五章 お迎え

第22話 三月一日 出発

 キクカはぼんやり目を覚ました。


「くちゅ、まむまむ」


 声が聞こえた。


「ばうばう、あー」


 御子様だ。なんで目が覚めたのか分かった。

 キクカは素早く丹前を引っかけて、御子様を抱いた。

「はいはい」


 多少の騒ぎがあっても熟睡して起きないキクカは、タカトやコセトによく笑われたものだ。今でもそうだ。キクカ、と大声で呼ばれれば起きると思う。御子様がお眠りの時はあまり大声を出せないので、揺り動かして起こしてもらう。

 けれど、御子様だけは別だ。「くしゅ」とか、何か「もごもご」とか、感じただけで目が覚める。


「おっきですか」

 御子様は口をもぐもぐ、唇にあたっていた布を探しておられる。

「はいはい、お乳ですか」



 今日は三月一日、神宮のお迎えの日だ。

 折宮様が来られる。

 昨日は朝早くから先触れが来て、荷馬車二台の荷を下ろしていき、それから次から次へと幌馬車が続いた。


 荷馬車は二重の幌をかけてあり、当分、倉庫代わりに仕えると、一の臣様が言われたそうだ。

 キクカも昼頃見に行ったが、社の外に馬を外して車止めをかませて止めてある幌車は、十数台、整然と並んでいて壮観だった。

 すぐに次の幌馬車が来たので、邪魔にならないように逃げて来た。


 代行様は、いつもと順序が少し違うが、と笑って言われた。

「三月一日早朝に、折宮様は谷丘の里を出立されるおつもりだ」


 コセトも昨日のうちに来た。

 トラトたちもフジカたちも、今日は全員来るはずだ。


 ああ、御子様はもうお眠りになっている。夜明けは近い。冷えた布団より、このまま抱いていようとキクカは思った。

 この頃は、目を閉じておられても感謝の祈りを捧げたくなるほど、お美しくなられた。

 神の御子なのだ。折宮様とお会いして、確信した。

 御子様は、折宮様の妹宮なのだ。肩にかかって腰近くまで流れる黒髪の折宮様はお優しかった。


「御子よ、御子」


 それは真摯な眼差しで、御子様に語り掛かけておられた。

 お返ししなければならない。たとえお乳がたっぷりとあっても、お育てするわけにはいかない。お返ししなければならない。


「黒髪の方は、人の世の理の外におられる方」


 そう、マリカは言っていた。キクカも、まっすぐにそう感じる。

 御子様の、まだ短い髪が肩にかかるほどに伸びて、左右にはねている様子が目に浮かんだ。さらに成長して、折宮様のような射干玉の髪が腰まで届いて……。


「おはよう、キクカ」

 タカトが目覚め、一日が始まった。




 食事も早々に、キクカは集まってきたクミカやフジカたちと着替えた。タカトやトラトは、そのまま社の広間で着替えている。

 マリカはきりりとした出で立ちで、セミカの上着を着せかけ、ウメカの衿を直し、一人一人に目を細めてにっこり微笑んでいる。


 ――マリカは選士様なんだ。


 慣れてマリカと呼ぶようになったが、やっぱり立派だなあ、と心の中で思う。


「表様方も着替えられた頃でしょう。広間へ参りましょうか」


 キクカたちは互いに褒め合いながら行った。

 選士たちは八名全員そろっていた。代行様が御子様を抱いておられる。


「おはようございます」

「キクカ殿、おはよう。ほう、よくお似合いだ」

「おはようございます」

「やあ、おはよう、おはよう」


 代行様はみんなに頷き、選士たちはそろって黙礼した。

 タカトたちがまだ来ていない。どうしたのだろう。


「タカトの上着、ちゃんとわかっているよね。まさか取り違えたりしてないよね」

「はい、見て参ります」

「わたしも行くよ。ニワトも忘れてしまっているんだ。きっとそうだ」


 マリカとウメカが小走りに広間を横切り、戸を開けると、向こうからトラト、ジルトが来るのが見えた。その後ろに、タカトが若草の上着をぱりっと着て続く。ニワトたちもいる。

 全員そろって、改めて朝の挨拶をした。


「タカト、遅かったじゃないか。でもよく似合っているよ。そんな格好してたら、本物の正位の方みたいに見えるよ」

「キクカはもっと似合っているよ。特別きれいだ」


 クミカはジルトと、ニワトもウメカの横にと、みんな落ち着いた。

 コセトは代行様の腕の中の御子様を手を合わせて拝み、代行様も御子様に目を移し、黙礼された。


「御子様、別れの挨拶は広重、いたしません」

 さて、と代行様は晴れやかに顔を上げられた。


「先触れはまだだが、折宮様のことだ。ほとんど同時であろう」


 代行様はゆっくり立ち上がり、廊下に出られた。キクカたちもぞろぞろとついて行く。

 選士たちはぱっと散って、代行様は玄関も出られた。


「御子様は、この谷丘の里でお生まれになったのです。向こうに見えます社の産屋で……。

 おお、参りましたようです。御子様、お迎えでございます」



 本当に折宮様は、先触れが口上を述べ終わる間もなく、姿を見せられた。


「御子よ、東の里の御子、谷丘の里の御子よ。今日は御子の日だ」


 折宮様は身をかがめて御子様を覗き込み、おくるみから突き出た手に指を絡ませた。

 折宮だ、覚えているか、と話しかけておられる。


「あーう、あーう」


 御子様が答えておられるように、キクカは思った。

 二頭立ての立派な屋根馬車を、一の臣様が四台も率いて来られた。


「おはよう、キクカ殿、タカト殿。さ、乗られよ」


 すぐ踏み台が置かれ、キクカとタカト、次にクミカとジルト、フジカたち四人、トラトたち四人、各々四台に分乗した。

 マリカは一緒に来てくれると言った。恐る恐る頼んだのだ。タカトもストカも熱心に頼んでいた。


「はい、喜んで」


 マリカは顔をしゃんと上げ、約束してくれた。けれど、先ほどから姿が見えない。

 キクカは馬車から顔を出して、探した。後ろの幌馬車の所に立っている。ほっとして、手を振った。


「マリカ、ここよ」

「はい」


 マリカはすぐ飛んできてくれた。

「マリカも一緒よ。ほら、広いもの」


 キクカは席を空けた。四人乗っても十分な御馬車なのに、たった二人では勿体ない。


「いえ、私は屋根馬車には乗れません」

「えっ、一緒じゃないの」

「屋根馬車にすぐ続く幌馬車で、御一緒いたします」


 マリカは身を縮め、あたふたと一の臣様と代行様の方を振り返った。キクカも、何がいけなかったのだろうと、マリカの視線を追った。

 折宮様が御子様を抱いて来られた。


「マリカ」


 折宮様は光り輝いておられる。毛皮の外掛けの衿元には、貴色がのぞく。ちりりん、りんと、心から笑っているような鈴の音が聞こえてくる。

 折宮様だ、笑っておられる。

 いや、折宮様はぎこちなくマリカに御子様を渡された。


「出発だ」


 りん、りん、りんと鈴の音が響き渡ったような気がした。

 キクカはマリカを助けて、御馬車に座らせた。しっかり者のマリカの顔色が少し青い。


「気分悪い?」

「いえ、屋根馬車に乗りましたもので……」

「大丈夫。乗り心地は悪くないって、代行様に聞いたよ」


 代行様は乗ったことがある、心配いらないと言われた。荷馬車に乗って遠方に行ったこともない者ばかりなので、ストカが心配して代行様に聞いたのだ。

 神都で代行様が足を挫いた時、会議に遅れる連絡をしたら、神宮から屋根馬車で迎えがあって……と苦笑交じりに言われた。


「乗り心地は、悪くない」


 その代行様に見送られ、御馬車はゆるりと動き出した。社のみんなも手を振っている。

 突然、先の方で大歓声が沸き起こった。先導を追い越して、折宮様が沿道に集まって来た人々に、片手を上げて応えておられるのだ。

 左に、馬首を返して右に。馬も飛び跳ねている。

 両手を握って見送る里人の中を、屋根馬車は行く。


「神都も神宮も大門も、いっぱい見てくるからね」


 キクカも大きく手を振った。タカトも小さく耳のへんで手を振っている。

 しばらくしてするっと、遠慮がちにするするっと、外から戸がぴたっと閉められた。


「御子様」

 マリカはしっかり御子様を抱いている。

「折宮様、大君様」

 マリカは一生懸命、祈っている。

「恐れ多いことでございます。キクカ様のお供をして、屋根馬車に乗っております。精一杯、御子様の安全に努めます」


「そうそう、御子様の旅の寝台、ええっと、籐カゴがあるって範士様から聞いたよ」

「これじゃないか」


 タカトが黄色の被いを外すと、木枠にかっちり固定された籐カゴが出て来た。可愛らしい小鳥が何羽も飛んでいる布で、内張りされている。布団には、声だと止まっている小鳥が刺繍されている。


「まあ、御子様。雀がいっぱいですよ」


 御子様は籐カゴに移ると、きゃっ、きゃっと喜んでおられたが、すぐに寝入ってしまわれた。


「ぼくも眠くなってきたよ。昨日は荷造りだったし、その前もばたばただったし……本当に、御馬車に乗っているんだなあ。出発したんだなあ」

「タカトはぎりぎりまで仕事していたもの。でも、わたしも眠くなるよ。この御馬車は気持ちが良いんだ。揺れがちょうど良くて」


 大きい枕のようなものや、丸い座布団のようなものは、腰当や背中に当てるものだという。キクカはふかふかしている一つを抱き上げて、顎を乗せた。

 薄手や厚手の肩掛けやひざ掛けは、大鳥が二羽、立派な翼を広げている。他の図柄もある。


「これは旅鳥だ」

 空高くきれいに並んで飛んでいる。


「見て、見て、鳥の巣だ」

 巣の中には、本当に小さなひなが五羽いる。


「ピーピー鳴いてる声が聞こえてくるようだ。本物の刺繍ってすごい」

「こんなに精緻なお品を手に取って見たことはございません」


 キクカたちは一枚ずつ丁寧に畳んで隅の方に片付けた。それでなくとも、座布団は藍色の蔦模様の美しいものだったし、敷物は若草を敷いているように柔らかなのだ。

 御馬車の揺れは眠気を誘うが、みな好奇心の方が勝った。


「外も見なくては」

「雪柳の里へは行くけど、早川の方へは行ったことないもんな。早川に折宮様が吊り橋を架けられたんだって」


「マリカは渡ったのよね」

「はい。けれども谷丘の里の中では、従士マキトとミギトが一番に渡りました。私は次の日でした」


「この引き戸を開けて、外を見ても良い?」

「あ、はい。窓がございます。垂れ布を引き、開けましょう。前がよろしいですか、横もございます」


 壁掛けがびっしり掛けられている御馬車の中で、前後に一か所ずつ、横には二か所ずつ、垂れ布が掛けられている。明るい所だ。

 キクカは近くの垂れ布を引いた。


 幅三寸ほどの六角形の穴がいくつも集まって丸く開いていると思ったが、それは穴ではなかった。透明だけれども、指でさわると冷たい。

 水樹から切り出した水樹板だとマリカが教えてくれた。

 キクカはその木を知らない。水樹ってどんな木だろう。枝も透明なのだろうか。薄緑の葉をつけるのだろうか。


 水樹板越しに、一の臣様が見えた。少し先を堂々と馬に乗り、進んでおられる。もう里道は終わる。

 キクカは前方の窓の垂れ布を引いた。

 今度は、遠くに折宮様が見えた。

 もう毛皮は脱いでおられる。貴色の上着にたばねた黒髪が揺れている。

 折宮様は気軽に招待してくださり、御馬車を四台も用意してくださった。


「タカト、神都見物しよう」

「うん、大門はしっかり見よう」


 キクカの心も谷丘の里を出発し、神都を想った。

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