江嗄の21球

つむぎとおじさん

全1話

40年たった今でも、オレはあの一球を悔やんでいた。

プロ野球日本シリーズの最終戦。

0対1で迎えた9回裏、オレたち湘南レイブンズはノーアウト満塁の大チャンスを迎えていた。

リリーフでマウンドに立ったのは、江嗄鷹えじわたか。日本球界屈指の鉄腕クローザーだ。

彼はあっという間に二者を連続三振に切って取り、優勝まであと一人に迫った。


バッターボックスに立ったオレは、すでに気持ちで負けていた。

「打てる気がしない」

その思いが脳にこびりついていた。


かんたんにツーナッシングと追い込まれた。

次の一球をどう読むか。

江嗄の性格なら、ここで勝負を決めにくるはずだ。

おそらくインハイのストレート。

オレはヤマを張った。

──そして、そのヤマは当たった。

だが、体が動かなかった。


ボールはキャッチャーミットに吸い込まれ、審判の手が高々と上がる。

ゲームセット。


広海ファルコンズの選手たちがマウンドに駆け寄り、江嗄をもみくちゃにしている。

オレはただ茫然と立ち尽くしていた。


その年、オレは自由契約選手となり、ユニフォームを脱いだ。


「丸山さん、もう看板だよ」

肩を揺すられ、目を覚ます。

居酒屋の主人が呆れ顔で立っていた。


「ああ……マスター、じゃあ最後にもう一杯……」

「ツケがいくら溜まってると思ってんのさ」

テーブルに散らばる皿を乱暴に重ねる音が耳に刺さる。

「もう今日限り、うちには来ないでくれ」


薄暗い路地に放り出されたオレは、よたよたとボロアパートに向かった。

ドアの前に、見知らぬ男が立っていた。


「誰だ、あんた」

「丸山さんにお話があって来ました。死神です」


「……はあ? ケンカ売ってんのか」

「まあまあ、中で話しませんか」

男はにこやかにコンビニ袋を掲げてみせる。

透けた袋の中にははちきれんばかりに発泡酒とつまみが詰まっていた。


「丸山さん、あなた、あの一球を後悔していますね」

ごみ屋敷と化した六畳一間で、男と向き合う。

「そりゃあな」

オレは発泡酒をあおった。

「読みは当たってたんだ。振ってさえいれば……ライト線のヒット。いや、フェンス越えもあった」


「夜空に吸い込まれる白球。逆転サヨナラ満塁ホームラン!」

死神は愉快そうに手を打った。

「ヒーローインタビュー、年俸倍増、CM契約……」


「……うるせえよ」


「どうです? もう一度、あの舞台に立ってみませんか?」


「何言ってんだ」オレは苦笑する。「こんなジジイに何ができる」


「ご心配なく。心も体も40年前に戻して差し上げます。さあ、今度こそ仕留めてくださいよ。“一夜の過ち”ならまだしも、同じ過ちを二回なんてのは目も当てられませんからね、くっくっく」


「……打てるさ。あんな球、打てないはずがない……」

発泡酒の缶が床に転がり、意識が深い闇に沈んでいった。


目が覚めると、40年前に住んでいたマンションの寝室にいた。

鏡を覗くと、精悍な顔つきの青年が立っている。

力がみなぎっていた。


リビングに行くと、若い妻が微笑んだ。

「いよいよね」


テーブルにはバランスを考え抜いた朝食がならんでいる。

オレは妻を抱きしめた。


「ちょっと、試合前なのに……」

そう言われても下半身の収まりがつかない。

オレは妻を軽々と抱き上げると、そのまま寝室に引きずり込んだ。


試合はあの日と同じ展開をたどった。

0対1、9回裏、ノーアウト満塁。

ピッチャー交代。マウンドにむかう江嗄。


ツーアウト満塁、打席にはオレ。


1球目、外角ストレート。2球目、スローカーブ。追い込まれた。


「読めてる……インハイのストレートだ……」


江嗄が振りかぶる。


予想通り、内角をえぐるストレート。


──体が動いた。


渾身のフルスイング。

白球はライトポール際へ舞い上がる。


スタンドがどよめき、打球はポールの内側をかすめた……と思った瞬間、


線審の手が横に振られた。


「ファウル!」


ベンチから監督が飛び出す。

猛抗議も実らず、判定は覆らない。


マウンド上の江嗄が、不敵に笑った。


──何がくる?


全くわからなかった。


そして次の瞬間、また内角高めに白い球が襲いかかる。


体が凍りつく。


見逃し三振。


ゲームセット。

一斉にグラウンドに飛び出す広海ファルコンズの選手たち。

江嗄のからだが何度も宙に放り上げられる。


オレは40年前と同じ後悔にさいなまれていた。

そうなのだ。江嗄の、あいつの性格ならもういちど同じところにくるに決まってるだろ!

いつもこうだ。いつも終わってから気づく。

オレは江嗄との格の違いに打ちのめされていた──。


* * *


暗い地下街の隅に、オレはうずくまっていた。


「どしたい、スラッガー。また夢でも見てんのかい?」


ヤッさんが笑いながら声をかける。


「……ああ、夢だったのか」

目の前を忙しそうに行きかう勤め人たちの足をぼんやりと眺めながら、オレはつぶやいた。


そのとき、ヤッさんがかたわらに置いてあるコンビニ袋をもちあげた。


「そういやおめえが寝てるあいだに、変なヤロウが置いてったぜ。差し入れだとよ」


袋には発泡酒とつまみ、そして一冊の古本が入っていた。

本のタイトルは、


『江嗄の22球 ──運命を分けた幻のホームラン──』


オレは荒々しくプルタブをあけると、一気に発泡酒をあおった。


(終)

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江嗄の21球 つむぎとおじさん @totonon

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