阿号百彩

@tateba_factory

ぶつかって、恋に落ちて、そして──

第一章 — 衝突と恋の予感


「よし、ラスト一本!」


 グラウンドに響く明るい声とともに、ポニーテールの少女が全力で駆け抜ける。橘(たちばな)ひかり——高校陸上部のエースであり、誰よりも走ることが好きな女子高生だ。夕暮れに染まる校庭で、汗を拭いながら深呼吸をする。今日の練習もやり切った。


「先輩、お疲れさまです!」

「おう、ありがと!」


 後輩たちに声をかけながら、ひかりはジャージのチャックを引き上げると、帰宅の準備を始める。部活終わりに寄り道するのが日課だ。家に帰る前に、近くの公園で少しゆっくりするのが、ひかりの小さな楽しみだった。


 ──そして、その公園では、いつもひかりの目を奪う存在がいた。


 芝生の上で軽やかにボールを蹴る、背の高い女子大生。スポーツブランドのウェアを着こなし、ポニーテールを揺らしながら、見事なボール捌きを見せる彼女の姿を、ひかりは何度も目にしていた。


(かっこいいなぁ……)


 ただの憧れのような気持ちで見ていた。自分と同じくスポーツを楽しむ人間として、自然と目がいってしまうのかもしれない。


 その日も、ひかりはペットボトルの水を飲みながら、公園のベンチで彼女のプレーを眺めていた。──が、その瞬間。


「──えっ?」


 突然、視界いっぱいに彼女の姿が広がる。反射的に手を前に出すが、避ける間もなく──


ドンッ!


「きゃっ!」

「わっ……!」


 二人の身体が衝突し、そのまま地面に倒れ込む。ひかりは痛みよりも、驚きで心臓が跳ね上がった。


「あ、ご、ごめん! 大丈夫!?」


 焦ったように声をかける相手。間近で見ると、すらりとした手足に、日焼けした健康的な肌。そして、汗で少し額に張り付いた前髪が、妙に色っぽい。


「あ、あの……」


 言葉が詰まる。鼓動が速くなる。


「痛かった? どこか打ってない?」


 至近距離で真剣に心配してくる彼女の顔が、やけに眩しく見えた。


(なにこれ……やばい……)


 ひかりの頬が、みるみる熱を帯びていく。


 ──これは、ただの衝突なんかじゃない。


 この瞬間、ひかりの心に、はっきりと何かが芽生えたのだった。



第二章 — 近すぎる距離


「あー、びっくりした……」


 女子大生が胸をなで下ろしながら、ゆっくりと立ち上がる。ひかりも慌てて起き上がるが、まだ顔の熱が引かない。


(やばいやばい……めっちゃ近かった……!)


 自分でも驚くほど、心臓が激しく鳴っているのがわかる。


「ごめんね、ボール追いかけてたら全然前見てなくて」

「あ、いえ、大丈夫です……!」


 必死に取り繕うものの、うまく言葉が出てこない。彼女は小さく笑って、手を差し出した。


「立てる?」

「あ、はい……」


 その手を取った瞬間、ひかりの心臓がさらに跳ねた。


(近い……! てか、手、大きい……!)


 女子大生の手はすらりとしているのに、どこか力強い。思わずじっと見つめてしまい、慌てて視線をそらす。


「怪我してないならよかった。あ、私、彩香(あやか)って言うんだ」

「橘ひかりです……」


「ひかりちゃんか。陸上部?」

「えっ、なんでわかるんですか?」

「だって、めっちゃ速そうな走り方してたから。さっきも公園に来るとき、すごい勢いで駆けてきたでしょ?」


 彩香が笑いながら言う。ひかりは、なんだかくすぐったい気持ちになりながらも、少し嬉しくなる。


「えへへ……そうなんです、陸上やってて」

「やっぱりね。なるほど、スプリンターっぽい」


 彩香が感心したように頷く。


「で、ほんとに痛いところない? ちょっと確認させて」


「えっ?」


 次の瞬間、ひかりの肩を軽く押さえながら、彩香が顔を寄せてきた。


「ぶつかったとき、胸とか打ってない? もしかして、心臓に違和感とかない?」


 そう言いながら、彩香はそっと耳を近づけてくる。


(ちょ、ちょっと待って!!)


 ひかりの脳内が一気にパニックになる。


(やばいやばいやばい! 絶対聞こえるって!!)


 彩香の顔が、ほんの数センチの距離にある。汗の匂いと、ほのかに甘いシャンプーの香りが混じり合って、頭がくらくらする。そして——


ドクン、ドクン、ドクン……!!


(ああああ、心臓うるさすぎる!!)


 ひかりは全力で冷静を装うが、耳をすます彩香の表情がどんどん真剣になっていく。


(お願いだから、気づかないで……!)


 ひかりは必死に息を潜めるが、心臓は正直だった。


「……あれ?」


 彩香が不思議そうに顔を上げる。


「ひかりちゃん、なんかすごいドキドキしてない?」


「え、えええ!? そ、そんなことないです!」


「いや、めっちゃ速いよ? さっき走ってたからかな?」


「そ、そう! それです! 走ったあとだから、まだ落ち着いてなくて……!」


 ひかりは全力で誤魔化すが、顔が熱くなっているのが自分でもわかる。


 そんな彼女を見て、彩香はふっと微笑んだ。


「そっか。まぁ、異常はなさそうだね。よかった」


(いや、異常しかないんですけどーー!!)


 ひかりは心の中で叫びながら、どうにか冷静を取り戻そうと深呼吸する。しかし、彩香の顔が近づいたときの温もりや、耳元にかかった髪の感触が、頭から離れない。


 初めて会話を交わしたばかりなのに、こんなにも意識してしまうなんて——。


(……これ、もしかして……)


 ひかりは胸に手を当てながら、改めて自分の鼓動を感じた。


 これは、ただの緊張なんかじゃない。


 ──橘ひかりは、この日、確かに「恋に落ちた」のだった。



最終章 — 終わりと始まり


 橘ひかりは、目の前の光景をただじっと見つめていた。


 冬の冷たい空気が、ひかりの頬を刺す。駅前の広場、人混みの中で彩香が微笑んでいた。——隣には、見知らぬ女性がいる。


 長い髪を揺らしながら、彩香は彼女と手をつないでいた。会話の内容までは聞こえない。でも、彩香の表情を見れば、それがどんな気持ちからくるものなのかはすぐに分かった。


(ああ……そうなんだ)


 胸が痛い。呼吸が少し苦しい。だけど、それを顔に出してしまったら、きっともっと惨めになってしまうから、ひかりは小さく息を吐いた。


 ──数日前。


「ごめん、ひかり」


 そう言われたときから、ひかりは心のどこかで分かっていた。


「私、好きな人ができたんだ」


 それは、あまりにも残酷な言葉だった。


「……そっか」


 ひかりは、精一杯笑ったつもりだった。でも、彩香は眉を下げて申し訳なさそうに唇を噛む。


「ひかりのことが嫌いになったわけじゃない。ただ……今は、その人のことばかり考えてしまう」


 それが、最愛の人に告げられた最後の言葉だった。


 最初は、ただの憧れだった。


 でも、あのとき、公園でぶつかった瞬間から、ひかりの世界は変わった。


 陸上の練習がどんなにきつくても、彩香と会えると思えば頑張れた。どんなに疲れていても、彩香の「頑張ったね」という声があれば、それだけで幸せだった。


 ——それなのに。


(今、彩香が笑っているのは、私じゃないんだ)


 ひかりは静かに目を閉じる。目を開けたときには、もう二人の姿は人混みに消えていた。


 ひとりきりの帰り道。冬の風が、いつもより冷たく感じる。


 ポケットの中で、ぎゅっと拳を握る。悔しい。悲しい。でも、今はそれをどうすることもできない。


 立ち止まっていても、時間は流れる。


(……走ろう)


 足元に力を込める。


 何も考えずに、ただ走る。


 心臓がバクバクと鳴る。——あのときとは違う音で。


 好きになって、傷ついて、それでも前を向くしかない。


 涙は、走り終えたあとに流せばいい。


 橘ひかりは、ただひたすらに走り続けた。

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