阿号玫瑰
@tateba_factory
理系男子に恋した文系男子の話
「痛っ……」
曲がり角を勢いよく駆け抜けた瞬間、何か硬いものにぶつかって尻もちをついた。
「すみません、大丈夫ですか?」
顔を上げると、相手は制服の上に白衣を羽織った男子だった。黒縁の眼鏡越しにこちらを覗き込む目は、驚いてはいたが、どこか冷静だった。
「……あ、うん。そっちこそ平気?」
「ええ、大したことはありません」
そう言いながら、彼は床に落ちたノートを拾い上げた。開かれたページには、細かい数式がぎっしりと並んでいる。見ただけで頭が痛くなりそうなそれを、彼は何の迷いもなく整えると、さっと立ち上がった。
「それでは、僕はこれで」
「え、ちょっと待って!」
つい、呼び止めてしまった。
彼は不思議そうに振り返る。俺は咄嗟に口を開いた。
「えっと……その、何年?」
「三年です」
やっぱり年上だった。なんとなく、そんな気がした。
「俺は二年の文系クラスなんだけど……理系って、そんな難しいこと勉強するんだな」
「まあ、そうですね。でも、これくらいは基礎ですよ」
彼はさらりと言ってのける。どこかクールで、感情の波が少ない印象だった。けれど、それが妙に気になった。
「……名前、聞いてもいい?」
「椎名です。椎名涼」
「俺は浅見悠斗。あ、もう行くの?」
「ええ。研究室の準備があるので」
白衣を翻し、彼は足早に去っていく。その背中を、俺はしばらく見つめていた。
──そこから、俺の視線は彼を追いかけるようになった。
***
気づけば、椎名先輩を探してしまうようになっていた。図書室では難解な洋書を広げ、廊下では実験器具を抱えて移動し、昼休みには何やらノートに数式を書き連ねている。
「……何やってんだろ」
独り言のように呟くと、隣にいた親友の篠原が怪訝そうな顔をした。
「お前、最近やたら理系棟行ってね?」
「そ、そうか?」
「まさか、椎名先輩が気になるとか?」
「……っ!」
思わず息が詰まる。篠原は目を丸くした。
「マジで?」
「違っ……いや、違わないのかも……?」
言葉にして初めて、はっきりと自覚した。俺は、彼のことが気になっている。
もっと知りたい。もっと近づきたい。
──それは、恋なのかもしれない。
***
「先輩!」
ある日、意を決して彼を呼び止めた。
「……浅見くん?」
「もし、迷惑じゃなかったら……今度、一緒にお昼ご飯、どうですか?」
椎名先輩は、少し驚いたように目を瞬かせた。そして、静かに微笑んだ。
「……いいですよ」
その笑顔を見た瞬間、心臓が跳ねた。
──俺は、この人のことが好きだ。
数式の向こう側にあるものを知りたくて、俺は彼に惹かれていく。
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