たとえ音がなくたって
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たとえ音がなくたって
雨が降り続いている。上空の雨雲は未だ頭上に停滞しているようだが、昨日までの土砂降りに比べたらかわいいものだった。
大きな藍色の傘を広げようとし、どうも広げにくいと思えば骨が歪に曲がっていたことに気づいた。
おそらく昨日の暴風雨のせいだ。無意識に深いため息が漏れた。
この傘は他の物に比べて大きさはもちろん、骨も多く、持ち手の木の感触だって心地が良いものだった。だからこの傘を持ち歩くときは絶対に肌身離さず、盗まれないようにと気を付けていたが、ついに壊れてしまった。
仕方がないが買い直すしかなさそうだ。どうせ今日はいろいろと買いに行く予定だから、ついでに買えば良い。
同じものがあればいいのだがと少しだけ祈り、壊れかけの傘を改めて思いきり広げ、雨の中へと歩き出した。
手に伝わる傘に落ちる雨の感触に胸を躍らせる。
濡れるのはやはり嫌だが、雨の日は嫌いではない。こうして楽しめるから。ただやはり、時折横を通り過ぎる車が水たまりを踏んで、水しぶきを飛ばしてくるのだけは勘弁願いたいところだ。
注意はしていたものの、水しぶきにかかってしまったジーンズを見下ろし、本日二度目のため息をついた。
仕方がない、仕方がないかさすがに寒い。いや、うん、そうだ。そのうち渇く。きっと。
そうポジティブに無理やり考え、濡れて歩きづらくなったジーンズを軽く引っ張りながら待ち合わせ場所に急いだ。
途中、満開の薄紫や青の紫陽花に目を奪われかけ、水たまりを横切り、物寂しい公園へ入る。
待ち合わせ場所の公園の東屋には、まだ二十分前だというのに友人である斎藤の姿があった。
斎藤は東屋の中のベンチに座り、目をつぶっている。器用に座ったまま眠っているのかと思ったが、傘を持つ手の指先が一定のリズムで上下に動いていた。
降り続いている雨の音を聞いているのだろうか。
中断させることに申し訳なさを感じつつ、呼ぶために東屋の柱を軽く叩く。斎藤はぱっと目を開け、ほんの少しだけ視線を周囲に動かしてまっすぐにこちらを見て笑顔を浮かべた。斎藤は隣を叩く。座れという意味だ。
だから雫を落としながら傘を少し無理やり力を入れて畳み、隣に座る。
斎藤は首をかしげながら、傘を指さした。
ああ、と一つ頷きつつ、傘を少し広げてみせ、骨が歪になっている箇所を見せてやれば分かったように斎藤が頷いた。
それから斎藤は手元のスマートフォンに文字を打ち込み、画面を見せる。
(傘を買いに行こう)
さすがは友人だ。
大きく頷けば、斎藤も頷き返してすぐに立ち上がった。
よく行くこの辺りで大きなショッピングモールへと足を運び、同じような傘が無いかと探し回った。とはいえ、少し良い傘を売っている場所なんて限られているから迷わずに売り場を見つけ、一本ずつ吟味した。
最終的に決めたのはアイボリーの傘だ。同じように大き目で骨が多い。手持ち部分は木材ではなかったが、しっかりと握れるくらいの太さがあった。
新しい傘を購入した後、今度は斎藤の買い物だ。
聞けば斎藤は今、新しい曲を作っているらしい。
イメージはこんな感じだと、雪解けの写真を見せてくれた。
斎藤の趣味は曲作りだ。そして曲を作るためにあちらこちらへと出歩いており、何故か斎藤はよく自分を誘ってくる。今日だってそうだ。
今の季節はちょうど梅雨。雪解けの季節はとっくに過ぎてしまい、これから夏へと向かおうとしている季節。
なぜ季節外れなものを今作ろうとしたのかと問えば、思いついたからと、当たり前のように教えてくれた。
なかなかに個性的な友人だ。高校からの付き合いではあるが、なかなかにそのあたりはうまく理解が出来ていない。いつになれば理解が出来るのか。
けども斎藤のおかげで世界が広がっているのは確かだった。
あちらに行こうと、並んでいる店舗のうちの雑貨店を指さした。そこに雪解け関連のものは無いと思うが、素直に頷いて見せた。
斎藤の早足になりかえる歩調に合わせてやる。すると遠慮なく進むので、その後は半歩後ろについて行く。そうした方が斎藤の様子が良く見えるからだ。
生まれつき音なんてものは聞こえた事はない。
音のない世界が日常だ。一応は器具をつければ聞こえるようにはなるが、どうも慣れずに今の今まで進んでは使っていない。本来の音とは違うらしい、その音を美しいとは思いたくなかった。
嘘にまみれた美しさに囲まれるくらいなら、ずっと音のない世界でいたほうがずっと居心地が良かった。
周囲は呆れて困り果てていたが、全て無視をした。そんな時に斎藤と出会った。
斎藤とは高校からの関係だが、自分は聾学校にいたし、斎藤は普通の高校だった。
知り合ったきっかけは、斎藤の落とし物を拾ったところからだ。
まるで漫画のような展開で、あの時のことは今でもはっきりと覚えている。
斎藤の定期を道端で拾ったのがきっかけだった。とりあえずは近くの交番へと届けるのが得策だろうと思い、向かおうとしてすぐに斎藤が声をかけてきたのだ。
最初はただ声をかけただけだというが、無視されたと思ってつい強く掴んでしまったのだと斎藤は申し訳なさそうに謝ってきた。
普通の、よくいるような相手であればそこで終わりだった。
しかし斎藤はおかしな奴だった。
一体何が斎藤の興味を引かせたのかは分からない。いや、音が聞こえない自分だからだろうか、斎藤は音楽は好きかと聞いてきた。
なんて嫌な奴だろうかと思った。音楽なんて聞いたことがないのに、一体どうしてそんなことを聞くのかと無視をしようとしたら、斎藤は鞄からスケッチブックを見せてきた。
音楽を作っている。この絵はそのイメージだ。この絵からどんなものを感じるのか教えて欲しい。
意味が全く分からない問いだった。
あまりにもしつこくて、仕方がなく思ったままに答えてやれば、斎藤は目を瞬かせて満面の笑顔を浮かべた。
よく分かっているじゃないか、と。
なし崩しに連絡先を聞きだされ、勝手に登録された。そしてそこから斎藤との付き合いが始まった。
まさかこうも唯一無二の友人になるとは、あの時は欠片も思わなかった。
斎藤は本屋の写真集が並んでいる場所を目の前にし、頭を悩ましていた。
イメージ通りの風景等々の写真集を見たいらしい。そんなのネットで見ればすぐに見つかるが、見つけられるからこそ、ふと目に入った異なるものを見落としてしまうからこうして本屋や図書館で調べるのだとこだわりを見せていた。
確かに斎藤の言う通り、近道をするならネットの方が早い。けど遠回りをして良いのなら、無関係そうなものが多く目に入る場所で調べた方が、案外良い時だってある。今だってそうだ、こんなにも可愛い猫の写真集があるとは思わなかった。
……今日は買うのを我慢しよう。そっと棚に戻した。
さて、斎藤は良いものを見つけただろうかと探すと、斎藤の姿が見えず、おやどこに消えたのかと他の通路をいくつか覗き込むと、目的の人物を見つけた。斎藤はその場にしゃがみ、小さい子供に何か話をしていた。
手には子供が落としたであろう人形があった。
子供は笑顔でおそらく唇を読んだ感じ、ありがとうと言ってどこかへ走り去ってしまった。斎藤は見送りながら立ち上がり、ようやく自分が見ていたことに気づいた。
斎藤は慌てて駆け寄って、人形を落としてたから追いかけて渡したこと。そして何も言わないで離れたことに対して申し訳ないと伝えた。
別にそこまでしなくてもと首を横に振り、とくに二つ目の言わなかったことに対しては気にしないで欲しいと指先でとんとんと叩く。斎藤はしっかりと意味を分かってくれたようで、納得がいかないように顔をしかめた。
斎藤はとても分かりやすいし、なかなかに独特な個性を持っている。好きな事は一直線で、とくに音楽に関することになるとブレーキなんて無くなってしまう。
そしてこんな音のない世界に生きる自分の友人になっているくらいに、本当にいろいろと心配になってきてしまうくらいだ。
小休憩の為に入ったチェーンのコーヒー店で、斎藤はブラックコーヒー、自分はカフェラテを注文し、向かい合うように座っていた。斎藤は鞄から小さなスケッチブックを取り出し、こんな感じの風景が見たいと教えてくれた。
いや描けるなら、そこから作曲すれば良いのではと伝えれば、そうじゃないのだと首を横に振られた。
この想像以上のものを知りたい、と手書きの文字でつづられた。
なんていうこだわりの強さだ、と少しだけ呆れてしまう。
斎藤は自分の顔を見て、少しだけばつの悪そうな表情を浮かべた。そして手元のスケッチブックにこう書かれていた。
(ごめん、いつも無理やり巻き込んで)
何故、急にそんなことを書いたのか分からずに困惑していれば、また文字が続けられた。
(大学の奴らに、失礼だって言われた)
お互い、大学は別だ。どういう風に過ごしていて、どんな交友関係を持っているのかまでは知らないが、失礼だなんて思ったのは本当に一番最初の時だけで、今は全く欠片も思っていない。
斎藤のシャープペンを奪い取り、どちらの文字も二重線で消した。黒く濃い二重線がはっきりと出てきた言葉を消そうとしているが、書いた本人からはその言葉は消えないし、出てしまった要因が消えるわけではない。
自分が起こした行動に何か言いたげの斎藤に、どうすれば良いのかと考える。
確かにそこそこ失礼な奴だが、もうすでにそんなものは通り越した友人。いや、親友だ。それに斎藤がいたからこそ、音のない世界がより色づいているのは事実であり、こうして楽しく遊ぶことなんで出来やしないのだ。
文句はない。むしろ感謝がいっぱいだ。
そう、感謝だ。
しかし何度もありがとうと文字や手話での感謝を伝えてきていたが、どうやら意味をそこはちゃんと伝わっていなかったらしい。
そうなると、と考えると手段は一つしかないことに気付いた。
なんとも気が引けることだし、練習はしているとはいえ、未だに実践で試したことは無い。不安でいっぱいになるし、何かさらに別の方法がないかと探してしまいそうになる。
だが相手は親友の斎藤だ。
ちょっとぐらいのミスぐらい許してくれる、はずだ。きっと。
斎藤がこちらを見ていない。これはきっとチャンスだ。
ゆっくりと唇を開き、喉を奥を震わせた。
「――」
うまく、ありがとうと発声が出来ていただろうか。
斎藤はしばらく動かなかった。もしかしておかしな発音で発声してしまっただろうか。
一分か、十分か、それ以上か。体幹としてはずいぶんと長い間固まっていた斎藤がようやく動き出す。
何故か斎藤は大きく顔を歪め、片手で顔を隠しながら手元のスマートフォンを操作する。何故か指先が震えているのが気になるが、大人しく待つことにした。
そしてずいぶんと時間をかけ入力した斎藤は、スマートフォンを何故か強く押し付けてそっぽを向いてしまった。
一体どうしたのか分からず、とにかくも端末に入力された文字を見て驚いた。
(一番、今まで聞いたことのないほど、きれいな音だった)
暗くなる画面と同時に顔を上げたが、まだ斎藤はこちらを見ない。
だから今度は呼ぶことにした。
「――?」
ちゃんと、斎藤と呼べただろうか。
斎藤はゆっくりと頭を動かし、こちらを向く。
その瞬間、妙に斎藤の目が光り瞬いていて、まるで水面の映った光のようだった。
じぃっと見てしまい、斎藤はすぐに不機嫌そうな顔を見せ、押し付けてきたスマートフォンを奪うように手に取り、素早く文字を入力する。
そして見せられた言葉につい、笑ってしまった。
(もったいない)
至極真面目な顔をして伝えてくる斎藤は、笑う自分に対して不思議そうに首をかしげる。
どうにか笑うのを堪えつつ、次は大きな池がある公園に行こうと提案してみた。雪解けとはいかないが、きっと水面の光は綺麗だと理由を伝えれば、斎藤は大きく頷いた。
水面の光は繊細な音だ。他の物音で消えてしまいそうだが、澄んだ音だ。きっと雪解けの音にたどり着けるはずだ。
斎藤は幼い子供みたいに忙しなく文字を入力して伝えてくれた。
きっと、斎藤の目は世界が音に満ちているのだ。だからこうして見たままの音を斎藤は素直に伝えてくれる。
だから音のない世界にいる自分に、こうも悩まずに美しい音の世界を教えてくれる。
君がいるから、音のない世界に音が満ちていくような感覚を覚えた。聞いたことがないというのに不思議なものだ。
君が、君がいてくれるから。世界がこんなに美しい音に満ちていることを知れた。
次に出かける時が楽しみで仕方がない。
一体どんな音が見えるのだろうか。
ああ、楽しみで仕方がないが、念のため絆創膏を用意していかなければ。斎藤は夢中になりすぎて時々転ぶのだ。
自分のスマートフォンを開き、さっそくカレンダーのアプリを開いて次のスケジュールの予定を確認した。
たとえ音がなくたって tamn @kuzira03
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