転身
@heavenly-twins
転身
小学六年生の時だった。
照明が落ちた暗がりの中、レーザーのような黄緑色の光が、観客席のあちこちから伸びて、スクラップ風のステージを照らしていた。周囲のそこかしこで俊敏な足音がする。
これから何が起こるんだろう。
膝の上で手を握っていると、目の前にぬっと人の、いや猫メイクをした黒っぽい人の顔が浮かびあがった。椅子からはねあがりそうになりながら肩をすくめると、その人はじっと私を見つめたかと思うと、本当の猫みたいに気まぐれに視線を外して、どこかへ行ってしまった。弦楽器の細い音がして、最初のナンバーの伴奏がはじまり、十数名の役者が舞台に登っている。群舞の中に、さっき目が合った黒猫というには明るい焦げ茶の縞模様の姿を見つけた。その後も、専用ナンバーもなく、決して目立つ役柄ではないだろう彼を、舞台の中に探し続ける羽目になった。それくらい彼に見つめられた経験は強烈だった。
子供に最低限の文化的な経験を、と。気まぐれに出すは高い二万二千円のSS席のチケットをとった両親にとって、私がミュージカル観劇にハマったのは、完全に予想外だったようで、同じ舞台を何度も見たいという私の欲求は、まるで理解されなかった。お年玉の前借りを交渉しての、二度目、三度目の観劇までは、両親も付きあってくれたが、四度目はダメだった。二度目も三度目も席が悪く、あの猫が目の前にやってくることはなかった。自由にできるお金がない子供にできることは、税込四千円のパンフレットの最後のページの出演者プロフィールをソラで言えるくらい読み込むことと、ミュージカルファンの個人サイトに掲載される、観劇レポを歯噛みしながら読むことだけだった。
そんな欲求不満状態が長く続いた結果、それまで特に熱心な趣味もなく、じゃあ勉強でもしておこうかと、成績的には優等生の部類だった私の成績は、演劇部で俳優ごっこにのめり込んだ中学、バイトで観劇代を稼ぎ始めた高校と、右肩下がりどころから急転直下に近いダイブを何度も見せた。
平日の観劇に融通が利くからという理由で美容学校を出て美容師になり、薄給を補うためにイベントスタッフのアルバイトで観劇代を稼いだ。たまに食べる肉は実家で食べていたようなちゃんとしたステーキ肉じゃなくて、鶏ムネ肉か半額シール付き交雑牛のカレー肉を焼いたものだ。
あの猫を演じていた俳優は、私が自力でお金を稼げるようになる前に、劇団をやめてしまっていた。あの強烈な体験をもう一度と願いながら、惰性の観劇に福沢諭吉もとい渋沢栄一を複数人チケットカウンターに投げ出す人生、誰にも理解なんてされないだろう。美容師なんて……と職業差別意識丸出しの両親に、実家に帰る度に嫌味を言われるなんてワリに合わない。職場帰りの寒さが、アラサーの肩と腰を軋ませて、私を暗い気持ちにさせる。
最寄り駅を通り過ぎようとしていると、選挙活動でチラシを配る人の姿が見える。次の市議候補の演説みたいだ。チラシ配りを避け、候補者に声をかけられないように迂回しようとすると、聞き覚えのある音楽が鳴った。白鳥の湖だ。音楽に合わせて、候補者らしい、長身のスーツのおじさんが綺麗なターンでくるりと回った。
歩いていたところを急に立ち止まった私のかかとに、後ろの人の尖ったつま先があたる。「すみません」とも言わずに立ち去っていくのに、普段ならイタ立ったかもしれない。でも、今の私にはどうでもいいことだった。
ドイツ留学仕込みの綺麗なバレエ風のターン、歌畑の人には及ばず、台詞のある役はほとんどもらえなかった少し物足りない声量。いつも群舞の中に埋もれていて、オペラグラスで追いかけるのも大変なあの人だった。元ミュージカル俳優のノボリを持ったスタッフが隣に立っている。名前は違っていたけど、きっと当時は芸名だったんだろう。
「あのっ、握手していただいてもいいですか?」
突然、握手会をはじめた不審者相手にも、にこやかに応じてくれるのは流石市議候補者だ。彼の表情はにこやかで握手は力強かった。
「是非、一票をお願いします」
さわやかな声で頼まれ、私は何も考えずにうなずいた。投票券の入っている封筒をどこにやったっけ、そもそも投票日はいつだっけ。市議選なんていつも行かないからわからない。近くのスタッフが、選挙活動のボランティアを募集しているのが見える。
美容師とイベントスタッフに加えて、選活ボランティア。足は日本しかないけど、三本足になって、もう一足ワラジを履いてみようか。市議にいるのかはわからないが、いずれは議員秘書にでも転身してみようか。
ミュージカル、ダンスパートの大見せ場、ピルエットの36回転よりはきっと簡単だろうから。
〈了〉
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