迷界葬書
@kuroyagio
第1話 記憶なき目覚め
——静寂。
目を閉じていてもわかる。
そこには、ただ息を潜めたような、凍てつく沈黙だけがあった。
耳を澄ます。遠くで微かに紙が擦れる音がする。
それはまるで、誰かが本のページをめくるような、かすかな囁きだった。
ふと、インクの匂いが鼻をくすぐった。
甘さを含んだ、どこか懐かしい香り。
静かに目を開ける。
視界に広がったのは、果てしなく続く書架の群れ。
どこまでも本が並び、天井は遥か彼方に霞んでいた。
薄暗い光が差し込む巨大な図書館。
——ここは……?
記憶を辿ろうとするが、思考が霧のようにまとまらない。
何かが欠けている。
何か、大切なものが。
そう——
記憶がない。
自分の名前すら、思い出せなかった。
喉がかすれたように乾いている。
息を吸っても、肺に十分な空気が入ってこないような、妙な息苦しさがあった。
と、突然。
誰かの視線を感じた。
弾かれるように顔を上げる。
本棚の隙間から、ひとりの少女がじっとこちらを見つめていた。
長い黒髪。
静かに揺れる白いワンピース。
淡く光る瞳。
その姿は、どこか儚げで——
どこか、見覚えがあった。
知っている。
この顔を、知っている気がする。
なのに——思い出せない。
霞がかかったように、彼女の名前だけが抜け落ちている。
沈黙。
長く、張り詰めた沈黙。
少女が、そっと唇を開いた。
声はまるで霧が晴れるように、静かに流れ込んできた。
「……あなたを、待ってる。」
彼女の瞳には、ほんのわずかに寂しさが滲んでいた。
「あなたを。」
繰り返された言葉が、まるで呪いのように胸に焼き付く。
次の瞬間——
彼女の姿は、まるで霧が晴れるように、ふっと掻き消えた。
手を伸ばす間もなく、そこにはもう誰もいない。
「……っ!」
胸の奥がひどくざわつく。
何かを呼び止めたかった。
何かを知っていた気がした。
けれど、喉の奥に引っかかった名前は、霞のように掴めないまま溶けていく。
——俺は誰だ?
呆然としたまま、周囲を見渡す。
一面に広がる本。
静寂。
圧倒的な書棚の壁。
ここは、どこなんだ?
わからない。
何も思い出せない。
頭の奥がぼんやりとして、まるで霧の中にいるようだった。
——ボトッ。
不意に、何かが落ちる音がした。
視線を向ける。
足元に、一冊の本が転がっていた。
それは黒ずんでいて、装飾もない簡素なものだった。
けれど——
表紙に記されたタイトルだけが、異様なほど鮮明だった。
『名もなき愚かな者』
手に取る。
指先で表紙をなぞると、ざらりとした感触が伝わる。
奇妙に、胸がざわついた。
ゆっくりと本を開く。
最初の数ページは、真っ白だった。
だが——
次のページには、何かが記されていた。
それは、まるで日記のようなものだった。
だが——
多くの部分が黒く滲み、誰かに意図的に塗りつぶされたように読めなかった。
それでも、かろうじて読み取れる文字を目で追う。
——◯日
俺は——を——して、——が——を殺した。
読めない。
だが、読めないはずの文字たちが、不思議なほどに心にざらりとした違和感を残していく。
手の震えを抑えながら、俺は次のページをめくった。
——その瞬間、視界が歪んだ。
紙に記された文字が、波紋のように揺らめく。
そして、それはただのインクではなく、まるで生きた映像のように形を変えていった。
「……っ!」
脳内に直接流れ込んでくるかのような、圧倒的な現実感。
それは、俺の知らないはずの風景だった。
夜の静寂に包まれた石畳の広場。
遠くには朽ちかけた塔がそびえ、冷たい風が吹き抜ける。
そして——
淡く光る月明かりの下。
俺のような男が、少女の腹に刃を突き立てていた。
「……ア、レ、ン……」
少女は震える声でそう呟いた。
血が溢れる。
彼女の瞳は、どこか悲しげに微笑んでいた。
「違う……!」
視界がぐらりと揺れる。
——ズブリッ。
生々しい音。
頭が割れそうだった。
「違う、違う、違う違う違う!!!!」
叫びが空間に吸い込まれる。
俺は——
俺は——何者なんだ?
意識が暗闇へと沈んでいく。
そして——
「アレン! 起きなさいよ!」
その声に——
俺は目を覚ました。
そこに立っていたのは——
彼女だった。
「……っ!」
理解が追いつく前に、全身に嫌悪と恐怖が走る。
目の前の少女。
彼女は——
俺が殺したはずの少女だった。
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