第三章 窪手衆⑩
これはカリルゼッナ本人から聞いた話と、まだあたしの目が見えていた頃に見聞きした話だよ、とシアハは前置きをした。
カリルゼッナは快活で明るい娘だった。神威持ちの才はなくとも、紅の焔の夢を視る資質のある彼女は武術のみで義士団の団員として、集落の護衛を担っていた。イルㇽたちは祝皇が厳粛な行動制限を定めた領域のみでしか行動を許可されていなかったが、当時から貧しい暮らしを強いられていた一族の義士団たちは、警備の目をかいくぐって領域外へと出向いていた。
反故にすれば減罰が下される一族にとって身の危険を察知できるカリルゼッナの才は何より身を守るために重宝された。
「ある日、遠出したカリルゼッナたち一行が彼女だけを失って戻ってきたときは、そりゃたまげたよ」
一行に話を聞くと、道すがら山賊の襲撃に遭っていた貴族の娘を助け、祝皇のいる城へ送り届けに行ったのだと言う。反対したけれど、カリルゼッナは自ら志願して頑なに心配する声を断ち切ったのだそう。
すぐ戻って来るから、なんて言葉は皆が危惧した通り大嘘だったさ。
カリルゼッナはそれから何年経っても戻って来はしなかった。
ところが、そのうち妙な噂が集落にまで舞い込んで来た。
現祝皇が身罷り、次代の祝皇が即位する。それに伴い、即位する皇子が悪神の末裔の娘を祝皇妃として迎え入れる、と。
「祝皇妃は祝皇が入内させた妃のなかで、最も位が高い。あたしは噂を聞いて、すぐにあの娘だとわかったさ」
生半に城へと向かって帰って来なくなった娘に添えて、緩和される一族への規制。皆なんとなく察していたのだが、だからといって城にいると思われるカリルゼッナを取り戻す方法など一つもない。一族への風当たり未だ強く、この温情は一部の貴族たちによるものであって、総意ではない。自分たちが赴いたところで命の保証がなかった。
それから何年も時は過ぎた。
過ぎたる一日に、カリルゼッナは突如集落へと帰ってきた。その腹は大きく膨らみ、傍らには幼女を引き連れて。
「あんたとサウエのことさ」
ジュネクは手を組み、握る。己の一挙一動がなんとなく目についてしまうのは、胸がざわついているからだろう。
前触れのない帰還だったけれど、集落の者たちは憑きものが落ちたかのように安堵の表情を浮かべた。彼女に厳しい目を注いでも、起こってしまった悲劇を改変など不可能であり、そうするくらいなら本来あるべき暮らしを取り戻そうというのが皆の考えでもあった。
そして、サウエと生まれてきたジュネクをネイセリンとして受け入れ、育てた。カリルゼッナの母親は率先して育児に手を貸した。
カリルゼッナは城での生活に不満はなかったが、それでも逃亡を援助してくれた者がいて、この集落まで逃げ延びられたのだと話した。その人は孤独なカリルゼッナにとって最愛の友人だと嬉しそうに言った。
「内裏が火災に見舞われたのに乗じて、カリルは城から抜け出す手助けをしてくれた姫にずっと感謝していたよ。唯一味方でいてくれて、その姫をひとりぼっちにしてしまったのが心残りだ、と自分のことより他人を案じていたね」
あの娘らしいのだが、その気性がカリルゼッナの呪縛ではないのだろうか、と当時のシアハは思った。
「未練のある言動をしていたけれども、あたしにはあの娘が不自由なく城での暮らしをしていたとは思えなかったよ。あの溌剌な娘が物静かで陰のある娘になったんだ。それでも己の子を抱くその表情は幸せそのものだった」
だから、カリルゼッナの母親と一緒に窪手衆になり、離ればなれになってからのカリルゼッナとその娘息子の悲劇があずかり知らぬところで進行していたと知り、呼吸が止まった。報せを受け取り、猛烈な後悔に染め上げられた。
シアハが目を伏せて語る様は、まるで黙祷しているようにも見えた。残された目の前にいる青年は、まだ過去の傷を引きずり続けている。
「あんたがカリルゼッナを殺した罪で窪手衆へなるよう命じられて此処へ引き立てられて、無表情のまま突っ立っていて。幸せな関係がどこかで辻褄が合わなくなったんだとわかったさ」
シアハは一度言葉を区切り、数度咳をしてから再度口を開く。
「あんたはカリルゼッナを殺してなんかいない。しかしなお己を責め続けるのは、理由をさがしているからだろう。他者に責任転嫁など出来ず、自責の念に今なお駆られ身を苛んでいる」
お母さんはぼくを殺そうとしたんだ、と涙ながらに訴えたられるようになった少年は失われるのをおそれて、初めから欲しいものを手に入れるのをやめるようになった。
「それが、ぼくの在り方だからです」
ジュネクは強くこたえた。
「あんたが対話を続けていくというのなら、止めやしないよ。きっといつかは変化していく関係性だからね」
シアハは浅く頷いた。
「塞ぎ込んで、痛みに苦しんで、我慢してきたのが誰かは、あたしが一番知っている。あんたはもう、誰かからもらったやさしさを誰かに渡すやさしさを持っている。ジュネク、あんたは不器用ながらに良い子に育ったよ。あの娘が生きていたら、おなじように思うだろうね」
ジュネクは虚を衝かれて言葉を失う。誰かから肯定の言葉をもらうなどなかったことだから。
「修羅を越えてきたからこそ、今ある瞬間の尊さがわかるのだとカリルは言っていた。カリルゼッナは確かにあのとき幸せだった。あんたが生を嘆いていたら、あの娘が浮かばれないよ」
言わんとしていることを悟り、ジュネクの胸の内が熱くなる。己の記憶にこびりつく母の記憶ばかりが母の姿ではないのだ。狂っていく母だけが、カリルゼッナの生き様ではない。それをすぐに受け入れられるかどうかは本人の意思次第だが、ジュネクは対話を続けると言った。遅かれ早かれ、また結び目に変化が訪れるだろう。
シアハはそれから打って変わり、厳しい顔つきをした。
「だけれどもね、人との繋がりで不幸になったのなら、今度こそ人との繋がりで幸福になったっていいだろうさ。臆病で慎重になるのはよろしい。でも、他人軸に言い訳を募るのはやめなさい。一度歩み寄ったのなら、割り切って自分の気持ちに素直になりなさいな」
ジュネクは僅かに身じろぎをする。
「素直に、か……」
「あんたは昔から偏屈だからね。あたしみたいな年長者が叱責しないと意固地になるだろう?」
口角を上げて言ってのける老婆をジュネクはじろりとひとにらみしてから、老翁に問うた。
「本能的に理解していても、その恐怖の根源に近付くべきだと思いますか」
シアハは瞼を震わせた。
「おなじような魂の炎出会いを果たしたときが、いっとううつくしいさね」
その言葉を受けたジュネクは、さっと腰を上げた。
「おや、もう行っちまうのかい。まだあたしの昔話は幕を閉じちゃいないさね」
「見識を並べまくった昔話なら腹一杯だからまたの機会にしてくれ。寝物語のはずが、すっかり目も覚めたことだし、ぼくには早急に成すべき用事をこなさせてもらう」
「それじゃあ仕方ないねぇ」
なおざりな返事からして、こうなるのを見透かしていたようでむずがゆい。結局甘えさせたというよりかは、叱責されたに近い。だけど。
「まあ、満腹ではあるけどためにはなったかな。————ありがとう、おばば」
自然と口から出た子どもの頃の呼び方に、二人はふっと顔を綻ばせる。
ジュネクは気恥ずかしさを隠すように、踵を返した。
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