猫のキミと暮らせば
竹笛パンダ
第一部 猫君様、現代へ
プロローグ
我は都から離れた里山で、母代わりの乳母のもと、乳兄弟たちと共に育てられていた。
帝の正式な后の子ではなく、側女の腹から生まれた身である。
ゆえに、正殿に上がることも許されず、半ば保護という名の幽閉でもあった。
我には乳母の乳を分け合った者がいた。
少し年上の娘、小夜である。
聞けば、小夜が乳離れしたのち、我がその乳をもらうことになったのだとか。
幼い頃から、姉を名乗っては小言を並べながら、傷薬を手に走り、風邪を引けば額に手を当て、夜泣きすれば隣で歌ってくれた。
当然、赤子の頃のことなど覚えてはおらぬ。
だが、姉であることを盾に、小言を絶やさず、それでも誰よりも甲斐甲斐しく世話を焼く——血のつながりこそなけれども、彼女は誰よりも近しい存在となった。
そして傍らにはいつも猫の「クロ」がいた。
我の出自もあってか友と呼べる者はおらず、このクロだけが遊び相手となり、時に悪ふざけの相棒でもあった。
好きにふるまい、好きな時に黙り込む。
クロと日だまりに並び、丸くなる時間が何よりも愛おしかった。
そんな我を、周囲の者は親しみと畏怖を込めて、「猫の君」と呼んでいた。
いつの世も、すべてをひっくり返す出来事というものは、前触れなく訪れるものである。
平穏な日々は、政に叛意を持つ大人たちの思惑によって崩れ去った。
武家の一派は、帝の血を引く我を亡き者にせんと、夜襲をかけたのだった。
クロは、不穏な空気を察したのか、去り際に一度だけ我を振り返った。
琥珀の瞳が、なにかを言いたげに揺れていた。
……それきり、クロは何も告げず、音もなく、いずこへと去った。
我は小夜とともに、森の奥へと逃げていた。
だが、追手の影はなおも我らを追い立てていた。
「狙われているのは、我の首……。
これ以上、そなたを危険に巻き込むわけにはいかぬ。」
「我が君……。」
「小夜……我らはここで別れようぞ。
どうか生き延びる道を信じて……。」
小夜は肩を震わせ、声を絞り出すように言った。
「我が君、もうしまいと覚悟のうえで、申し上げます……。」
我らは月明かりの射す林の中、ひとつの木株に腰を下ろした。
静寂の中、小夜の声がかすかに震えていた。
「……我が君には、儚き夢を抱いておりました。
ずっと、ずっとお慕い申し上げておりました……。」
その言葉は、夜風よりも細く、我が心に深く沁み入った。
身分も立場も、何もかもが違った。
けれど我は、小夜のその涙を、ただ一人の女として、心から愛おしく思った。
儚き夢 身分の糸に 織り込まれ 思いは薄き 朝露のごと
小夜は袖に顔を伏せ、そっと涙をぬぐった。
やがて目を上げ、そっと我を抱きしめた。
儚き夢 叶わぬ今を 嘆けども 夢のある道 来世に歩まん
我は黙って小夜の手を取り、かすかに震えるその指先を包んだ。
「小夜……また会える日までの辛抱だ……来世にも、必ずや其方を見つけてみせよう。」
月は冴え冴えと、見上げる我らを照らしていた。
命の灯が揺れる最期の瞬間に、我はそっと小夜の手を放し、谷の縁から身を投じた。
風が鳴き、夜はすでに深く、闇に溶けていく。
その時——
我は光に包まれ、肌も心も溶けていった。
そして、遥かな天空の彼方へと舞い上がった。
……気づけば、我は漆黒の闇の中にいた。
だが、何かがおかしい。
四肢に力を入れても動かない。
闇の中で、我は何度も小夜を呼ぼうとした。
けれど、唇は動かず、喉からこぼれたのは……
みゃあ、と甘えるような声だった。
これでは、まるで生まれて間もない仔猫ではないか。
そうして私は気づいたのだ。
どうやら、猫としてこの世に生を受けたらしい。
あぁ、今度は普通の猫として生きていけるのだな。
恐る恐る目を開いてみる。
一筋の光が、確かに、闇を割って差し込んでいた。
その光は、いつかまた小夜と会う日を照らす、微かな夜明けのようでもあった。
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