沈黙の夢
濡れ鼠
沈黙の夢
サイレンの音が少しずつ近付いてきていた。1台、2台、その音は増殖していき、やがて天色の身体に白い帯を巻いたバスが、その姿を現す。校庭に積もった雪が巻き上がり、赤い光が飛び交う。ジェラルミンの盾を持った男たちが走ってくる。濃紺の出動服が、あっという間に雪煙に塗れる。喧騒、壁の崩れる音。拡声器が僕を捉える。僕は手にしたシャープペンシルを握り締める。
そうだ、全て壊してしまえ。
終業を報せるチャイムが鳴り、僕は我に返った。去っていく教師の背中を見送り、開いたままになっていた日本史の資料集を閉じる。僕の一時の安息が、ページの合間に消えていく。早く片付けて、塾に行く前に英語の課題を終わらせて、あとは、あとは何をすればいいんだっけ。
置時計が、23時を回ったことを教えてくれていた。机の上で『東大の日本史』を開く。
「もうあと1年しかないんだから」
母の言葉を思い出しながら、問題文に目を落とす。重い瞼を押し上げ、頭を小さく振るう。
足音が、廊下を近付いてくるのが聞こえる。シャープペンシルが手から落ちて、慌てて拾おうとした指先が震えた。
装甲車が床を震わせる。盾がぶつかり合い、拡声器が吠え、靴底が雪を蹴散らす。マンションの壁が軋み、窓ガラスが飛び散る。催涙弾が、僕の視界を奪う。僕は拳に力を込める。
全部、全部壊してしまえ。
インターホンが鳴っていた。1回、少し置いて、もう1回。母が部屋を出ていく。床に散らばった参考書が、恨めしそうに僕を見上げていた。心臓の奥が、痺れるように痛む。
「入っても、いいかな?」
振り向くと、部屋の入り口に男が立っていた。濃紺の外套にわずかに残った雪が、雫となって床を濡らす。
僕ごと、全部壊してほしかったのに。
男に投げつけようとした言葉は、喉の奥で溶けて消えた。防刃ベストが僕を睨む。
「勉強、頑張ってるんだ。何を目指してるの?」
『弁護士』がずっと正解だと思ってきた。でも、今は、声に出して答えることができない。男のネクタイの藍鼠が、僕の視界を埋め尽くしていく。男が手袋を外し、参考書を拾い上げる。
「あと60年は生きるんだ」
男が参考書とともに、言葉を差し出してくる。男の濃褐色の瞳に、僕の顔が映り込んでいた。
「ゆっくり考えたらいいと思うよ」
沈黙の夢 濡れ鼠 @brownrat
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