第20話 お仕えする、ということ、再び

 お部屋では、キクカ様が御子様を抱いておられた。

 軽くトントンと背中をたたいて歌うように……いや、歌っておられた。


「もうお腹はいっぱいですか、もうお腹は落ち着きましたか。もう横になりますか」

「あーう、あーう」


 御子様も合わせて歌っておられる。

 キクカ様は立ち上がり、御子様の首に手を添えて、ゆっくりと部屋を歩かれた。


「しばらく、おっきですか。しばらく、おっきですか」

「あーう、あーう」



 御子様がお眠りになり、替えた肌着やおむつを片付けながら、マリカは生涯忘れられない、と思った。

 御子様と御子様をお抱きになったキクカ様のお姿は、周りから切り離され、数枚の絵となって、それぞれに額縁がつき――色鮮やかに、マリカの心に残った。


 キクカ様は両手を天井に広げて、大きくうーんと伸びをしておられる。

「何かお飲み物をお持ちしましょう」

 マリカは香茶と御菓子を用意した。


「ねえ、マリカ。わたし月明けしたら、お乳がすぐ出なくなるって本当?」

「はい、すぐというわけではありませんが。まだまだ月明け過ぎましても大丈夫でございますが、その頃からだんだんと出なくなると聞いてます。

 二月も授乳できません」


「まあ、本当なのね。そしたらどうするの?」

「子を産んだ者、まだ乳の出る者を乳母といたしましたり、豆乳や牛乳でお育てするそうです。私もよくは存じません。

 白を産んだ者はもっと早く乳が干上がります。ですから、早く神都へ連れて行かねばなりません。生死に関わる特殊な薬草も要ると聞きます」


「あぁ、白が生まれたら、すぐ神都に差し出す決まりって、そういうことだったのね。黒髪の御子様が生まれたら、神都へお返しするのも……そうだったの」


「白と一緒にいたしますのは……そのう、不敬でございますが、白や、黒髪の御子様をお産みになられた方は、すぐ乳が止まり、体は元に戻り、まるでその出産がなかったかのように、次の子を授かります。

 黒髪の宮様方は人の世の理の外におられる方。ですが、白もやはり何か、理の外にいる者……のように思います。黒髪の宮様は、口のきけぬ白たちと親しく接しておられます」


「そうなの。ありがとう、マリカ。ずいぶん分かったわ。ずっと前に『お迎えが遅れましても、黒髪の御子様の場合お乳の出は月明けても、そう御心配要りません』って、薬士様から聞いて、わたし意味がわからなくて気になっていたの。

 マリカに聞こうと思って、でも毎日聞くのを忘れて。今日はいっぱいわかったわ」


 クミカ様もフム、フムと頷いておられる。


「そうなのか。そうだったのか。この辺りで白が生まれたこともない。知らなかったよ」


 そして、世の中なにが起こるかわからないと呟いて、キクカ様に上着の話をされた。

 若草の上着を着て折宮様をお待ちすること、新調した上着で旅行すること、神都に入る時は若草の上着をちゃんと着ること……。


「神都見物ができるって単に喜んでいるだけじゃあ、いけなかったみたいだ。なんだか大変なことになっている」


「神都見物はよろしいですわ。毎日何人もの人が『一生に一度は』と言って、見物に来ます。そして、神宮の大門を拝んで帰るのです。

 いいえ、大門からお姿は見えませんが、大君様を拝むのです」


「神宮の大門か、どんな立派な御門だろう、やっぱり一生に一度は拝みたいよ」


「皆さまは招待されているのです。大門を通って北殿の……いえ、私は北殿の中はよく知りませんが……きっとお客間に……」


「神宮には北殿があるの?」


「はい。大君様が政務をとられる所が北殿です。それはもう荘厳で、それこそ一度御覧にならねば」




 マリカは一人で夕食を取り――この頃代行様も選士たちも帰りが遅い――代行様を待った。

 間もなく従士ミギトを従えて帰られた代行様に、甘木様方の若草色の反物が手つかずであったこと、今日から広間で絹の上着を縫い始めたこと、絹の反物を二十反、裏絹は二十六反、蔵から出したこと、十三着仕上がったら若草の上着に取り掛かること、その経緯を報告した。


「キクカ殿は上着のことを悩んでいたのか。気がつかなかった、うかつであったな」

「蔵には絹の反物が少なくて、残りは三反になりました」


「そうか、しかし裏地の方は二十六反あったのだな」

「はい。上着や内着を一重で仕立てて、裏地がその分余ってきておりましたのでしょう。助かりました」




 翌日は、朝から来られたフジカ様の方が詳しかった。


「広間に二十何人も集まって、スズカもよ、裏地を縫っているよ。『ほかにする仕事があるだろう』って、わたし追い出されてしまった。

 いいわよ。わたし、洗濯でも掃除でもするわよ。さあ、まずはお布団から干すわ」


 フジカ様もウメカ様も、それこそ下女の仕事を頓着なくこなされる。初めはうろたえたが、キクカ様は里の風習なのだと笑っておられる。

 子を産み社にいる間は、ゆっくり過ごすのだと。親、兄弟姉妹、近所の者が社務めする形で、面倒を見るのだという。


「フジカやウメカの時は、わたしも毎日社に洗濯に通ったの」

「そうでございましたか。この里では、社は生活の一部なのでございますね」


 ――里の風習をもっとよく観察しなければ。


 マリカは努めを思う。


 ――キクカ様、甘木様方がどのように感じ、どのようにお考えになるのか、しっかり見て、どこまでもついて行かねば。


 ――代行様は、神宮で大君様に仕えておられたと聞く。けれどこの里では少しも格式ばらずに、里の習慣、風習を大切になさっておられる。


 ――範士は、この里は特殊なのだ、と言っていた。


 ――初めて里に着いた日に、『仕える』ということを代行様からお聞きした。『信頼を得るのだ』と言われた。


「はい」


「え、なに?」

「私、少し広間の方を見てまいります」

「そうよ、ちょっと見てきたら、すごい迫力よ。お針会なんて、いっつものんびりおしゃべり会なのに、今日は雰囲気が違うのよ」



 広間には神宮の縫手の中人たちが集まっているのかと一瞬錯覚するほど、みな並々ならぬ気迫で縫物と取り組んでいた。

 エスカが今日もいる。マリカを見ると飛んできて、得意気だ。


「はかどっとります。思っていたより、ずっと。明日には全部仕上がります」

「あと十三着、若草の上着が必要です」


「はい、若草色の反物と聞いとりました。ぜひそれも縫わせてください」

「段取りを頼みますよ」




 午後から今日はストカ様が来られた。

「広間を見て来たよ」

 ため息をついておられる。


「わたしは縫物は苦手でね」

 クミカ様と同じことを言われる。

「本当に、招待をお受けして良かったのかね。タカトやブルト、いやわたしが不調法なことをしでかしはしないか、心配になってきたよ」


「代行様はお優しい方だ。折宮様はそれ以上に美しくてやさしい絵姿のままのお方だ。マリカもやさしい。大君様のお住まいの神宮で、そんな心配事は要らないわ」

「はいはい、そうだろうとも。

 若い者は怖いもの知らずだ。みんな神都行く気だ。大門拝む気でいる」


「大門は門と言いましても、大きな屋根の乗った、それは立派な御門です」

「門に屋根があるんですって」


「キクカ、大門のことはわかった。

 キクカ、それより先に考えることがあるだろう。どうだ、マリカ。馬車の旅って、特に用意する物ってないのかい」


「ここへ来ます時に街道を整えておりました。宿も茶屋も建設中で、それでお迎えを遅らせ、三月一日といたしましたのでしょう。ですから、特に何も要らないと思います。

 あっ、そうです、若草色の反物を教えてくださいませ」


「えっ……マリカも見たろう」

「はい、どの反物がどなた様のか、まだお聞きしておりません」

「えっ、どの反物がって……」

「誰の……、誰のって」

「そんな……見てただけよ」

「考えてもみなかったなあ。あの反物で上着を縫うんだ……そうだった……」


「まだお決めでなかったら、ストカ様、見立てていただけますか。私も昨日拝見しました。これはキクカ様、これはセミカ様、と思った反物がございました」


 マリカはストカ様と一緒に、広間へ行くことになった。

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