第24話 幌宿到着
午後からの旅は早かった。
手すりは取り払われて元のままの屋根馬車に戻っていたので、垂れ布を引いてキクカは外の風景を眺めた。
すごい速度で流れる景色を、あきずに眺めた。
「あ、タカト。立派な建物よ。あれが仮茶屋かな」
タカトは眠っていた。大鳥の肩掛けとひざ掛けを掛けてやり、御子様を見ると、マリカが微笑んで頷いた。
「御子様もよくお眠りです」
マリカはずっと籐カゴに手を掛けている。
「交代しよう、マリカ。外はきれいよ」
「はい」
「マリカの表さんと子供たちも、帰りはみんな一緒ね」
「はい。でもフジカ様、ウメカ様、セミカ様の子様を里に置いて来られているのに、私一人だけ子供と一緒になるのは、申し訳ないですわね」
「マリカはずっと一人で頑張ってたじゃない。知らなかったの、ごめんね」
「とんでもない。道が良くなってから、夫が子供を連れて来ることになっておりましたから」
「そうよねえ。宿も茶屋もなくてガタガタ道じゃあ、子連れの旅は大変だわ。
一の臣様は屋根馬車の旅だから子供もどうぞ、と言ってくださったんだけど。セミカたちは迷惑をかけたらいけないからって、心配して預けてきたのよ」
「そうでしたか。こんなに良い旅なら、連れていらっしゃれば良かったですわね」
「そうだわ、折宮様も『御子と一緒の旅だ。馬車で快適だぞ』と招待してくださったんだ。本当に、眠くなるほど快適だわ」
「うー、おりみやさま?」
「タカト、起きたの」
「あー、うたたねしてた?」
「よく眠っていたよ。もう望山も八重連山も見えなくなった。風景がすっかり変わっているよ」
タカトとキクカはこんな遠くまで来たことはなかったし、マリカは無我夢中で谷丘の里へ来たので、まったく覚えていない。
三人とも、熱心に外の景色を眺めた。
やがて、御馬車は速度を落とし、止まった。
コンコンと戸が叩かれた。
「はい」
戸が引き開けられると、折宮様が待っておられた。
「どうだ、気分は」
「は、はい。とても素晴らしいです。景色も乗り心地も。ありがとうございます」
「馬車に強いのだな。明日はもっと速度を上げよう、爽快だぞ」
キクカ達が御馬車を降りると、折宮様は先に立って説明してくださった。
「今日の宿だ。幌宿と言う。神都から東の第三の宿となる。
第二、第一の宿を立てば、もう神都だ。近いであろう」
天幕の宿ではない。幌をかけた宿でもない。昼間に休憩を取った茶屋よりも一層大きな建物だから、お宿と言うのはわかるが。
何故、幌宿、なんていう名前なんだろう。
宿に入ると人が大勢いた。下人だとか中人だとかマリカが何か言っていたが、キクカたちの荷物を降ろして運び込み、部屋を整えてくれた。
キクカたちがまごまごしている内に座台を奨め、お茶を用意してくれる。
御子様の籐カゴが届けられると、中の一人が進み出て膝をついた。
「御挨拶が遅れました。選士ヤスカと申します。神都まで薬士ナベカと共に、お供いたします」
ヤスカはキクカの腕の中の御子に手を合わせ、一礼して顔を上げた。
「お食事は大広間にいたしましょうか」
どうしよう……、とキクカが迷う間もなく、マリカがはっきりと対応してくれた。
「続き間に用意してください。甘木様方は、仰々しいのはお嫌いです」
「はい、承知いたしました」
潮が引くように人がいなくなると、キクカはほっとした。
「マリカ、すごい。なんて言ったの? ギョウギョ、何だって?」
「仰々しい、大げさなことはお好きではないでしょう?」
「そうだよ、マリカ。助かったよ」
ストカが座台に腰かけた。
「おや、これはなかなか座り心地が良いよ」
「え、そうなの」
キクカもさっそく腰かけてみた。ふっくり沈む。
座台――長いのや、一人用のも試した。
ちょっと腰かける高い座台、深く腰を下ろす低い座台もある。みんなも各々座って、一息ついた。
甘木のみな全員、まるで示し合わせたかのように顔を見合わせて、笑った。
「遠くに来たなあ」
「三十里はあるんだと」
「大原村より遠いことはないだろう」
「道が良いからやっぱりあるんだよ」
お茶を飲みながら部屋を見回すと、格子窓には水樹板がはめ込まれており、まだ薄明るい。
壁の炉は大きかった。火も入っていた。炭もあったが、タカトは薪をくべた――何の木だろうか、くすぶりもせず火は移って燃えた。
ストカは立ち上がって、上着を脱いだ。
「若草の上着は、さあ、みんな着替えとこう。脱いだ、脱いだ」
「はい、手入れいたします」
「畳むくらいできるよ」
「荷の中に押し込んだら、シワになります。神都に入るまで着ないのですから、掛けときましょう」
マリカは若草の上着を畳みもせずに、皆から集めた。
「選士ヤスカと打ち合わせて参ります。お楽になさっててください」
十二着の上着をマリカは器用に左肩から左腕に掛けて、残りを右腕に掛けるように持って出て行った。
「御子様は雀の籐カゴがお好きでしたね」
「いや、キクカ。ちょっと待て。御子様の肌布団を温めてからだ」
「肌敷も暖めよう」
クミカとストカが籐カゴから薄い内布団を引っ張り出して、炉の前で広げた。座台に座って膝にかけると、ほこほこと暖かい。
「薄い布団なのに暖かい」
「暖かいのに軽い」
二人はひっくり返して、また膝に掛けた。
キクカは腕の中でもぞもぞ動き始めた御子様を見つめた。
――美しい御子様。はい、わかっていますよ。もうそろそろですね。
「くちゅ、まむまむ」
「はい、はい」
キクカは先ほどタカトが用意した窓際の座台に腰を下ろした。背もたれのある一人用のゆったりした座台だ。
窓に天井から掛かっている垂れ布は、真ん中あたりを紐でくくってある。フジカがいくつか解いて広げてくれた。
薄地の絹は、外の緑がぼんやり見える。厚地の布を広げると暗くなったので、フジカはもう一度くくった。
タカトとブルトが入口の戸の手前にある衝立を動かして、キクカの座台の後ろに置いてくれた。
「御子様、お宿に着きました。幌宿と言うんですって」
キクカは授乳しながら、御子様に語りかけた。
「早川大橋は美しかったですね」
「むう」
御子様の様子が少しおかしい。半分寝たままで、途中でまた眠ってしまわれた。お昼もそうだったのを思い出して、キクカは少し心配になった。
マリカは戻ってきていて、選士ヤスカが移されてなくなった入口の衝立を新しく運ばせていた。
「薬士ナベカと相談したいの」
「はい、ナベカでございます」
気がつかなかった。衝立を置いているのはナベカだった。
「えっ、薬士様が衝立を運んだの」
「はい、薬士は何でもいたします」
「衝立は入口のところに要るものだったのね。ごめんなさい、動かしてしまって」
「宜しいのです。良いようにお使いになってください。
ところで、御用は何でしょう」
「そうなの、御子様がいつもと少し様子が違うの。特にどうってことではないのだけれど」
むずかったり、お顔の色が悪いということでもない。
薬士ナベカは手を合わせて拝んでから、御子様を診た。寝息は健やかで、時々頬や口元に笑みが浮かぶ。
「良い夢を……、御覧になっておられるのでしょうか」
ナベカも自然と頬を緩ませている。
けれど、キクカは落ち着かない。
「この頃は、御子様は起きられたらお話をされたり、歌を歌われたり……、あのう、そんな気がするの。
でもお宿に着いても、うとうとおなさってて、今日一日そういえば半分眠っておられるようだった」
「まどろんでおられるような?」
「そうなの。御子様は泣きわめいたりなさらないから、気が付くのが遅れて……」
「いえ、御心配及びません。一種の馬車酔いのようなものです。気分が悪くなったりするのではなく、ぼんやりと眠気がくるのだそうです」
「明日もまた馬車よ、大丈夫?」
「はい。幼い宮様の馬車酔いのことは聞いております。ほとんどの宮様は、馬車にお乗りになると眠ってしまわれるそうです。
あの……本来、お迎えに奥臣様が来られるところですが、折宮様が大君様の大任を受けておられ、一の臣様も来ておられます。谷丘の里の御子様の御血筋の方々も、折宮様が御招待なさっており、同道しておられる。
ですので、奥臣様は神宮でお待ちいたしますと控えられ、代わりに私が参りました。
力不足ですが、精一杯努めます」
「まあ、よろしくお願いします。薬士ナベカ」
「実のところ、街道や宿と同様に奥殿も大改装いたしましたので、奥臣様も手が離せないのでございます」
「御子様の住まわれるところを奥殿というのね」
「はい、黒髪の宮様方が七才の儀を迎えられるまで、住まわれるのが奥殿です」
「そして奥殿の臣の方が奥臣様なのね。奥殿の大改装って?」
「はい、それはもう本格的な改装です。奥殿に宮様が御一方もおられず、毎日むなしく務めておりましたのです。
この度は改装だけでは済まず、増築もしておりました」
「奥殿に宮様がおられない?」
「はい。ただ今、奥殿は谷丘の里の御子様のために整えられております。
大君様は、山を幾つか贈られました」
「山?」
「はい、あの、人の背丈ほどの小さな山です。庭もずい分広くなりました」
よくわからないが、とキクカは思った。
――神宮には大君様が政務をとられる北殿の他に、幼い宮様が住まわれる奥殿があるのだ。きっと、神宮の奥深くにあるのだろう。
キクカたちは薬士ナベカに勧められて、お風呂に入ってから食事をした。
マリカや選士ヤスカが配慮してくれたのだろう、着替えを手伝う者はおらず、キクカたちはのんびりと湯につかり、続き間でゆっくり食事を楽しんだ。
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