終章
弾圧のあった山麓の山間は、かつてイルㇽ人が暮らす集落〝シマ〟だった。
彼らは孤高に尊厳を訴え続けたうつくしい人々だ。
空は快晴で、澄み切る青い空が今の瞳には痛いほどなのに。
眼下の墨色ただ一色の海に、不釣り合いな草原に密林。相反する二色が、息づいていた人々の面影すら消し去ってしまった。この地に立ち尽くす己の影すら掠め取られている。
さあ、と風が吹いた。
鼻腔を煤のにおいが通り過ぎていき、オノファトの束ねた長髪があわく舞う。人が焼けるにおいがないのだけが、救いと言えよう。
否。
イルㇽ一族は副皇率いる軍に彼らの一部が惨殺された。死体が残されなかったのは、居合わせた悪神が神威をもってして、古代神たちが住まう島々〝メセニー=レ=イ=ヌカ〟に魂を葬ったからなのだろう。
それを救いと言ってよいのかわからない。残された人々は苦しみに喘ぐだろう。
だが、期せずして彼らは神璽国の呪縛から逃れられる運命となった。あとは、生きる力があるかどうか。
そこまで面倒を掛ける余裕は、皇子オノファトにはない。慰問へ戦地を訪れている皇子に、もはや干渉する身分はない。
譲れるものは譲れた。
皇子に出来ることは、民の声を神の声として、国を繁栄させてゆくことだけだ。民ありきの祝皇一族なのだから。
欲を願うのなら、その民のなかにイルㇽの民がいれば最良だった、ただそれだけ。
叶わない願いを摑む気はない。
一連の内乱を誘発したとされる反逆者、副皇ファーアンは死の制裁を受けた。同じくして、イルㇽの集落の首長サウエ御前もまた内乱の責任を問われ、不満が募る民衆を黙させるため、御前の斬首刑を以て贖われた。これは彼らにとっては過ぎた罰であるが、今の神璽国に疑念を抱く民衆が少数であるのが、逆に如実としてあらわされることになった。
新たな首長にはトラーシィが選ばれたというが、すでに神璽国の手から放れた一族が、我々と結びつくことは縁でもない限りあり得ない。元々あった亀裂がさらに深くなったところで、彼らにその意志はないだろう。彼らと接してきたオノファトだからわかることでもあった。
オノファトは手にしていた文を、煤けた土を掘って埋める。
「————そなたは生かされた。ゆえに生きよ」
オノファトは傍らで静かに涙を流し、泣き崩れる女に視線をやる。彼女は此度の戦の咎人でもあった。その女を、オノファトは迎えた。
やがて嗚咽混じりの声になり、女は声を上げて泣きじゃくった。
この悲劇はきっと悪神の奇跡で正された。なぜかそう思えた。
死した者と生きた者。
オノファトは腰に佩いた湾刀を鞘から抜き放つ。高い樋鳴りの音をさせながら虚空を数回斬ると、おもむろに束ねた長髪に刃をあてる。そしてひと思いに振り下ろした。鞘に収めるころには、手に毛束が背離されていた。
ただ、彼女がイルㇽの救世主として機能してくれれば、それだけで望みは達する。希望を求めながら、長年にわたる保守と改革に、彼らは疲弊していたから。
何もしないよりは価値がある。誰かが生きがいになれたなら、人は活力を取り戻すと信じていた。
だが、結局は足許にある悲劇を救うどころが、悲劇に悲劇を招いてしまった。
その報いを、いずれ受けることになるだろう。
オノファトは文を埋めた処に髪を供え、黙祷を捧げた。
もう戻らない。
遙遙の故郷を想起して。
忌火の理 石蕗千絢 @Chiaya_story
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