第14話 折宮
折宮は目の前の二騎の背中を睨みつけた。神都を立ってからずっと先頭を走ってきたのに、今は先導されている。隣を見ると、一の臣がゆっくり馬を進めている。
折宮は大君のお祝いの品を積んだ屋根馬車を、何とか里道まで引っ張り上げて、即刻、谷丘の里に向かおうとしたが、二の臣に止められたのだ。天幕を張っていた三の臣までも、慌てて駆け付けて止めたのだ。
「折宮様は大君様の御使者でございます。形というものがございます」
一の臣は衣服を改めていた。
「お伴いたします」
頑固な一の臣は従士二名を先導させ、屋根馬車は従士アレトに手綱を引かせ、後衛に二名をつけた。
折宮は、だから亀のようにのろいのだ、と思ったが、数日ぶりに落ち着いてみる風景は美しかった。
早川を渡ったことはなかったが、北の八重連山、南の望山は親しい山だった。
折宮は神都から東へ東へと進み、早川の手前で何度ため息をつき、東の里を眺めただろう。ここ数年は正式に大君に認めていただき、東の街道を整備している。
――東の街道は、宮の庭だ。
折宮は春から秋にかけては、何度も野宿もした。白と街道を走り回って、水場も見つけた。
良い道になるはずだ。いや、良い道にするのだ。
このような時に、谷丘の里に御子誕生とは、まさに宮に御子を下されたのか、と思うではないか。
谷丘の里に入り、社への道を進むと、道の両側に里人が並んでいる。
「大君様の御使者、折宮様である」
先導の従士の声が大きく響き渡る。
里人たちは折宮様を眩しく見上げ、両手を合わせて頭を下げていく。
一行が通り過ぎると、はあ、とも、ほう、ともつかないため息がもれ、絵姿から抜けて来られた、と感嘆の声となっていった。
続く御馬車は、黒塗りの美しい屋根を乗せ、小さな御社が進んでいるようであった。
格調高く一行は社に着いたが、広重の出迎えを受けると折宮は、腕の一振りで形式を追い払ってしまった。
「広重、久しいな」
広重が御挨拶しようとする、一の臣が口上を述べようとする、その間も与えず聞いた。
「広重、御子は」
若い折宮の声は、期待に満ちている。
「はい、こちらでございます」
御簾は巻き上げられていた。
御子は眠っている。
折宮は若草色の布団の横にそっと座った。まだまだ月明け前の御子である。顔を近づけ、両手で頬を包むと、本当に小さく愛らしい。
「宮は折宮と言う。御子は……」
フム、と途中で言葉を途切れさせ、折宮は身を起こした。
「大君から御子の名前を聞いて来るのを忘れた。一の臣は聞いてないか」
「はあ……」
一の臣は額に手をやり、思い出そうとしたが、聞いてないようだった。
広重がマキトたちに聞いた。
「大君様は御子誕生の知らせが入ると、いつも即刻、その場で御名付けになる。何か聞いていないか」
マキトたちも額に手をやり、記憶を掘り起こしたが、お知らせの時はただ茫としていたことを思い出しただけだった。
「御子よ、すまん。名を呼んでやることができん。けれど、今、御子といえばそなた一人だ。神宮に帰ったら、大君に聞こう。
許せよ、御子」
折宮は静かに立ち上がり、御簾を下ろすよう命じた。御簾が下がり切ってしまうまで見守って、それから折宮は振り返った。
「広重、場を変えよ」
「はい、広間にお席を設けております」
席に着くと折宮は、先ほどの後衛の従士二名を呼んだ。
「はい」
二名はその場で膝立ち、片手をついて折宮を見上げた。
「大君に、よく眠っている御子と会うた、と伝えよ。二月十二日、谷丘の里にて、折宮」
「はい、直ちに」
さっと二名は一礼して出て行った。
広重と一の臣の視線が、その背を追った。
「これで大君様もご安心なさることだろう」
「大君様は、折宮様のことも心配なさっておられた。どれほどご安堵なさるか」
折宮も頷く。
「少しは落ち着かれるだろう」
この七年間、待ち望まれた御子誕生である。
折宮の弟宮、妹宮はそれぞれ三才違いで十六才、十三才、十才、七才と四人続く。そして、その一番下の妹宮が三才の儀を済ませ、五才の儀を済ませ、七才の儀を済ませても、新しい宮が誕生しなかった。
大君は泰然としておられた。
「こういう時もある」
しかし、折宮は幼い頃から三年ごとに下宮が生まれるのだと思い込んでいたのだ。焦燥感は強かった。
折宮は眠っていた小さな御子を思い浮かべた。
――なんと希望に満ちた存在だろう。それも、神都近くではなく、遠い東の里の新しい血筋だ。昔のことだが、この先の大原村にも御子が誕生している。もう二度とこの東の絆を失ってはならぬ。
折宮は立ち上がり、両手を前に軽く広げた。
ゆっくりとした所作であったが、その立ち姿は一瞬で皆を魅縛した。
社主と長老たち、キクカたち、選士たちは目の前で火花が散ったような気がした。光がすべて立ち姿に降り注ぎ、眩しく輝く。
黒髪の方々を見慣れている広重と一の臣さえも、目を奪われた。
「目出度きかな。谷丘の里に祝福を」
折宮の透き通った声は皆の体の中に染み透って胸の琴線を一つ鳴らした。
「一の臣」
折宮は静かな声で一の臣に頷き、ふわりと座った。
一の臣は用意してあった三つの包みを開けた。
一つは小さい白木の永細い箱で、中には反物が二反入っているだけであったが、広重は大喜びで飛びついて、一反ずつ広げた。
複雑な綾模様の、山吹色とぼかしの黄の布地である。広重が、御子に用意できなかったものだ。
お迎えの時には神宮から一式用意されてくるであろうが……お迎えは遅くなる。谷丘の里で、せめておくるみだけでも貴色をまとっていただきたい、半反でも端布でもよい、と思っていたところである。
「有難うございます」
一番喜んでいるのが広重であるのを、一の臣は笑って頷き、次の大包みの二箱を開けた。若草色の反物が、十反ずつ入っている。
「これは御血筋の方々に」
広重は貴反を白木の箱に納め、改めて折宮様に正位を得た甘木キクカから順に、一人一人紹介した。
タカトとキクカの兄弟姉妹とその配偶者まで、甘木姓を名乗ることができる。十三名である。
「有難うございます」
声の出ないタカトたちに代わって、これも広重が受け取った。
「谷丘の里には……」
一の臣は続けようとしたが、言い淀んでいる風だった。ほとんどの場合、大君様のお祝いの使者は、荷馬車、幌馬車を連ねて来る。御血筋の方々に、反物だけというのも申し訳ない風である。
「広重、今日のところ宮は……どうも打ち合わせの仮使者だな。十分なことができぬ。後日、正式に来る」
「いいえ、折宮様。従士マキト、ミギトが神都から四日で帰り着いたことが、谷丘の里にとって一番のお祝いでございます」
「フム、馬で飛ばせばな」
しかし、御子はまだ小さい。一日二日の旅ではない。馬車の通る道を整備せねばならない。途中の休憩所や宿もだ。
折宮は頭の中でざっと工事の進み具合を計算した。
「三月一日に迎えに来る。遅れてすまぬが、それまで御子を頼む。それから……フム……遅れついでだ」
折宮は埋め合わせを思いついた。
「三月一日となれば、キクカも旅行できるであろう? 御子と一緒の旅だ、馬車で快適だぞ。
甘木姓、皆を神宮へ招待したい。この際、神都見物でもどうだ。広重は難しいか? しかし、神宮は久しぶりであろう」
甘木たちはびっくりして顔を見合わせた。思いもかけないことである。
広重は皆に招待を受けるように奨め、自分自身はまたの折に、と言った。
コセトも老齢を理由に辞退した。
「甘柑の収穫の時期と重なるな」
折宮は甘木の姓の由来を得心して言った。折宮も東の便りの甘柑を、毎年楽しみにしている。
さて、招待を一月ずらすか、と考えている折宮に、コセトの必死の視線を受けて、広重が代弁した。
「甘柑の収穫に慣れた里人は多く、コセト殿の指示があれば十分でございます。今は雪柳、荒川の応援も多数おります。なんら問題はありません。
折宮様の御招待、神子様と一緒の旅とは……これはこれは、御血筋の者にとっては一生の誉れでございます。有難うございます」
折宮は、これで良いのか? とコセトの顔を覗き込み、それから他の甘木たちを見回した。……一人欠けている、キクカがいない。
どうした? と目で問われて、タカトはうろたえた。
「あの、範士様が、呼びにこられて……席を外しました」
何とか答えると、広重の方が満面の笑みを浮かべて得意気に言った。
「折宮様、起きている神子様にもお会いになれます」
迎えに行くまでもなくキクカが御子を抱いて来ると折宮は大喜びで、けれど少し不安そうに小さな御子を抱いた。
折宮の腕の中で御子は口を開けて、はふっとあくびをして、もみじの手を開いて、閉じた。
見ていると頬がゆるんでくる。
「御子よ、良いな、東の里の御子。折宮は神都神宮生まれなのだ。縁(えにし)の地を他に持たぬ。
町や村生まれの宮はいるが、御子は里生まれだ。自慢できるぞ。それに、今の宮の中では、神都から一番遠い生まれだ」
折宮は御子がにこっと笑ったような気がした。名を呼びたくなる。名がわからぬとは残念なことだ。
代わりに、相談を持ちかけた。
「宮にも里を分けてくれぬか。良いであろう? 良し、では谷丘の里は、折宮にとっても縁の地だ」
折宮は広重を見、周りの人々に頷き、誇らしげに言った。
「御子と同じく、谷丘の里は折宮の縁の地である」
生まれた村や町を気がけたり、話題にしたりする宮たちが、折宮にはうらやましかったのだ。
「では広重、万全の用意を整え、三月一日、迎えに来る」
早速立とうとする折宮は、広重と一の臣に引き留められ、簡単な夕食会に出た。けれど心はもう街道に飛んでいる。大事な荷をくくりつけ、悪路をものとせず馬で駆け抜ければ良いというわけではないのだ。
「フム……」
工士や工人はもう追い着いているであろうか、明日になろうか……。
種々思案している折宮の横で、広重と一の臣が情報交換している。御血筋の者たちは神都の話で盛り上がっている。マキトとミギトは他の谷丘の里の選士たちに取り巻かれている。
屋根馬車を引いてきた従士アレトが割ってきた。
「マキト、当分我らは早川で、炊き出し係をやっているから、また食べに来い」
「アレトは屋根馬車も引くのだな」
アレトも、折宮を先導してきた従士たちも皆取り込まれ、輪がさらに大きくなっていく。
里人は入れ替わり立ち代わり、折宮を拝んでいく。
谷丘の里に、夜明けのような春が近づく。
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