第三章 窪手衆④
記憶に鮮明に残る、煙の独特なにおいがした気がして、ムレイは目を覚ました。
東の空はまだ星と月が主導を握る刻だが、既に臥床にはファノイの姿がない。そっと織り地に触れてみると、冷ややかな感触が手に伝わる。ムレイはそっと息を吐き、乱れた髪を掻き上げた。
このところ、祝皇が臣下に呼び出される頻度が増加している。隣国との緊迫した外交や獰猛な騎獣民族の脅威に祝皇は国を守護する判断を求められる。だが、ファノイが夜な夜な職務に就く必要があるのは、どちらでもないとムレイはわかっていた。
(副皇が関わっているのね……)
ファノイが即位したのは、前祝皇が身罷ってからさほど時は要さなかった。先代の遺詔により反対する高官たちを説き伏せての即位だった。審議の場においては榮卜官の口添えがあり、誰も国の吉凶を占う彼の言の葉を否定できず、祝皇の座にはファノイが身を落ち着ける運びとなった。
それに伴いカリルゼッナとムレイも皇妃として召し上げられた。祝皇妃をカリルゼッナとし、祝皇側妃をムレイとするかたちで。
これが十数年にわたる現祝皇の指示の低下を招いている。
神璽国の始まりから今に至るまで、築き上げてきた国政を揺るがそうとしている祝皇を、皆が異端視している。ファノイが側仕えさせている身内が少数なのは、臣下にさえ敵が多くいるからだった。
国に息づく穢れの象徴を祝皇一族に招き入れた恐慌に不満が蓄積していた。
特別ファノイに反感を抱いていたのは、ムレイの父親だった。祝皇側妃となったムレイの功績から飛躍的な出世を果たしたのだが、祝皇妃になったのが賤民ともなれば名誉よりも汚点が目立つ。父の家柄から登殿時に丁二位の位を贈与されたのだが、カリルゼッナは無位無官だった。
度し難さに耐えきれなくなった父は、ついに宮廷火災を企てた。
ファノイが祭儀のために宮廷を不在にしたのを機に、同士を祝皇妃の御殿に送り込み、火を放った。内裏までもが消失したあの火災の首謀者は、側近の手によりもみ消されている。
火災により祝皇妃の御殿は倒壊し、複数名の死者が出た。そのなかに、祝皇妃カリルゼッナも含まれていたとされている。
御殿から逃げおおせた者は皇子と掌侍のみだったのだから、遺体を検分する手間が省けたと、これ幸いに臣下は捜索を断念した。
このときばかりは、ムレイもイルㇽの扱いの残酷さに助けられた。
ムレイは火災につけ込んで、カリルゼッナの逃亡に加担していた。
煤まみれのカリルゼッナが燃え移る祝皇側妃の御殿へ駆け込んで来たのを見て、ムレイは悲鳴を上げた。だが、避難する前に彼女の無事を確認出来て、安堵した。
カリルゼッナは細腕に二人の幼児を抱えていた。
正絹の装束に身を包む子どもと、上等ではあるが着古した小袖を纏う子どもだ。カリルゼッナはそのうち正絹の装束に身を包む子どもをムレイに渡した。
「この子をお願い」
「まって! どこへいくの⁉」
ムレイはとっさに腕を摑んだ。
「……
躊躇ってから、カリルゼッナは短くこたえた。
「この子を置いて?」
カリルゼッナが故郷へ帰りたいと言うのなら、それを止める気はない。なによりも本心だと理解している。幇助だって出来る。だが、この子どもはカリルゼッナの子だ。他人の子より優先するつもりなのか。
「そう、この子は皇子だから置いて行くの。あなたの側であれば、わたくしよりも安全で健やかに育つ気運に恵まれる」
「勝手なことを言わないで‼」
ムレイはかっとなり叫んだ。何も知らない自分を助けたカリルゼッナが、己の息子を手放す発言をするのは見過ごせなかった。
「……此処にいると感情を忘れるの」
ムレイは息を呑み、手を離した。カリルゼッナは逃げずにこちらを見た。
「だったら、一緒に連れて行けばいいでしょう」
「オノファトは駄目よ。いつかこの国を変えて欲しいから」
なんて我が儘な人なのだ、とムレイは思った。
「皇子を一人にするつもり」
「一人じゃないわ。ファノイさまはオノファトを鍾愛しているから。それに、ムレイも味方になってくれるでしょう?」
「……いつか、心変わりするかもしれない。己の子を祝皇へのし上げるために、卑劣な行いに手を染めるかもしれない。味方で居続ける保証はないわ」
ムレイは正直に打ち明けた。
「構わないわ」
ふと、彼女が言っていたことをムレイは思惟した。
イルㇽの一族をまもりたい。子どもをまもって欲しい。
アマラスハル神璽国という国は神と身分が物を言う。賤民が国を変えるのは困難だ。穢れたイルㇽ人が国政に介入するなど、彼女が入内するという異例でさえ支配者たる祝皇の権力で成されたことなのだから、足掻くだけ無駄なのだ。
オノファト皇子は程なくして、己を知るだろう。善神と悪神の混ざり血の皇子は、否応なく節目に立たされる。
「……ほんとうに、我が儘」
「やっとわかったのね。わたし、ほんとうは頑固者なの」
カリルゼッナは明るさのある口調で話す。だが、無理矢理つくった口許は上手く笑えていない。
「でも、卑怯なことをしているとは思っているの。……ごめんなさい」
己を卑怯だと言う彼女が、決して楽なほうに流れてこの方法を取ったのだとは思えなかった。どれだけの葛藤の末に、選び抜いたのだろうか。
「————タラヤ」
ムレイは侍女頭を呼びつけた。ムレイとて宮廷で愚鈍にしてはいない。父が遣わせた掌侍ではなく、売り飛ばされて身寄りを失った掌侍をこちら側に引き入れた。堅実な功績がようやく発揮される。
「彼女をイルㇽの一族のもとへ連れて行けるわね」
「承知つかまつりました。このぶんですと、騒ぎに紛れて崩れた石壁から城外へ出られます。衛士が気付く前にまいりましょう」
タラヤは平服を素早く纏い、カリルゼッナにも着るよう促す。その間にも炎は側妃の御殿にまで及びかけていた。
「この幼子はどなたの子なの」
ムレイは焦燥に駆られながらも、もう一人の子どもについて訊ねた。
「私の侍女をしていた者の子どもよ。……彼女はわたしの身代わりになってしまった」
カリルゼッナは襷で幼子が落ちてしまわないよう密着させるようにくくりつけて縛ってから、跪いてムレイに最敬礼をした。
「ムレイさま、どうか達者で。このご恩は忘れません」
この言動で、カリルゼッナが祝皇妃の衣を脱ぎ捨てたのだと察してしまう。
「カリル……」
手放し切れていないのはムレイだけだった。カリルゼッナは何も言えずにいるのを、黙認と受け取り御殿を出て行ってしまう。
もう二度と会うことはないだろう。わかっていても、かける言葉がみつからずにいた。
呆然としていたムレイを我に返らせたのは、父の手先の者に声を掛けられてからだった。
どうやって火災から避難したのかおぼえていない。だが、その手に皇子を抱いているのに気付いたファノイに感謝された。火災のなか真っ先に避難せず、祝皇の子を案じて助け出す様は、まさに皇妃の素質が備わっていると評価された。
皆、対立関係にあるはずの妃がわざわざその息子を助け出すなどあり得ず、カリルゼッナが亡くなったのはまさしく善神からの罰が与えられたのだと信じた。
後になって、この火災の首謀者が父だと判明して、結局父の思い通りになってしまったのだと気がついた。
その頃には、ムレイは祝皇側妃から祝皇妃へと徴することが決定していた。
この件があってからというものの、祝皇にはファノイよりもファーアンがなるべきだという流れもあったらしいのだが、榮卜官がこれを打ち消した。
副皇派の憎しみは増す一方だった。
副皇派すなわちファーアンの政策を重んじる派閥の者たちの行動は、保守的と言えるだろう。
だが、野心のある副皇ファーアンは選民思想の強い人物で、現行の身分制度が神璽国民を守ると強固な姿勢をみせている。イルㇽ人を掌握する皇族たちが絶対的な君主としてその目にうつり、身分に甘える者たちは没落をおそれ保身に走る。
彼ら副皇派の者たちは緑火祭を折りに、勢力を挽回させている。祝皇の意向を無視し無礼な外敵を斥けようと、打ち払う者たちが各地で騒動を起こしているのだ。ひいては神アマラスハルに害成す一族に罰を与えるだけなのだから、浄化する我々が祟られるものかと汚泥にまみれた思想のもと。
幾夜もファノイはこの処理に追われている。
おそらくオノファト皇子も。
ムレイはオノファト皇子の養母として彼を育てた。それがファノイにとって理想だったから、引き受けた。しかし、オノファトはムレイの手を借りずとも祝皇の素養を身につけていただろう。
オノファト皇子はムレイの膝下から離れるのが異様に早かった。聡い皇子ならムレイの揺れ動く心を察したのだろう。
ムレイもオノファトと接する度に、食い違う己と向き合わねばならず、くらくらするような苦痛に吐き気がした。
それでも、解放された安堵と侘しさがあるのはなぜだろうか。
いつまでも蝕むこの虚しさのより所を、ムレイはいつまでも見つけられずにいた。
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