第2話 勉強するよ伊波さん!


 今日の学業の終了を告げるチャイムと共に机や椅子が動く音がする。

 教科書を詰め込んだカバンを引っ掴んで、みんなそれぞれの放課後を過ごすのだ。

 ならば私はどうかと言えば、見失わないうちにと伊波さんの席まで行ってみた。

 

「伊波さん、今日は補習無い?」

「別に毎日受けてるわけじゃないわよ……」

「ごめんごめん、この後予定が無いならあの約束・・はどうかな?」


 流石に仔細を人前で話すのは憚られるので言葉を濁す。

 じっとりと伺うような視線を向ける伊波さんは少し悩む素振りを見せたが、こくりと小さく頷いた。


「分かった。何するの」

「勉強。次は追試を受けないように」

「最初の約束と違うじゃない。瑠美は私に──」

「分かった分かった、勉強したらご褒美にひとつ教える。これで良い?」


 まだ教室には人が居るのだからあれこれ言われては困ってしまう。

 伊波さんの口を塞ぐように咄嗟に出た言葉だったが上手い事言いくるめられたようで、こくりと小さく頷いて「わかった」と呟いた。

 そうして2人並んで下校する。

 簡単に事が進んでしまったが、これが小学生中学生の頃では一度も成功した人の居ない難題だったのだから僅かに優越感が湧いてきた。

 隣を歩く伊波さんは俯きがちの猫背気味で、かつての存在感はまるで無いけれど。

 それでも靴を履き替え時、不意に近寄った際に漂う香りは以前と同じ伊波さんの──


「いやこれはキモい……」


 私まで変態になるつもりはないのだ。

 それにそこまで仲が良かったわけでもない相手の匂いを記憶しているのも大概だ。

 伊波さんに健全な高校生としてのあり方を考えるのだから、私は模範となるような存在でなくては。


「何?」

「いや別になんでもないよ!これから私の家で勉強会で良い?門限とか……」

「別に無い。それで構わないわ」

「へー意外、伊波さんの家ってなんとなく厳しそうなのに」


 と、ここまで言って無遠慮な発言だったと気が付いた。

 思い返せば伊波さんのお母さんは高校受験にかなり拘っていたとか、そんな事を話していたような。


「塾で遅くなる事があるから門限は無かったの。今はもう塾に行っていないから自由よ」

「学力落ちてるけど、また塾に行く気は?」

「無いわ。今の私じゃもう、あの塾のレベルに付いていけないだろうから」


 平然と自身の落ちぶれっぷりを語るその姿に、失礼だとは思いつつも憐憫を抱いてしまうのは仕方ないだろう。

 昔の文武両道といった姿を知っているだけに。


「追試受ける状態じゃ大変かなぁ。伊波さんって1年生の頃はどうだったの?」

「別に今と変わらない。ただ事前に詰め込んだ分があったから少しはマシだっただけ」

「じゃあ今は?予習復習しないの?」

「前はママが付きっきりで予習復習をしていたけれど、高校生になってからはやらなくなったから」


 授業中はいつも眠たそうにしている伊波さんの事だ、どうせ授業の内容はまるで入って来てなくて、午前の授業で眠気が覚めた後の補習で勉強しているのだろう。

 それでなんとか赤点を回避して、現在高校2年生。

 これでやっていける限界は遠からず来てしまうだろう。


「今度は私と勉強するけど……伊波さんは勉強嫌い?」


 だからといって嫌がる勉強をさせる事が彼女の為になるのだろうか。

 ただこのままでは駄目になってしまうと思うのだ。

 伊波さんの助けになりたい、そこに嘘は無い筈。


「分からない。それが当たり前だったから……」

「そっか。でも私達は友達だからさ、一緒に楽しい事もしようね」

「……そう言って猥褻な事をするビデオを沢山見たわ」

「しないからね!」


 2、3度言い含めておいた。

 そうして下校する道は伊波さんと2人だと少し新鮮で……あと歩きづらい。


「伊波さん、なんで後ろを歩くの?」

「?だって瑠美の家を知らないもの」

「横を歩きなよ!ちゃんと着いて来てるか不安になるんだって!」


 2人で歩いてる時に背後取ってくる人初めて見た。

 しかも伊波さんは時折立ち止まるから余計に不安になるのだ。


「横に広がって歩くと迷惑だわ。私でもそれくらいの一般常識は知ってる」

「すれ違う人が居たら1列になればいいんだから、ほら!」


 伊波さんの腕を掴んで私の隣へ。

 戸惑いがちな顔を向けられても気にしない。

 きっとこれが伊波さんの初めての友達との帰り道。

 これを私1人が独占している事を堪能して、誇らしく思うくらいで。


「家族と出掛けたりしないの?」

「塾とか、習い事とか、受験の時とか」

「あー……」


 なんと言うか、根深い。

 容易に踏み込めるものではないから、私は友達として出来る範囲で。


「じゃあ買い食いはした事ある?」

「水を買うくらいなら。私は知ってるのよ、都会のオシャレな女性とポルノ女優はペットボトルの水をよく飲むって。どう?」

「どうも何も後半が余計かなぁ……」


 伊波さんは会話の繋ぎ方がなんか変だ。

 思い返してみれば、今まで伊波さんと話した事自体はあってもその内容が記憶に無い。

 毎回目的があって、そこを達成する為の会話だけをしていた気がする。

 伊波さん自身もきっと、雑談というものを計りかねているのだろう。


「よし!買い食いして行こう!次のコンビニが私の家までのルートだと最後のコンビニだから」

「分かった」

「伊波さんは食べたい物はある?お金は大丈夫?」

「一応渡されてるお金があるけど……コンビニって何が売ってるの?」

「何って……色々」

「色々は何?水以外を買った事が無い」

「ジュースとかお菓子とか?勉強のお供に必要だよね!」

「じゃあそれを買う」


 そうして2人でコンビニへ向かう。

 気が付いたら背後を取られているから横に引き戻しながら。

 2人並んで入店して、まずはドリンクコーナーへ。


「伊波さんは普段何飲むの?」

「お茶」

「紅茶?緑茶?ハーブティーとか」

「お茶はお茶よ。ママが淹れたものだから種類は分からない」

「じゃあ好きな飲み物は?私もそれにしようかな」

「特に無いわ」

「ジュース飲んだりとか、コーヒーが好きとかは?伊波さんにコーヒーは似合うと思うなぁ」

「ジュースは身体に悪いから飲まない。コーヒーは苦いから好きじゃない」


 ほんのりと、小さな子供と話しているような気分になる。

 笑顔も少し、固まったような。

 質問のひとつひとつに答えてはくれるけど、そのワンレスポンスで終わり。

 これは中々強敵だぞ……!


「じゃあサイダーとかどう?私好きなんだぁ。炭酸飲んだ事は……ある?」

「無い」

「なら飲んでみるのはどうかなぁ?嫌じゃなければ」

「分かった。それにしましょう」


 少し前進。

 2人分のペットボトルを手に、次はスナックコーナー。

 激戦の予感がする……


「伊波さんお菓子の好みは?」

「特に無いわ。瑠美の好きな物を選べばいい」

「いや!それじゃつまらない!伊波さん、なんでもいいから選ぼう!」


 私のこれは無茶振りだろうか。

 伊波さんは少なからず迷った素振りを見せて、手を伸ばしてはどれを掴めば良いのか悩み、長い時間考えて、ようやくひとつの袋を手に取った。

 そのコーンスナックは私も好きなものなので、なんだか嬉しい。


「おっ!」

「駄目だった?」

「私これ好きなんだ。伊波さん見る目あるね!」

「これで大丈夫なの?」

「大丈夫とかじゃくて、伊波さんがどれを選ぶかってだけだよ」

「そう……ならこれにする」


 大切そうに袋を抱きしめて、2人でレジへ。

 緊張した様子の伊波さんは袋を手放す事すら厭うくらいに自分のチョイスが大切みたいで、レジ袋は貰わずにシールを貼ってもらって抱えて帰る事に。

 これもなんだか小さな子供みたいだ。


「瑠美はいつもコンビニで買い物をするの?」

「するよ?雑誌買ったりとかねー」

「コンビニの雑誌は卑猥だって教えられたわ。どんな内容なの?」

「そんな本だけが置いてるわけじゃないって!ホント色々だよ、今度は雑誌も見てきたら?」

「そうね……でも沢山あったから迷うと思うの」

「迷いなよ。それも買い物の楽しみなんだから」

「迷うなんて時間の無駄じゃないかしら。それなら私は次も瑠美とコンビニへ行きたい」


 上目遣いで、躊躇いがちに言うそんな言葉は、行き先がコンビニじゃなければ殺し文句だ。

 

「いいよ。コンビニなんていくらでもあるからね」

「そういえばコンビニで性行為をするビデオも見た事があるわ」

「現実にはそんなの無いよ」

「私が知らないだけで──」

「無いよ」


 無いったら無いのだ。

 世間は伊波さんが思う程爛れてなんていない。

 いないよね?

 伊波さんは少ししょんぼりとしていたけど、こうして普通を教える事が私の役割だ。

 いや、普通以前の話の気もしてくるけど。


「はい、ここが私の家。普通でしょ」


 色々と考えたり、話したりしているうちに我が家に到着。

 伊波さんは珍しそうにあちこち眺めているから、彼女にとっては普通ではないのかも。


「普通が分からないけれど、よそ様の家は不思議に見えるわ」

「確かに。家具こんな配置する!?みたいな」

「中も気になるわ」


 心なしか伊波さんはワクワクしているようで、スナック菓子の袋を抱いている姿も加えると幼い子供のよう。

 純粋な心からの反応はちょっと面白い。

 鍵を開けて扉を開くその動きひとつひとつにも反応しているので、つい間を作ってしまう。

 食い入るように見つめる伊波さんはなんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。


「何?」

「いや、伊波さん面白いなって」

「私、面白い?ありがとう」


 それもなんだか変な返しだ。

 でも伊波さん自身は満更でもない顔をしているのでこれで良い。


「はい、上がって」

「お邪魔します……」


 招き入れた玄関に、伊波さんはおずおずと入ろうとして……脚を引っ込めた。


「待って。ごめんなさい。ひと様の家では失礼の無いように、という一般常識は私も知ってる。でも具体例を知らないの」

「ひょっとして、友達の家に行くの初めて?」

「初めて。今まで友達なんて居なかったから」


 胸の内に湧いてきたこれは優越感だろうか。

 私は伊波さんの初めての友達で、初めて一緒に帰って、初めて家に招かれた友達という事になる。

 誰が想像出来ただろうか?

 あの伊波さんとこんな事が出来るだなんて。

 

「伊波さんの思うようにしたらいいよ!違ったら違うって教えるから」

「私の……思うように……」


 伊波さんは長考モードに入って、顎に手を当てて何やら小さく呟きながら真剣な表情を浮かべる。

 まるで以前の凛とした伊波さんのような姿に、正直目を奪われた。

 なるほどこれは印象に残るわけだと、そう思う。

 確かに少しくたびれたような、そんな感じはするけど。


「分かった──失礼します!」


 伊波さんは急に大きな声を出して、両手を揃えてピシリと一直線に立つ。

 そうして玄関に入ると反転、扉を閉めて、私に向き直る。


伊波彩希いなみあきです。よろしくお願いします」


 そして綺麗なお辞儀。

 うん、これはあれだな。


「面接かな?」

「私の学んだマナーの中でも1番使えそうだったから……」

「確かに凄い丁寧。でも友達の家ならそんなに固くならなくていいって。お邪魔します、の一言で大丈夫だよ」

「そういうものなのね……お邪魔します」

「はい、上がって上がって」


 伊波さんを招いて、廊下を通って階段へ。

 そこから2階に上がれば私の部屋がある。

 至って普通のフローリングにラグを敷き、ローテーブルにベッドに本棚に……そんな家具を置いた部屋。

 伊波さんは隅々まで見回して物珍しそうに息を吐いているけれど。


「面白いものでもあった?」

「物がいっぱいだわ」

「そうかな?結構整理整頓してる方だと思うけど」

「この低いテーブルは何の為にあるの?」

「友達とお菓子食べたり、これから勉強したり」

「でも勉強机もあるわ」


 伊波さんが指さしたのは、私が小学生の頃から使っていた勉強机。

 最近では勉強にわざわざ使う事も無くなった木製の机だ。


「あれじゃ2人で勉強出来ないでしょ?」

「そう……そうなのね。知らなかった」

「ローテーブルなら椅子が無くても大丈夫でしょ?お菓子の袋とノートを広げてやる勉強会なんて漫画でよく見るやつだよ」

「漫画──」

「見た事ない?エッチな奴ならある?分かった!勉強が終わったら私の健全な漫画を読ませてあげよう!」

「なんで言わせてくれないの……」


 なんでも何も、流石に分かってきたからだ。

 その卑猥な事ばかりが入り込んだ頭に健全な情報を詰め込んでみせよう。

 これでも私は学年全体でも上から数えた方が早い程度の成績、人に教える事も出来なくはないのだ。


「さあ!勉強するよ伊波さん!」

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