ep.2 錬金術師の秘密都市
舌に染み込んだ薬の苦味は、いつしか痛みとなって喉奥に刻まれていた。
朦朧とする意識の中でそのことに気づくや否や、百瀬は鼻腔に古木の香りを感じ取る。しばし白い天井を眺めたのち我に返り、彼は呻き声を上げながら身体を起こした。
「……」
今いるのは洋風の寝室だ。いつのまにか部屋を移されたらしい。
隣のベッドには例の娘が――、先に目覚めていた彼女はまっすぐ背筋を伸ばして座っていた。赤桃色の壁紙を見つめていた琥珀色の瞳が、ちらと隣に視線をこぼす。
「起きたか。どうだ、
ぽかんと口を開けていた百瀬であったが、ふと自分の手が戦慄いているのに気がついた。
ベッドサイドの鏡台を覗くと、髪の色褪せた痩せ男が鏡の向こう側から覗き返してくるのが見える。――劇薬の副作用など初めての経験だ。うまく言葉が出てこない。
そしてそうして彼が淑女へ返す台詞を決めあぐねていたそのときであった、不意にカーテンの向こうから足音が聞こえてくる。彼は言葉を飲み込んで視線を洋室の入り口へと傾けた。
「おぉ、目覚めましたか。よくぞ試練を乗り越えました。ふたりとも」
扉を開けて現れたのはローブを羽織った老人だ。西洋人らしき彫りの深い顔には白髭が蓄えられ、まるで預言者のような風体をしている。気品ある見た目に違わず地位はあると見え、その後ろにはメイド服を着た西洋娘がふたり控えていた。
「百瀬殿。ようこそ、秘密結社へ。この7日間はいかがでしたかな」
「……あいにく鈍感な質でして。ただ朦朧と過去を反芻していました」
「過去? そうですか、過去を。貴殿は事件に巻き込まれる前も、正義を追い求めて散々な目に遭ったと聞いております。さぞ苦難の多い人生だったことでしょう」
皺だらけの顔で笑いかけてくる老人に彼は曖昧な表情しか返せない。静かに過ごす女性陣を尻目に、老人はその長い白髭をうやうやしく撫でてみせた。
「その経験を無駄にしてはいけませんぞ。――そう、あちらの世界で培った正義の心はぜひとも忘れぬようになさい。強い思いは今後も貴方を支えてくれるはずです」
「……ありがとうございます。心に留めておきます」
異国人のやつれた視線を浴びて、けむくじゃらの老人は「うむ」と大らかな面持ちで頭を後ろに逸らした。そしてグレーに透き通った瞳は隣に座る娘の方へ。
「クリスティーヌ。結婚おめでとう。これからは彼と支え合いながら生きていきなさい」
「分かってるよ」
新婦にうやうやしく頷き返した老人は、続いて背後のメイドたちに目配せした。それを受けて彼女らはそれぞれ両手に抱えていた服を新郎新婦へ手渡してくる。
「こちらをどうぞ」
新品の修道服であった。指触りのよい艶やかな生地。襟には社章が付けられている。純金で象られた人魚のシルエットは秘密結社のシンボルマークである。震えの収まらない手で修道服を抱え、百瀬は深く息を漏らす。
「準備が済んだらふたりの
答える代わり、色黒の淑女は満足げに伸びをした。老人は簡単な会釈をしてからメイドを伴って部屋を出て行き、洋室にはそわそわ落ち着かない新婚夫婦が残される形となる。しばし彼らは無言の余韻を温めていたが――、
「ほら、あっちに座れよ。そんな姿で挨拶に行ってもらっちゃ困る」
百瀬は壁に吊るされた絨毯のタペストリから隣の新婦に視線を転がす。
「挨拶……父親とはいったい?」
「教義上の父親だ。俺も血の繋がりはない。ほら、もたもたするな」
淑女は脱力していた夫の手から修道服を奪い取った。そしてベッドサイドの西洋鏡台へ座るよう目配せする。彼女の面持ちは明るく、彼は眉を八の字にさせてそれに従った。
異国の乙女は鏡台の引き出しから櫛を取って、椅子に座った夫の髪を優しく梳かし始める。ぎこちない沈黙のなか、彼は鏡越しに自分の姿を改めて見つめることとなった。
彼女が撫でる髪はくすんだ乳白色だ。毛根から徐々にグラデーションがかかり、毛先まで行くとまるで水晶のようになる。掌の上で転がされると、透明な髪は淡い虹色に輝いた。
「我ながらひどい見た目ですね」
「数百年前に実際のゴーレム製造で使われていた劇薬を飲んでいるからな」
髪の手入れもそこそこに、淑女は熟れた手つきで彼へ着付けをしていく。――その所作は異様に所帯染みていた。夫にそつなく修道服の着方を教えると、あっという間に自分の着替えを済ませ、ふたりぶんのベッドシーツを整え始めるに至る。
「すぐ終わる。先に出ていてくれ」
つっけんどんな口調で洋室の入り口へと押し出された異国の男は、硬い面持ちのままドアノブに手を掛けた。そして木製の古扉を開けた時、びくりと両眉を上げる。
「ここは……」
艶やかな光沢の石床、緻密な彫刻が施された柱――。思わず彼は息を呑む。
見るに、列柱廊の一角に出たようであった。自分たち以外に人影は見えず、音を立てるものもない。――生き物の気配が一切ない。視線を感じたかと思えば石の彫像だ。全体として年季が入っており、地下へ続く階段などは壁が崩落していて通れなくなっている。
「こっちだ」
呆気に取られる百瀬の脇を抜け、すたすたと石床の回廊を進んでいく淑女。エレベーターホールへと辿り着くと、彼女は細長い指で操作板のボタンを弾いた。一足遅れてその隣まで追いついた百瀬だが、つんとした表情の中東娘には言葉を差し込む隙を見出せず、無言で顎をさするばかり。
――程なくして古めかしいベルが鳴り、ホームドアが開いた。
異国のエレベータは言葉通りの
「っ」
大人ふたりを乗せて床が大きくバウンスするのに百瀬は強張った笑みを漏らす。異国の美女はくいと眉を上げたが、彼が何を考えていたかは分かっていないようであった。
「……」
やがてブザーとともに厚い扉が閉まり、鈍い加速が彼らの身体を抑え込む。
籠の中に涼しい風が吹き込み出して数秒ほど――。格子の隙間から日の光が差し込み、その場に硬くなって立ち尽くしていた百瀬は思わず目を丸くした。
「これは……」
街だ。格子の隙間から、円錐形の丘陵に広がる針山のような街が一望できた。
――そう、針山。謎の黒い巨塔で埋め尽された丘陵の街である。その広大な姿を俯瞰できる中心に百瀬らはいたのだ。丘陵の中心に佇み、眼下の街を俯瞰できる古城――。エレベータはその中枢をぐんぐん昇っている。
「ここが錬金術師の暮らす街……?」
「連れて来られた時は伏せられていたか。【モンターニャ・デラーゴ】というんだ」
「この規模の都市が公になっていないなんて……」
「東西南北にゴーレムの結界が張られているからな。それで外界と隔絶されている」
彼が目を丸くしていたのも束の間、吹きさらしのエレベータは目的階に到着した。
――8階。電光盤に表示されていた中では最も上の階だ。ホームドアをくぐると薄暗く人っ気のないホールに出る。
赤絨毯の廊下を少し歩けば、さらに上へと続く階段があった。大理石の豪華な室内階段だ。最上階であるこの階と屋上を真っ直ぐ結んでいる。
「屋上に霊園があるんだ。ご先祖に報告しようと思って」
そう言って娘は百瀬の手を取った。――柔らかく、冷たい手。百瀬が視線をやった先には無表情の澄んだ面持ちが覗かせる。褐色の頬を薄く飾る化粧が窓から差し込む日光で淡くきらめていた。彼女はそっと夫の手を引いて階段に足をかける。
頑丈な階段を上り切った先の大扉を開くと、その先は西洋庭園となっていた。
「久しぶりの太陽だな」
百瀬は空いた手で日陰を作り、30坪ほどの空間へ視線を転がす。
太陽光も眩しいが何より風だ。標高が高いためか、やはり風が強い。招待状によればこの土地は南欧、季節は秋真っ只中の日本と同じで全身を撫でる空気は薄寒かった。
「あっちだ」
淑女に手を引かれて歩いていった先には、大人の身長ほどの高さをした位牌がひとつ。彼女はそこに向かって軽やかに歩いていく。
「秘密結社の前身は錬金術を修めた修道女たちの互助組合。この慰霊碑には彼女らの遺骨が祀られている。みな卓越した錬金術師だったそうだ」
そう言って石碑の前に夫を導くと、新妻は彼の手を離して床に膝をついた。そこで目を閉じ手を合わせて祈りを捧げ始めるのである。
彼女は「報告」だと言った。結婚の報告ということだろう。若紳士の目には年端もいかない娘が浮き足立っているように見えた。
――が、百瀬はそのとき自分が彼女に対して感じた思いの差を、あちらも同じように感じ取っていたことに思い至らなかったのである。ただ祈っているだけに見えた沈黙の間は彼が風に巻かれながら呆気に見守っていたことがまずかったようだ。
「結婚という話が持ち上がっているが――、」
組んだ拳を解いて彼女はゆっくり立ち上がると、改めて百瀬の方へ向き直った。その表情は硬い。急に暗くなった声色、目を細めた面持ちには一筋の陰りが差していた。
「やはり来たばかりのお前に受け入れられるはずもないか」
「そんなことは」「見れば分かる」
風に棚引く長髪――。背の高い彼女は肩を揺らして百瀬の困惑した視線を振り払う。
「……すみません、お気に障りましたでしょうか」
「いや、気にかけなくていい」
鋭い口調でそう言い放って、すぐ目を伏せる花嫁。異国の男はかけるべき言葉が見当たらず、同じような仕草を鏡のように返すばかりであった。
「さ、ご先祖への報告は終わりだ。お前に
それだけ仏頂面で冷たく言い放ち、淑女は銀の腕時計へ視線を落とす。ばつの悪そうな顔を秋晴れの空へ向けて、その仕草を横目に盗み見ていた百瀬。
あるとき彼女が自分と同じ方向に視線をやったのを見て彼は肩を震わせる。ぎこちない顔つきをしている新郎の傍ら、彼女は指笛を吹いたのであった。
鳥のさえずりのような透き通った音色が天空に染み渡り――、そしてわずか十数秒ほど経ったその時である。
『キューーールィ!』
突如、青空の中に飛び上がった黒い影。百瀬は口を閉じるのをしばし忘れた。大空に踊り出たのは、カーボン模様の大鷲であったのだ。
日光を受けて艶やかに輝く身体は実に5メートルを超えて見え、馬車の荷台のような金属の籠を鉤爪に抱えている。信じ難いことに城の壁面すれすれを舞い昇ってきたようだ。
当然、自然生物ではない。何かしらの人工物で出来た身体――、どうやら機械仕掛けに見受けられる。古びた機械の怪鳥が庭園の上空に滞空して彼らを見下ろしているのだ。
『キュルガッ』
不意に大鷲は垂直に降下すると、足元に抱えた籠を地面にがちりと叩きつけた。――至近距離で見るとやはり巨大だ。翼を閉じていても人間の数倍の体躯がある。
「これが……ゴーレム?」
「そうだ。カーボン素材でできたカーボンゴーレム」
すらりとした脚で怪鳥まで悠々と歩み寄り、気圧された様子の夫を振り返る淑女。
「こいつで会社まで行くぞ」
そう言い捨て、細長い身体はそそくさと籠の中に乗り込んでいく。
見たところ大鷲が人間を警戒している様子はない――。のっぽの男は自分を見つめる巨大な瞳と視線を合わせながら、風舞う庭園を恐る恐る歩いていく。
彼がそろそろと籠の中に入って扉を閉めるや否や、再び大鷲は翼を大きく広げた。薄く鋭い翼はたちまち風を巻き上げ――、籠は突き上げられるようにして急上昇を始める。
「うわっ!」
突然かかった加速でたっぱのある身体が淑女の向かいに転げ落ちた。揺れる籠の中で百瀬は何とか体勢を持ち直し、慌ててシートベルトをつける。対面の席に足を組んで座る花嫁は、慌ただしい彼をどこか満足げに見物していた。
いっぽう大鷲のゴーレムは乗客のことなど気にもしていないようである。巨大な翼で空気を跳ね除けて一気に上昇したら、今度は静かに滑空の体勢に入った。風力によって籠の中はそれなりに揺れたが、途端に静寂となる。
風切り音を肩肘強張らせて聞きながら、百瀬は車窓の景色へそわそわ視線を泳がせた。近づくにつれ鮮明になる巨塔群――。どす黒い岩石で出来た楼閣に緻密な意匠が施されているのを見て、若紳士はただただ口を開け放つばかりである。
――飛車はあっという間に摩天楼の群へと滑り込み、ゆるゆると速度を落としていった。そしてそこから間もなく、静かな金属音とともに塔のひとつの屋上に着陸する。
「着いた」
淑女はシートベルトを外して扉を開けると、新郎には目もくれずに籠の外へ飛び降りていった。猛禽のゴーレムが再び飛び立たないうちに、百瀬も急いで飛車を降りる。
――淑女を追って塔の内部へ入ると、その荘厳な内装に改めて彼は圧巻された。
大理石を積み上げて造られた素朴な石造建築は、ロマネスク様式の特徴が至るところに垣間見える。どうもこの巨塔は古き南欧の教会建築と血縁があるらしい。
「こっちだ」
錬金術師たちの往来を横切り、ピナフォアを着た給仕係に道を通され、石の螺旋階段を降りる新郎新婦。回廊の一角で足を止めた淑女は、古びた木扉を躊躇いなくノックする。
――石造りの居室には、窓際の机で書類を読む紳士の姿があった。
「クリスか。ノックぐらいしてくれ」
「しただろ。入社の儀式は終わったぜ。零士郎も一緒だ」
修道服の老紳士が古塔の一室で読書する光景は――、何と神秘的なことか。
彼が書類から視線をあげたのは夫婦が部屋に入ってしばらくしてから。整った輪郭に高級和紙を張り合わせたような相貌が、淑女の隣に立つほっそりとした男の方を向いた。
「ようこそ、秘密結社【メゾン・ド・カルネ】へ」
しんみりした石室に静かな挨拶を浮かべ、老紳士は机から立ち上がる。
頬に年齢相応の深い皺が一筋刻まれていたが、彼の身体は引き締まっていた。老人というよりかは歳を重ねた美青年と形容する方がふさわしい。そんな男が「君たちを待っていた」などと優しい声で言いながら、長い足で絨毯の上をすたすた歩いてくるのだ。
「よろしく。吹田天久郎だ。この会社で幹部をしている。そして錬金術師でもある」
日陰の石室を夫婦のもとまで近づくと、彼は百瀬へ握手の手を差し出した。霊薬が染み付いてしまっているのだろうか、彼からはどことなく柑橘類の爽やかな香りがした。
「百瀬零士郎です。こちらこそよろしくお願いします。淳子ちゃんの面談以来ですね」
「うむ。立場は変わって、これから長い付き合いになるだろう」
同じほどの背丈をした彼らは、張り詰めた顔をしている新妻の前で握手を交わす。
「ところで儀式を終えたということは――、そうか。おめでとう、ふたりとも」
わざとらしい微笑みを夫婦に与え、彼は軽快な足音とともに窓際の机へ蜻蛉返りしていった。道中を片したりなどしながら席につき、来客にはソファに座るよう目で合図する。
「失礼します」
誘いに乗ってそこへ腰掛け、百瀬は居室の中をゆるりと見回した。
年季の入った大理石の執務室には木製の家具がいくつか備え付けられている。いずれも焦茶色の上品な佇まいで、中世の教会建築にふさわしい厳かな意匠が施されていた。
――石室を漂う異国の香りに元教師は深くため息を漏らす。
「今日が良い天気でよかったな」
垢抜けない反応を示す来客の傍ら、新妻に腫れぼったい視線をよこした老紳士。
「この土地には挙式の慣習がないから、今晩は3人で結婚祝いのディナーでも行こうか」
「そうしよう。溜まった仕事が夜までに終わればいいが」
「そうだな。もう行ってくれていいぞ。零士郎くんには私の方から話しておくから」
「お言葉に甘えて、そうさせてもらう」
淑女はちらと百瀬の方を覗き込んできた。そこはかとなく悲しそうな顔――。百瀬が声をかける間を許さず、すらりとした影は風のように部屋を出て行ってしまう。
開け放たれた木扉がひとりでに閉まるまでのあいだ、修道服の男ふたりは廊下から聞こえてくる足音を無言で聞いていた。ふたりに沈黙が許されたのはわずか数秒――。
「驚いただろう。まさかこんなところに連れてこられるなど」
扉が閉まるや否や、老紳士の明るい声が石壁に響いた。
「この世界のことはいつから知っていた?」
「都市伝説としては以前から。ですが実際に接触したのはあの事件が最初です。錬金術という単語を聞いて耳を疑いました」
「秘密にされているからな。この世界の何もかもが」
足元の西洋絨毯に視線を落とす新郎を遠くから覗き見て、彼は何度か頷いてみせる。
「婚姻については、受け入れてくれよ。急な話だとは思うが」
「私はともかく彼女の方はどうなのです? 儀式的な結婚について」
「君が来るまでうきうきだったがね。将来のために子供の服なんか作ったりしてな」
そう言って修道服の老紳士は席を立ち上がった。分厚い書籍を小脇に抱えてソファへ近づいてくると、膝を押さえながら百瀬の向かいへ座り込む。
「――さて、仕事の話をしよう。これから君に従事してもらうのは、錬金術師を監視する仕事だ。彼らがルールを逸脱するようなことがあれば、その後始末もすることになる」
「錬金術師の……監視ですか」
「うむ。錬金術師には守るべき
口角を膨らませた老紳士は抱えていた書物を机に置いた。そのとき密室に反響した本らしからぬ音――。なんと本には鋼鉄の装丁が施されている。
「錬金術師の世界を律する法典【スクリッタ】だ。錬金術を扱うにおいて何の行為を禁止とするか、違反者に対して何の罰を与えるか――。すべてがこれに記されている」
「世界中の錬金術師が守っているのですか、これを」
「そうだ。いわば明文化された掟のようなものだ。破れば罰が下される」
百瀬は老紳士の視線が促すままに鋼鉄の表紙に触れ、中をぱらぱらとめくった。
「あの事件も、錬金術師の法律を犯していたということですか」
「そうだ。あれは『人間のゴーレムを作ってはならない』という法に触れた」
「人間の……」
「ゴーレムは素となった生物の知能を継承するのだ。それゆえ、高度な知能を持つ人間を使ったゴーレムを作ることは倫理的な背景から非常に重い罪となる」
重い表紙を卓上でゆっくりと閉じて、百瀬は密かに唾を飲み込む。
「――事件のその後を伺っても?」
「なんだ、聞いていなかったのか。教頭は始末され、取引相手の錬金術師も逮捕された」
「被害者の生徒たちはその後どうなったのです?」
無音の石室で真顔になって向き合う男たち――。老紳士はため息をつく。
「彼らはもう人ではない。今は回収され、破壊される日まで隔離されている」
「破壊……?」
「法律上、ゴーレムは物と同じ扱いをするのだ。とりわけ人間のゴーレムが発見された場合の規則は厳しく、発見されてから遅くとも1年以内に破壊される決まりになっている」
百瀬は数秒の猶予を得るためだけにソファへ座り直した。木の脚の軋む音が冷たい石壁に虚しく染み込んでいく。
「――学校で騒ぎには?」
「外部や家族には病気ということで通していて、あの一件はなかったことになっている」
「彼ら自身はこの現実を受け止められていたのですか」
「それも心配ない。ゴーレムになった生物は生前の記憶を喪失するからな」
喉を鳴らして「そうですか」と呟いた元教師は、どこか虚な目であった。壁面のガスランプにぼんやりとした視線を移し、何か言いたげな顔をしながら唾を飲み込む。
「……最後にひとつ。伺ってもよろしいでしょうか?」
「なんだ、まだ仕事の話ができていないぞ」
「我々にとって仕事よりも大切な話が残っています」
静寂に包まれる石室。緩く首を振った百瀬を前にして、老紳士は片眉を上げて肩をぐるりと回す。――彼が長い足を組んで渋い顔をしても、元教師は怯まなかった。
「私が学校で見つけた裏取引の記録には、淳子ちゃんの名前がありました。しかし事態の前後関係までは読み取れず、私は直接会ったことであの子が無事だったと思っていた」
「……」
「私が出会ったのは、まさか――」
「そうだ。もう娘はこの世にいない。そして君が会った
「教え子がゴーレムと入れ替わっているのに気づかないなんて……教師失格ですね」
「……実を言うと、私もだ。あの子が連れ出される前日の晩まで分からなかった」
返す言葉がすぐに見つからず、百瀬はカソックの首元をそっと緩め直す。壁の石材に付いた茶色い染みに視線を置きながら、彼は音を立てないように唾を飲み込んだ。
「――彼女はなぜ私を貴方に引き合わせたのでしょうか」
「それについては事情聴取の結果を聞いた。淳子を犠牲に生まれたあのゴーレムは、一緒に監禁されていた生徒から『百瀬先生を助けろ』と命令されたそうだ」
「私を? なぜ?」
「その真意は明らかではない。とにかくその生徒は――、自身がもう助からない状況で、被害者をこれ以上出さないために彼女へその命令をした。明らかなのはそれだけだ」
「……周りに頼れる大人がおらず、私しかいないと思ったのでしょうか」
「そういうことなんだろう。栄誉なことだぞ。純粋な若者たちから君は認められていたんだ、命をかけた願いを託すことができる人間であると。事実、君は人生を賭けて正義を貫こうとした。秘密結社が君を認めた理由はまさにここにある」
窓外の青空を見ながら微笑む老紳士。――枯池を想起させる笑みだった。
「今後の君の活躍が世界平和に寄与するのであれば、淳子の犠牲も無駄にはならない」
「心に刻んでおきます」
「うむ。君の働き次第では、私も少しは気が晴れるというものだ」
自分を見つめる元教師の真剣な眼差しに、教え子の父親は肩を揺らす。捻り出された空笑いがどこか寂しげで、百瀬の目からは彼の肩がいくらか小さく見えたものであった。
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