第四章 忌み火占い➂
「————ラムラ」
聞き慣れた声に名を呼ばれた気がして、ラムラは目が覚めた。
天井が視界に入り、近くでは薪の爆ぜる音がする。視線を横に流すと、人の背中だけが見えた。背の高い男だ。
「お目覚めになりましたか」
低い、穏やかな声音の人が振り向かずに言った。
ラムラはぼうっとしていたが、やがて弾かれたように起き上がろうと腹に力を込めた。だが、節々の痛みにうめき声を上げる。
「悪神さまといえど、まだ数刻しか経っておりませぬ。どうか安静に」
ようやく振り返ったその人は、うつくしいかんばせをして、毅然とした佇まいは気品がある。憂を帯びた眼差しがこちらを見ていた。
「ここは……?」
「ここは川の中流付近で、そなたは上流から流されて来たのだ。私は古くより神のお告げをうかがう術を生業にしていて、その神々から悪神の御魂が、急流から流されてくると神勅を賜り、そなたを助けたわけだ。古代神の子どもたちは、等しく丁重に敬われるべき存在なのだから、私はその勅に従う」
助かった、その事実に頬を叩かれたような衝撃が走った。ラムラは居住まいを正して、まで右腕を掲げて跪いた。
「助けていただき、ありがとうございました。恩をお返ししたいところなのですが、先を急いでおります。返すべき礼もせず、この場を去ることをお許しください」
鼻梁の男は顔をしかめてこちらを見返した。
「私に対してそんな慇懃な態度を取られると、些か困ってしまうな。高位な存在なのだから、高慢に振る舞ってくれたほうが、謙譲に振る舞えるのだが」
「占う者はわたしを悪神だと称しますが、わたしは人間のつもりです。人間ではないから、謙虚に生きているのです」
男は益々眉尻を下げた。
「そうか、そなたはそう考えるのだな。……だが、そう急くこともあるまい。まずは休んで気を整えなさい」
「それじゃあ駄目なんです。悠長にしていられない。わたしを形作ってくれた人たちのところへ行かないと……!」
ラムラはそれでも痛む身体を鼓舞し、床に手をついて立ち上がろうとする。すっと脇の下に手が差し入れられ、抱き起こされた。
「少し落ち着きなさい」
「でも!」
ラムラは抗議してその人を見た、そのときだった。我が知らず口から言葉が出てしまう。
「————ウエレリ?」
男が小さく息を呑み、少しの間を置いてから、金縛りから抜け出したように苦笑をこぼす。
「そなたは、その言葉の意味がわかるのか」
ラムラは眉を下げて申し訳なさそうな顔でこたえた。
「わかりません。衝動的に言葉が出てしまいました。この頃、そういうことがたまに起こるのですが、これはわたしが悪神に近付いているからなのでしょうか……」
男は顎をさすって考えるように唸ってから、口を開いた。
「関係はしているだろうが、一概にそうだとは言い切れぬだろう。だがまあ、そなたは塊のはじめのにおいが濃い。そういうこともあるだろう」
意味を掴めず首を傾げるラムラを前に、男は言う。
「我が名はカイレイ。ウエレリとは、天眼の継有者という意味で、申し訳ないが、そなたの母親の記憶を受け継いでいても、母なる神そのものではない。多少智恵のある人の子で、私には別の通り名がある」
「いえ……取り乱してごめんなさい」
ラムラもどうしてそう口走ったのかわからず、謝罪を口にした。一方で、不可解なほどに気分が凪ぐのを感じた。今なお焦りはあるが、焦りを滲ませたところで減るのは気力だけだ。
悔しさに眉尻を下げたラムラの顔を、長身の男はじりじりと距離を詰めて凝視した。
「な、なにか?」
あまりに近すぎるものだから、ラムラは迫ってくる男から逃げるように顔を仰け反らせた。それでも飽き足らず、にじり寄って来た。
距離が近い。
人に詰め寄られるなんて経験は物心ついた時分から疎遠だったラムラにとって、畏れを抱かず間合いを詰めてくる人物は異質にうつる。
「瞳に神火を宿している現人神は久しいな。そなたはニキーサとの縁が深く絡みつつあるのだな。だが、まだ狭間のようだ。まるで人世にも神世も往き来する、
ラムラはそこで重要なことを聞き逃しているのに気がつく。
「あなたは、わたしに悪神が取り憑いているとわかるのですか」
その人は微笑み頷いた。
「取り憑いているという粗略な表現は失敬だが、そなたが悪神の魂の依り代なのはわかる。私は境の者〝ナジョ=クー〟だから」
「
「アマラスハルの記憶を受け継ぎ、勅を受ける民でね、咒師なんて言われていた時代もあった」
「それって宮廷榮卜官(えいぼくかん)の……」
「
カイレイが笑みを深めると、囲炉裏の炎が勢いをもって暴れ出した。濁流のごとくカイレイを貫き、四散する。四散した炎塊は見知った姿をしていた。
「金霞の鳥……!」
ラムラは身を乗り出した。
「〝御遣い鳥〟という。古代神が棲まう島々へ辿り着いた海鳥は、御遣い鳥となって人世と往き来する神使となり、我らに勅をお与えになる。遙か海の先の古代神たちは、そうして神意をお伝えになるのだ」
カイレイは手にとまった御遣い鳥を愛おしげに見詰めた。
「史話でしか知らぬ民たちは、己の解釈でしか物事を判断できぬ。ゆえにアマラスハルの記憶の継承を繰り返し、当世の煙を取り除く。それが神から私へ与えられた勅だ」
「でも、それではあなたは、カイレイという個人はどうなるのでしょう」
ラムラが不機嫌そうに言うと、カイレイは一度瞬きしてから、高らかに笑いだした。
「そなたは清々しいほど、真っ直ぐな娘だ」
「どこに笑う要素があるんですか。わたしは真剣に言っているんです」
カイレイの笑みが深くなる。この男が向ける穏やかな笑みが、誰かの笑みをもらってくっつけたみたいだったのが、途端にその気配を消した。
ひとしきり笑ったカイレイは、不意に真顔に戻る。
「私の身の上は取りあえず保留にしよう。まずは、そなた自身のことだ」
ラムラは居ずまいを正した。
「安心しなさい。私はそなたがこれからなにを成そうと止めるつもりもない。そなたが望むのであれば、御先の申し子の代役を勤め上げてみせるし、人になりたいならその望みを叶えよう」
「神威を返納する方法をご存じなんですか⁉」
ラムラがくい気味に問うと、その人は首肯した。
「把握している。だが、返納すればそなたが救いたい者たちを救えなくなるが、良いか?」
ラムラはつかの間、息を詰めた。
「古代神に選ばれ試練を与えられた者は、神を通じて人と向き合う。純粋な理不尽に触れたそなたは今、何者にでもなれる。嫌だと、この世の理さえ要らないと願うそなたは、化け物にも、人にも、完全なる現人神にもなれる」
ラムラの胸にある、重いしこりが突かれる。
「神威とは万物に意味を与える行為だ。神を受け入れ、結びつきを深めて調和を成し得た者こそ、真の忌み火となれるのだ」
だから人を殺しもしたし、生かせもした。
「でもわたし、人を殺めようと思ったことはありません」
寧ろ人を殺したくはない。だが、ラムラはあのとき確かに、人を焼き殺した。
「感情との調和が不完全な人間だからだ。生きとし生けるものに意味を与えすぎても、それそのものが耐えられなくなる。だからアマラスハル神璽国の祝皇は、祝人として囲う善神に神威を用いるよう要求し、魂魄を統一させる」
つまり、とカイレイは言葉を継ぐ。
「善神も悪神もおなじ神。神の善良も邪悪も人間の物差しで述べられているだけで、等しく畏怖されるべき存在なのだ」
ラムラは噛みしめるように首肯する。そして戸惑った。
「わたしの神威で、人を救えるでしょうか。わたしを認めてくれた人たちのために、温かい心をくれた人たちのために、捧げることができるでしょうか」
「家族と他人。愛する人と家族。友人と他人。生きれば生きるほど、命の価値が軽くなりもする。どう転んでも、人が自分以外に捧げる価値など、平等ではない。だから、そなたの考えも悪いこととは言えないだろう」
カイレイは肯定も否定もしなかった。
「わたしは神さまじゃなくて、人間です。悩むし、迷う人でありたいです。でも、いまのままでは駄目だと思ってはいます。一番良くないのは、このままこたえを出さずにいることだと、わかっています」
自尊心のあるトラーシィたちイルㇽ人をみて、人間としてあるべき尊厳を見た。そっち側になりたいと羨望した。すべての望みを叶えられるほど、世の中が甘くないのも知っている。なにかを実現するためには、なにかを捨てなければならないのもわかっている。
だが、決着を着けられるのは、苦しんだ人たちだけなのだ。
ラムラは唇をきつく噛んだ。
イオはどんな気持ちでわたしの側にいたのだろう。
ジュネクはわたしに身を削るなと言ったくせに、わたしを助けてばかりだ。彼も苦しみに喘いでいるはずなのに。
みんな愚かだ。
イルㇽのためにと己をも欺くイオも、純真に抗うトラーシィたちイルㇽ人も、アマラスハルに縛られた皇族とその民衆も、わたしを助けたジュネクも。だが、特別愚かなのは、わたしだった。そんな特段愚かな自分に腹が立つ。
こんなにも、嘆き、涙している暇などないじゃないか。
「神威を行使したら、人ではなくなりますか。かの島々へと往来する神の器になったとしても、人間としてのわたしは在り続けますか」
「霊験あらたかな神か、霊験あらたかな人か。それは心持ち次第だ。……神はそなたを選んだが、人ならば道は己できりひらけるだろう」
「なら、わたしはこの神威をあの人たちのために奉納します。それがわたしの人としての考えです」
ラムラは語気を強めて言った。
あの人たち、と具体的内容を言わなかったが、カイレイならば視えていると確信している。自分がなにに悩み、なにに絶望したのか、彼はすべてが視えている。
悪だから善き生き方を望んではいけないかというと、それは間違いだ。だって望みを抱いたその瞬間から、こんなに晴れやかな気持ちになるのだから。
わたしは沢山迷惑も掛けて、疎まれて、それでもトラーシィたちにお世話になった。あたたかな日常のためなら、自分を掛けられる。
「そうだな。神は個人のために働きかける狭き杯とは評したくはない」
ぽつり、とカイレイが呟いた。
「……よろしい。ならば類い稀な縁に選別をこちらも選別を捧げよう」
カイレイは徐に背嚢から瓢簞を取り出すと、栓を抜いた。ふわりと嗅いだことのある、つんとした甘い薫りが鼻腔をかすめて、ラムラは目を瞬かせて訊ねる。
「お酒……?」
カイレイは微笑んでこたえた。
「よくわかったな。この瓢簞の中身は酒だ」
ラムラはカイレイから漂う芳醇な果実の匂いの正体に気がついた。
「この酒は飲料としては用いられぬが、我々にとっては意味を成す大切な御酒だ。死穢野でのみ培う米穀からなり、これで忌み火の祈祷を行う。これでなければ、古代神へ語りかけても応じてはくれぬのだ」
カイレイは立ち上がり、囲炉裏の炎へと瓢簞の注ぎ口を傾ける。透明な液体が囲炉裏火へと落ちていく。
ぼうっと青に、緑に、碧色に。紅の炎色へとせわしなく変化していく。
二人はしばしその炎を眺めていた。忌み火の揺らぎと爆ぜる音は、伸びやかに耳打った。
ラムラも、揺蕩う炎の意味を知らずとも、自然と引き込まれていく。この炎が、明くことを忘れた夜を目醒めさせてくれる気がしたから。
やがてカイレイは「ああ」と小さく声を零し、顎を引いた。
「……それも無限にある理の、一つなのだろう」
カイレイの言葉に、ラムラは怪訝な顔をした。しかしカイレイは突然きつい眼差しでラムラを見詰めた。
「ラムラ、悪神としての身分を捨て、私とともに生きないか。責任なぞ、人の感情で、感情は時とともに移ろう。そなたが抗ったとしても、苦しむ道理はやがて風化していく。人世から隔絶されれば、神威を煩わしくなど思わせないし、その命を重荷にせず生きられると保証しよう。……もう、解放されよう」
放たれた予想外の言葉に、ラムラは素で驚いた。驚いたけれど、ほろほろとした泣き笑いを以てこたえる。
「どうやらわたしは、そういう生まれには恵まれなかったみたいです」
カイレイは自己嫌悪に陥りながら、震える唇を動かす。
「短いときながら、そなたがそういう性分なのを痛いほど理解していたのにな」
己を納得させるように頷いたカイレイは、しばしの瞑目の後、再び口を開いた。
「……イルㇽの集落まで案内しよう」
振り向きざまの言葉に、ラムラはただ頷いた。
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