第3話『カリオカの涙』
イパネマの夜は、湿った空気に包まれていた。
凛子は、夜会用のネイビーのワンピースに袖を通しながら、鏡の前で立ち止まった。29歳。外務省最年少の女性公使。その肩書きは、重圧であると同時に、誇りでもあった。
「これでいいのかしら」
彼女は小さくため息をついた。夜会用の装いは、いつも悩ましい。派手すぎず、かといって存在感を消すわけにもいかない。女性外交官として、その一挙手一投足が、後に続く人たちへのメッセージになることを、凛子は常に意識していた。
指定されたレストランに到着すると、すでにいくつかのテーブルが埋まっていた。李麗の姿はまだ見えない。
「朝霧さん」
声をかけてきたのは、インドのプリヤ・シャルマだった。深い青のサリーに身を包んだ彼女は、会議場での知的な印象とは違う、柔らかな雰囲気を漂わせていた。
「一緒に座りませんか?」
プリヤの誘いに、凛子は心の中でほっとした。李麗との一対一は避けられそうだ。
「ありがとうございます」
テーブルには、すでにブラジル外務省のイザベラ・サントスが座っていた。彼女の仕事着とは異なる、情熱的な赤のカクテルドレスが印象的だった。
「今日の会議、興味深かったわ」
イザベラが口火を切った。その声には、昼間の公式な場面とは違う、打ち解けた温かみがあった。
「特に朝霧さんの発言。微妙な立場の中で、よくぞあそこまで踏み込んだわ」
「いいえ、まだまだです」
凛子は謙遜しながらも、内心では複雑な思いが渦巻いていた。女性外交官として、時として過剰な注目を浴びることへの戸惑い。かといって、その立場を否定するわけにもいかない。
「私たち、みんな似たような立場よね」
プリヤが、ワインを前に静かに言った。
「キャリアと、個人の人生の狭間で」
その言葉に、テーブルに深い共感が流れた。
「結婚はしているの?」
イザベラが、さりげなく尋ねた。
「いいえ」
三人とも同じ答えだった。
「でも、それは選択なのよ」
プリヤが力強く言う。
「私の母は『こんな歳まで独身で』と心配するけれど、私は後悔していない。この仕事を通じて、世界を変えられる可能性があるから」
「分かるわ」
イザベラが深くうなずいた。
「私も『女性には向かない仕事』だって言われたわ。でも、それこそが私たちが必要な理由じゃない?」
その時、李麗が華やかに登場した。チャイナドレスから、シックな黒のイブニングドレスに着替えていた。
「まあ、みなさんお揃いで」
李麗は優雅に着席しながら、観察するような目を向けた。
「素敵な光景だわ。でも、こういう女性だけの集まりって、時として危険なのよね」
その言葉には、明らかな警告が込められていた。
「そうですね」
凛子は穏やかに返した。
「でも、それこそが変化の始まりかもしれません」
李麗の表情が、かすかに曇った。
「変化? なかなか野心的な言葉ね」
「私たちの世代には、それだけの責任があると思うんです」
凛子は、自分の信念を静かに語った。
「形式的な平等だけでなく、本当の意味での対等な関係を築いていく。それは国と国との間でも、男女の関係でも同じことです」
プリヤとイザベラが、黙ってうなずいた。
夜が更けていく。会話は仕事の話から、それぞれの生い立ちへと移っていった。プリヤは理系出身で、科学技術外交に関心があること。イザベラは一度は結婚も考えたものの、キャリアを選んだこと。
李麗は、その間じっと聞いていた。時折、鋭い質問を投げかけながら。
「面白いわね」
李麗が、最後にグラスを上げながら言った。
「私たち、表面的には『伝統的な東洋の女性』を演じているように見える。でも、その実は……」
「新しい時代の先駆者、ということですか?」
凛子が問いかけると、李麗は意味深な笑みを浮かべた。
「そうね。でも、先駆者には相応の代償が必要よ。覚悟はできてる?」
その言葉は、警告であると同時に、ある種の連帯感も含んでいた。
帰り際、凛子は夜空を見上げた。南半球の星座が、不思議な模様を描いている。
彼女は考えていた。この夜の会話が、単なる社交の場を超えた意味を持つことを。それは、新しい時代の幕開けなのかもしれない。
「ねえ」
プリヤが囁くように言った。
「明日、朝早くビーチを散歩しませんか? 頭を整理したくて」
「ええ、喜んで」
凛子は微笑んで頷いた。新しい同志が見つかった気がした。それは、外交官としてだけでなく、一人の女性としても、心強い発見だった。
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