第3話 神暦五百一年二月一日
「……ト、タカト、起きんか」
――誰かが呼んでいる……。
「タカト、何ねぼけてる」
――声の出る夢……。
「起きろ、キクカが産気づいたぞ」
「えっ」
キクカ、の響きに一瞬で目が覚めた。
ザイトが肩をゆすっている。
「キクカが」
「産屋だ。湯を沸かせ。『急げ』とアロカが言うとるよ」
タカトは産屋に走った。
アロカは明り棒を四本も吊り下げている所だった。タカトが使っている部屋には明かり棒を吊るす金具もない。
黒髪の絵姿を照らす明りは見たことがあるが、こんなに大きな明りは初めてだ。
「タカト、炉に火を入れろ、明り棒から火をとれ。大なべも大やかんもいっぱいに湯を沸かせ。
キクカ、手を伸ば。ほら、ここは持ち易くなっとるだろ、つかんどくんだ。タカト、寒いぞ。どんどんまきを燃やせ」
アロカはキクカに落ち着くよう指示しながら、タカトに怒鳴りながら、手早く戸棚から白い布を、たたんである幾重もある布を取り出した。
ザイトは折仕切りを立て、たらいを置いた。
言われるままにタカトが水を張ると、アロカから渡された薬草袋を沈めた。
「お、冷たい水だ。指がかじかむ。タカト、これを水の中で揉むんだ。赤子の一番湯だ」
「え、こんなに冷たい水に赤子を?」
「馬鹿者、アロカが合図したら熱湯を入れて、ちょうど良い湯にせなならん。一番湯の薬草は水で出すんだ。湯に入れる前に出さなならん。時間がないぞ、急げ」
「そうだ、タカト、急げ。赤子は夜明けは待てぬと言うとる」
タカトは良く燃えるようにまきをくべ、たらいの薬草袋をもみ、次のまきに飛びついて、また冷たい薬草袋を握りしめ……。
アロカとキクカがせわしなく言葉を交わし、かけ声をかけ……いや、タカトに言ってるんだ。
「薬草袋を捨てろ、熱湯を入れろ。タカト、火傷すなよ。塩梅みて水も足すんだ」
ザイトは別桶にぬるま湯をつくって、アロカに渡していた。
「キクカ、今度だ。今度は握りをしっかり持っていきめ」
「ウ、ウウーー」
タカトがうめいている。
ザイトも一番湯のたらいのふちを握りしめ、湯加減を見ようと手を伸ばした姿勢のまま、息を潜めている。
「あきゃあ」
止まっていた皆の息が吐き出される。
「フウゥーー」
明り棒は消えていた。
アロカは炉の火を頼りに桶の湯を使って、手慣れた後処理をし、一番湯にそっと赤子を抱いた腕ごと入れた。
「キクカ、女の子だよ、おめでとう。タカト、おめでとう」
女の子だ。そう、白ではない。白髪ではない。
赤子は赤い髪で生まれるから赤子という。濃い赤から少し黄がかった赤まで種々あるが、一年もすれば茶に変わる。
薄暗がりの中、赤子は黒髪に見えた。
キクカに似たんだ、とタカトは思った。
ザイトは薄ぼんやりした白布に包まれた赤子をタカトに抱かせ、折仕切りを片づけた。
キクカは汗を拭いてもらい、布団をかけてもらっていた。
タカトの腕の中の白っぽい包みを見ながら、タカトそっくりだ、とキクカは思った。
「白湯を飲むか? クミカも追っつけ来る」
「え、母さんが?」
「昨日の夕方、クレを迎えに来たマイカに伝言を頼んだんだ。もう近いと。
けれど、真夜中とはね。まいったよ。クミカも夜明けに生まれると思い込んどるだろ。少し眠るんだ。
いや、クミカが来たようだ」
コトコトッと戸が引き開けられ、そして、コッコトッと遠慮がちに閉める音が聞こえてくる。
土間をそっと歩く音が遠くなって、それからバタバタと産屋めがけて走って来る音は、ガタガタと戸を開ける音に変わり、息せききったクミカが顔を出した。
みんなの視線に迎えられ、立ちすくむ。
「…………」
「寒いよ、早く入って閉めとくれ。女の子だよ、おめでとう」
「…………」
「陣痛は短かったし、破水したらすぐ産まれた。慌てさせられたが、出血はわずかで、キクカも赤子も元気だ」
「…………」
誰も声が出ない中で、アロカだけが仕方なさそうに一人でしゃべった。
「白湯ならたんとある。皆でもらおう。わたしものどが渇いたよ。赤子のために沸かした残り白湯だ、うまかろう」
クミカは赤子を抱いた。皆は白湯を飲んだ。
キクカに赤子を渡してから、クミカも白湯をもらった。
タカトはまた、まきをくべ始めた。
女の子だ……タカトは炉の火のせいで顔があついなぁ、と思った。
女の子だ……名前を考えねば。
名前はゆっくり月明け頃に決める。
生まれる前から男の子だったらとか、女の子だったらとか先走って考えて、白髪の者を呼び寄せてはならない。
大概、女の子であれば母親のばあさんや、曾ばあさんの名をつける。男の子であれば、父親のじいさんや曾じいさんの名をもらう。
けれど、キクカの姉さんたちがもう女の子を一人ずつ産んでいて、ばあさんたちの名をもらっているから、こんな時にはタカトの方のばあさんたちから名をもらったりする。
炉の火は燃え盛り、タカトは胸が熱くなった。
やっと空が白じんできたようだ。板戸や窓の隙間が見えてきて、板窓のふし穴が夜空の星々のように輝いた。
アロカは小窓に手をかけた。
「夜明けの太陽を見よう。いつものお産の時は、今頃バタバタでそんな暇はありはせん」
のんびりとキクカと赤子の休む寝台に、光を通した。
「…………」
アロカは硬直した。
支えていた手がそれて、窓はバタンと落ちた。
「…………」
タカトも見た。アロカの側にひとっ飛びで行って、再び小窓を押し開けて、支え棒を立てた。
「…………」
クミカはよろよろとキクカの寝台横に膝をついた。ザイトは大窓を開けた。
寒いなんて誰も考えない。
明るくなる日の光の中で、キクカに抱かれてチョコッと顔を出している赤子は……赤子じゃなかった。
神の御子だ。
美しい黒髪の御子だ。
神暦五百一年二月一日の夜明けであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます