次のシフトは明後日でしたね」

「できれば、一日入ってほしんだけど、大丈夫かい?」

「あー……大変であれば大丈夫です。特に予定はないので」

「そうかい。じゃあ頼んだよ」

「はい」


ニッコリと笑みを浮かべ、オーナーが仕事に戻ったタイミングで笑顔が消える。

そのままシュテルンは家のある道には進まず、ミリヤがノアと待ち合わせをして居た場所と、同じ道を進んでいった。

退屈な日常、代わり映えのない毎日。そんな中で、彼女が見つけた幸福な時間。

町外れにある、崖の淵にいつからか存在するお店。

最近、バイトを終えるとここに足を運んでいる。

目的は、たった一つ。

店の扉を開き、控えめのドアベルがなる。窓から差し込む光で商品が輝き、お客さんの目を引くが、シュテルンはそれに目もくれず、カウンターへと足を運び、そこにいる少女に声をかける。


「こんにちは、コラレ」


ニッコリと笑みを浮かべれば、カウンターに座る少女。この店の店主であるコラレが、手にしていたキャンバスを捲り、笑顔を浮かべながら《こんにちは》と書かれたキャンパスを見せた。

控えめな笑顔は、彼女の人間離れした姿にとても良くあっており、シュテルンの心がギュッと掴まれるような、幸福が満ちていくような感覚に襲われる。


コラレはこの店に一人で住んでいる。喋ることができず、会話のやり取りは手にしているキャンバスや小さなメモ用紙だけ。

両親とは離れて暮らしているらしく、兄弟は姉が数名いるとのことだった。

これらの情報は、あの日からずっとこの店に通ったことでシュテルンが彼女から聞いた彼女のことだった。まだ全てではなかったが、少しずつ彼女のことを知ることができるのが嬉しくて、毎日、次会ったら何を話そうかと考えるのが楽しかった。

シュテルンは、コラレに恋をした。

一目惚れだった。

あの日の彼女の姿は何をやっても上書きすることができないほどに、目に、体に、記憶に、激しく刻み込まれてしまった。

触れてしまえば壊れてしまいそうで、でも触れたいと思ってしまう。

目の前の少女が愛おしくて仕方がない。

また会いたい、明日も会いたい、朝目が覚めた瞬間に彼女に会いたい。

『恋は人を変える』

何かの本でそれを読んだのを思い出し。当時はその意味がわからなかったけど、シュテルンはあの瞬間、それはひどく理解した。


「あ、本読んでたの?海洋辞典?」


カウンターの側にあった少し分厚めの本に視線を向ければ、すぐにコラレがそれをシュテルンに差し出した。

「ありがとう」とコラレの手に触れないようにしながら、その本を受け取り、パラパラとめくれば、色々な魚についてのことが書かれている。魚だけではなく、サンゴや海藻、石などについても書かれていた。

見たことあるものもあれば、目にしたことのないものも書かれており、この本の中に海がぎゅっと詰まっているようだった。


「あ、これ面白い。《音色石》。振動を伝えると言葉として聞こえる」


辞典の記載には、特殊な場所での実験で、喋ることのできない人に使用したところ、会話を行うことができると記載されている。

とても不思議で、便利なものだとシュテルンは思ったが、この石が手に入る場所は、人間では決して潜ることができないほどの深さで、実験に使用されたものはたまたま手に入ったものだと書かれている。

シュテルンは内心残念だと思い、ちらりとコラレに視点を向ける。

コラレは不思議そうな表情を浮かべながら、キャンバスに文字を書き《どうしましたか?》という文字をシュテルンに見せた。

「なんでもない」と返し、本を閉じた。

もし、この石が手に入れば、彼女の声を聞くことができるかもしれないと思った。だけど、こんな石がたまたま手に入るなんてことはない。愛しい彼女の声を聞くことは、この先一生ないと諦めた。


「そういえば、この前あげた紅茶はもう飲んだ?」

《はい。すごく美味しかったです》

「それは良かった。他にもおすすめがあるから今度持ってくるね。あ、一緒にお菓子も買ってくるよ」


一緒にお茶をしようと誘おうとしたが、シュテルン自身それでは下心が見え見えかなと思い、言葉を続けなかった。

こうやって店に通ってるだけでもそう思われているのではないかと、少しだけネガティブに考えてしまい、普通に誘えばいいことも言葉を止めて一歩踏み出すことはできなかった。


「お菓子は、コラレが前に好きだって言ってたところのを買ってくるよ」

《嬉しいです。あそこのお菓子、一つ一つ手作りなので、個数が決まってるせいでなかなか買えなくて》

「そうなんだ。朝とか買いに行ったら普通に売ってるから気にしたことなかったな」

《えぇ、夕方にはもう完売してしまっていることが多いので》

「へぇーそうなんだ」


ということは、とシュテルンは考えた。

コラレの行動時間は夕方ぐらいなんだと。運がよければ、その時間帯にお店の外で会える可能性があるのではと思った。

しかし、我ながらこの思考はストーカーのそれだなと思い、考えるのをやめた。


「あ、そうだ。コラレにちょっと相談」

《はい、なんですか?》

「もうすぐ友達の誕生日なの。プレゼントをあげたいんだけど、何かオススメある」

《このお店のですか?》

「うん。綺麗だし、贈り物はぴったりだと思って」


立地が悪いせいで客足のないコラレの店。商品はどれも素敵なものなのに、とても勿体無いとシュテルンはずっと思っていた。

このお店がもっと繁盛したらいいなと思うが、その反面、忙しくなって自分以外に関心が行くのがひどく嫌だと感じた。

矛盾する感情。そうは思うが、シュテルンは後者の方が強い自覚があった。自分だけを見て欲しいという、傲慢な嫉妬。


「できれば、ブレスレッドかブローチがいいな」


コラレは少しだけ考えるそぶりを見せ、しばらくすると何かを思いついき、トコトコとカウンターから店内に足を運ぶ。

表情がコロコロと変わり、一つ一つの行動があまりにも可愛すぎ、必死に込み上がる感情を抑え、頭の中ではひたすら「可愛い」が連呼され続けている。

不意に服を引っ張られ、振り返った先には自分よりも少しだけ小柄なコラレの姿があった。

普段はカウンターを挟んで会話をしているため、こんな至近距離なのは初めてで一瞬ドキッとしてしまった。

不思議そうに首を傾げられ、変に思われないように軽く咳払いをして彼女が持ってきた商品に目を向けた。


「綺麗……」


先端が少し青がかっている白いサンゴに、綺麗な色とりどりの石が埋め込まれているブローチだった。

石はまるで宝石のように輝いており、これも海のものか尋ねれば、コラレは小さく頷いた。

彼女はカウンターに戻ると少しだけ説明をしてくれ、長い時間をかけて波に流され続けたことで角や表面が削られて、まるで宝石のようになっていると。

シュテルンはこれをプレゼントとして送ることを決め、コラレにラッピングを頼んだ。お会計をすませ、丁寧にラッピングをしてくれていたが、なんだか随分嬉しそうにしており、シュテルンも思わず尋ねてしまった。


「そんなに嬉しい?自分の商品が売れて」


ハット我に返り、慌ててキャンバスに文字をコラレは書いてシュテルンに見せる。


《確かに、売れて嬉しいですが、シュテルンさんに友達がいることが嬉しくて》

「え、私って友達いないように見える?」

《いえ、そうではないのですが、いつもお店に来てくださるので》

「……迷惑だった?」

《そんなことありません!誰かとお話しできるのは楽しいです》


控えめではなく、満面の笑みを浮かべる彼女に胸がひどく苦しくなる。

彼女は純粋に誰かとお話しできて嬉しいと思っている。だけどシュテルンは、下心で毎日ここにきている。商品を買うでもなく、ただ、好きな人とお話しするために。

その人のことを知りたくて、自分のことを知って欲しくて。毎日、毎日、毎日。

好きになるってことは、とても綺麗なことだと思っているが、シュテルンは己の抱いているこの気持ちが綺麗だとはどうしても思えなかった。

もしこの感情を知られたら、コラレに嫌われてしまうのではないか。もう、話をすることも会うこともできなくなるんじゃないか。心の何処かでひっそりとその不安が身を潜めている。


「私も、コラレとお話しできて楽しいよ」


しばらくして、購入した商品のラッピングが終わり、その日はそのままお店を出た。本当はもっとお話をしたかったが、これ以上は一線を変えそうだと思い、逃げ出した。

もう一度この足を戻して彼女のところに戻りたい。

そんな衝動に駆られても、ぐっと奥歯を噛み締め、店から遠のいていった。

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