第四章 3

    3



 季節は少し戻って、ルイーゼがシャントリーニのもとへ身を寄せた時のことである。

 この頃から、城の様相は様変わりした。

 地下室から、悲鳴がひっきりなしに聞こえてくるようになったのである。

 朝であれ夜であれ耳を塞ぎたくなるそれは、肌の裏が粟立つようにも、身の毛がよだつようにも感じられた。

 それが聞こえるたび、女官たちは青くなって顔を見合わせ、兵士たちはため息をついて首を振り合った。

 城内はまるで葬儀のゆうべのように重苦しい空気に包まれた。

「博士、あの悲鳴はなんだね。妃が怖がって、眠れないと言ってるのだが」

「申し訳ありません陛下。実は、先日から研究中の不老不死の検体が見つかりまして、ただいまそれの解剖をしている真っ最中なのでございます」

「おお、では」

「は。近日中にも、陛下に例のものを献上出来ますかと存じます」

「ならば、よい。我慢いたそう」

 朝食の席でそんな会話が交わされ、博士はしたり顔で地下室へとむかう。

 地下へ通ずる扉を開けると、悲鳴が一層大きく響き渡った。階段を下りていくと、薄暗いなかに石の台の上に鎖で繋がれ寝かされたルイーゼがいることがわかる。

 その周りには、彼の助手たちが彼女を取り巻いて熱心に記録を取っていた。

 シャントリーニが近づくと、助手の一人が青い顔をして歩み寄ってきた。

「博士」

「どうだ」

「は。やはり麻酔を使っていないのでひどい苦痛を訴えています。よくないのではないでしょうか、その……」

「なんだ」

「本人が了承したとはいえ、実験体を麻酔なしに解剖しようというのは」

「よいよい。どうせ死なんのだ。それに、すぐ治る。なぜ麻酔の必要がある。無駄だ。それより記録を見せろ」

 ルイーゼの断末魔の悲鳴が轟く。

「やめてやめて。もうやめて。お願いだから、もうやめて」

「おい。その女を黙らせろ」

「はっ」

「やめてえええ」

「口を塞げ」

「布を噛ませるんだ」

「それが、すごい力で」

「押さえるんだ」

 そんな声を背後に、博士は一人、報告書を読み漁っていた。

 ふむ。やはり、鍵は血液か。活性化した血が、再び生き返っていると見える。永遠機関なのだな。すなわち……

 思考が、めまぐるしく巡った。

 シャントリーニはルイーゼの寝かせられている石の寝台を振り返って、

「胸を開け。生きたままの心臓を見たい」

「はっ」

 ルイーゼの目が、恐怖に見開かれた。布越しに、彼女は絶叫する。ジャリ、ジャリ、と鎖が暴れた。

「押さえろ」

 間もなく血が迸り、胸が開かれ、ルイーゼは涙を流しながら咆哮した。そして気絶した。「気を失ったか。まあいいこれで静かになった」

 言うや、博士はどくどくと脈打つ心臓を興味深げにしげしげと見て、充分にそれを観察し、記録に取ってしまうと、助手に、

「閉じておけ」

 と命じて、地下室を後にした。

 生体解剖などということは、滅多にどころか、ふつうはできないことである。記録しておきたいことは山のようにあった。

 彼は自分の研究室に入っていくと、寝ることも忘れて研究に没頭した。

 ルイーゼにとって、毎日毎日地獄のような日々が続いた。

 頼むから殺してくれ、終わらせてくれと懇願することも二度三度ならずあった。しかし、不死の身で殺してくれと頼んだところでどうなるものでもあるまい。解剖は続けられた。 ある日は手を切り離され、ある日は喉を切り開かれた。またある日は子宮を取り出され、違う日は皮膚を剥がされた。

 滅茶苦茶だった。

 恐怖と苦痛で何度も失神した。意識が戻ると、また一からやり直しだった。

 ここは暗くて、太陽なんか見えない。だから、あれから何日経ったのかなんてわかりもしない。

 誰か、私を知ってるひとに会いたい。私のことを知ってる、私のことを案じてくれるひとに会いたい。でも誰に? そんなひと、いる?

 ――ルイーゼ

 ふと、あの槍師の声が耳に響く。

 あんたが死ねる方法を、探しに行こう。俺が一緒に行くから。守ってやるから。

 彼は、そう言ってくれたのに。なんでそれに耳を貸そうとしなかったんだろう。なんで一人でここに来ちゃったんだろう。

 つ、と涙が頬を伝う。

 罰だ。せっかくできた仲間を捨ててきちゃったから、そのばちが当たったんだ。当然の報いだ。

 カツカツカツ、と階段を誰かが下りてきて、助手が顔を上げた。

「博士」

「試作品ができたぞ」

「おお……!」

「この薬さえあれば、不老不死はたちどころにその威力を失いただの人として死を迎えることになるだろう」

「で、では」

「うむ。逆もまた然り。まだ実験段階だが、人の身を不老不死にすることもまた、いつの日か可能になるかもしれん」

 そんな会話が聞こえてきたような気もするが、そこまでがルイーゼの限界だった。ルイーゼは気絶した。

「おや、また失神してしまったか。まあいい。おい、血を拭いておけ」

「かしこまりました」

「私は研究室に籠もる。しばらく誰も入るなと命じておけ」

「はい」

 博士は小瓶を白衣のポケットに入れると、階段を上っていった。ルイーゼには、見向きもしなかった。

 彼が行ってしまうと、助手たちは片づけをし始めた。床の血を拭き、実験道具を洗い、血で汚れた実験体の身体を洗い始める。こうしておかないと、次の実験のときに博士が癇癪を起こして大変だからだ。

 そうしてすべてが終わってしまうと、彼らも地下室を後にした。

 季節は十番目の月、紺桔梗である。秋の涼しい空気が、地下に垂れこめている。

 ひたひたひた、という、忍び足が聞こえてきた。ひそひそという、囁き声も。そして暗いはずの階段の上が明るくなったかと思うと、その明るいものは段々と下りてきて、とうとうルイーゼの側までやってくると、彼女をそっと覗き込んだ。

「……息してるかな」

「そう願う。でなければここまで忍び込んだ甲斐がない」

「ルイーゼ。ルイーゼ」

 声が、そっと囁きかける。

 ぺちぺち、温かい手が、ルイーゼの頬を軽く叩いた。

「ルイーゼ。起きてくれ。おい。生きてるんだろ。目を開けてくれよ」

 耳の奥が温かくなる、この声。知ってる。誰だっけ。

 目の前がすっと明るくなった。

「ルイーゼ。ルイーゼったら」

 目を開けたら、またあの地獄が待っている。だから、もう目を開けないと決めたの。

「ルイーゼ、起きてくれ。逃げよう」

「早くしろ。じきあいつらが戻って来るぞ」

「わかってるよ」

 もう一人誰かいる? こっちも知ってる。誰? 渋くて、少しだけ甘い声。

「ルイーゼ、起きてくれ。俺たちと行こう」

 観念して、ルイーゼは目を開けた。

 まぶしい……

「ああよかった。起きたぜおっさん」

「お前のしつこいのも、たまには効くんだな」

「しつこいは余計だっつーの」

 ああ、知ってる。このやり取り。私の仲間。私の大好きなひとたち。

「ルイーゼ、起き上がれるかい」

「……」

 言われたとおりに起き上がろうとして、顔を顰めた。

 最後の解剖は、胸部切開。肋骨を切り開かれた。胸だって深く切られている。

「どうしたの」

 胸を押さえて硬直したルイーゼを心配そうに覗き込むエルリックに、ルイーゼはあえて気丈にこたえた。

「……平気よ。なんでもない」

 切り開かれた皮膚は、そのうちにくっつくだろう。問題は、骨だ。肋骨は折れたら歩くぶんには問題ない。

 しかし、それで逃げるだけの激しい動きができるかどうかはまた別の話だ。いや、今はそんなことを心配している場合ではない。

 ルイーゼは痛みをこらえて、そっと起き上がった。

「鍵はどこかな」

「そんなもんはいらん。こうだ」

 ヴィズルが枷と腕の間に剣を突き立てて、えいっと気合いを入れた。手枷と足枷はそうして外れた。

「さすがおっさん」

「行こう」

 エルリックに手を引かれて、ルイーゼは立ち上がった。そして足を引きずって、階段を上がっていった。

「どうやってここまで来たの」

「なあに、城の構造を知ってる奴に地図を描いてもらって、地下水路から入り込んだんだ。 兵士の交代の時間を聞き出して、女官の目をすり抜けて、あとは悪名高い博士の地下室を目指すって寸法さ」

「……そう……」

 そんなことをして、もし見つかったら確実に殺される。そこまでして、助けてくれたのだ。そんな彼らを、自分は裏切ったのだ。

「おっと」

 思わずうつむいていると、エルリックが指を突き立ててきた。

「今は余計なことは考えない。逃げることが先」

「こっちだ」

 先を行っていたヴィズルが廊下のむこうを見据えて、手で合図してきた。

 三人は吹き抜けの廊下を走り抜けて、そのまま通路を行った。

 緊張の一瞬が走り、止めていた呼吸が戻ると、汗が顔を滴った。

「次はそこの角だ。そうしたら、地下水道に行ける」

「あっ待って」

「なんだ」

「このまま、逃げられないわ」

「なんでだよ」

「博士の開発した薬を持っていかないと」

「ルイーゼ」

 エルリックはルイーゼの肩を掴んだ。

「そんなもの、なんになるっていうんだ。いらないよ」

「だめよ。博士は不老不死を治す薬を開発した。まだ実験段階だけど、できたって言ってたわ。私、確かに聞いた。聞いたのよ」

「――」

「そのために毎日地獄のような思いをして耐えてきたの。このまま帰るわけにはいかないわ」

 エルリックは目頭を押さえた。そして顔を上げて、

「おっさん」

「博士の研究室というのは、どこだ」

「確か、地下室からそう遠くないとこだった」

「引き返そう」

「よし」

 踵≪きびす≫を返す二人を見て、ルイーゼは胸が熱くなった。

「ありがとう……」

「ほらルイーゼ、早く」

「うん」

 研究室目指して、三人は人目を忍びながら走った。

 角を曲がり、通路を行き、廊下を渡っていけば、そこは逃げてきたあの地下室からほど近い場所である。

 扉に近づいてなかをそっと窺ってみれば、誰かがいる気配がする。

「博士だ」

「しっ」

「待って、あっちから誰か来るわ」

 三人は慌てて廊下のむこうに隠れて、様子を見た。すると、その人影は研究室の扉をノックして博士を訪ね、彼を呼び出して共にどこかへ行ってしまったのである。

「好機だ。行こう」

 三人は研究室のなかに入って、それらしい場所を探した。

「あいつがいつ帰ってくるかわからない。急いで探そう」

「ルイーゼ、薬はどんなものに入ってるの」

「多分、小瓶だと思う。掌に入って隠れるくらい小さい……」

「そんなものどこにでも隠せるぞ」

「手あたり次第探してみよう」

 戸棚、本棚、引き出しのなか、机の上、あらゆる場所を見た。

 しかし、目当てのものはなんといっても極小の小瓶である。

 捜索は難航した。

「ないな」

「ないね」

「でも、博士が隠すとしたらここにしか隠さないと思うわ。ここが彼にとって一番快適な場所のはずだから」

「ふむ。人間、一番居やすい場所に信を置くというからな」

「じゃやっぱりここだよ」

 と言っていたら、なにやら廊下のむこうから足音がしてきて、それにつれて声も聞こえてきた。

「……なのですよ、博士」

「うむ。それについては論文がすでに出ている。それは……」

 それを聞いて、ヴィズルがするどく後の二人に囁いた。

「いかん。戻ってきたぞ。隠れろ」

 ヴィズルは扉の陰にさっと隠れ、エルリックとルイーゼはカーテンの隙間に潜んだ。

 声はどんどん近づいてくる。

 コツ、コツ、コツ。

 エルリックはそっとルイーゼの口に手を当てた。ルイーゼは博士への恐怖で胸がいっぱいで、今にも声を上げそうである。

 ふう、ふう、ふう。

 ルイーゼの息が、荒くなる。

 コツ、コツ、コツ。

「それはなかなか興味深いですね」

「君にも貸してあげよう。ぜひ読んでみるといい」

 声が、すぐ側までやってきた。

 ヴィズルがそっと、音もなく短剣を引き抜くのが、エルリックからも見えた。

 カチャ、と扉が半分開かれ、ヴィズルの目が殺気に細められた時、もう一人別の声が廊下のむこうから聞こえてきて、

「博士、例の件ですが、興味深い結果が出ました」

「なんだね」

「これなんですが」

「ほう」

「こちらへ」

「うむ」

 扉が閉まり、足音が遠ざかっていって、三人は事なきを得た。

「ひゅーっ」

「なんとか助かったぞ」

 ヴィズルは短剣をしまって、

「しかし、一刻の猶予もならん。ルイーゼが逃げたことはすぐにもわかるだろう。即刻脱出だ。薬のことは今は諦めて、一旦ここを出よう」

 ルイーゼがエルリックに手を引かれてカーテンの隙間から出ようとした瞬間、机の上の試験管の数々に目が行った。

 あっ……。

「待って」

「えっ」

「あれ、あれだわ」

 ルイーゼはいくつもある試験管のなかにある、小さなそれを手に取った。試験管に見えたそれは、小瓶にも見えた。それには、何事か書かれていた。

「medicina secreto。『秘密の薬』。まさにあの薬に違いないわ」

「なるほど、木を隠すなら森のなか、というわけだな」

「よし、行こう」

 三人はそっと研究室を出て、急いで地下水路を目指し走り去った。

 その頃である。

 地下室に下りていった助手たちが、実験体がいなくなっているのに気づいたのは。

 彼らは慌ててシャントリーニ博士を探し出し、そのことを報告した。

「なにっ実験体がいなくなっただと」

 ドン、と足を踏み鳴らして、博士は激怒した。

「馬鹿者」

 打ち据えるように、彼は怒鳴った。

「まだ遠くには行っていないはずだ。兵士を総動員して、探せ。探すのだ」

 顔を真っ青にして、彼は額に筋を浮かべて怒った。こうなった時の博士がいかに恐ろしいかを、助手たちは熟知している。

 最後に彼が怒った時、彼を怒らせた助手は包丁で皮膚を剥がれ、素手で骨を折られ、やっとこで前歯と奥歯を同時に抜かれ、目玉をくり抜かれて、最後には全身の血を抜かれて、死んでしまった。

 博士はそれを薄ら笑いを浮かべながらさも楽し気にしてのけたものである。

 助手たちは慌てて兵士たちにそれを伝えに走った。

 しかし、ふだんは研究ばかりしている彼らである。

 なにをどうすればいいのか、わからない。

 よって伝達は、大幅に遅れた。

 その間に三人は、城の出口に置いておいた馬で逃げ出していたのである。

 ルイーゼは身体が本調子ではないため、一人で騎乗などとてもできない。エルリックが共に馬に乗って、逃げに逃げた。

 しかし、馬の体力にも限界というものがある。

 じきに走り疲れて、止まってしまった。

「ここまでだな。ここからは、歩きだ」

 それでも、王国からはだいぶ離れた。

 潮の香りがした。海が近いのだ。

 ルイーゼはあの男のことを思い出していた。

 ルイーゼ、言葉は、ひととひとが交流する上では欠かせないものだよ。

 その言葉を思い出して、ルイーゼは睫毛を伏せる。そうね。あの小瓶の中身がわかったのも、あなたが古語を教えてくれたからこそよ。

 ルイーゼに教養というものを与えてくれたその男は、ちょっとした風邪をこじらせて胸を病んでしまい、あっけなく死んでしまった。

 死の床で、彼は言った。

「ルイーゼ、あの唄を歌ってくれないかい」

 咳をしながら、彼は彼女にそう言った。

「君の唄を聞きたい」

 だから、ルイーゼは唄を歌った。小さな小さな、か細い声で。彼は満足そうに微笑むと、一言こう言った。

「愛してるよ、ルイーゼ」

 その瞳が永遠に閉じられてしまうと、ルイーゼの歌声が止んだ。ぽとり、敷き布に涙が一粒落ちた。

 埋葬がすむと、逃げるように旅に出た。

 ひたすらの虚無感。それだけだった。

「ルイーゼ? 疲れたかい」

 はっとして、顔を上げる。

「大丈夫?」

 エルリックが心配そうにこちらを窺っている。

「うん、平気よ」

 傷のほとんどは、もう塞がっている。骨も、もう大丈夫そうだ。

 なるべく早足で、なるべく遠くへ。

 しかし、どこへ?

「む」

 ヴィズルが、するどく後ろを振り向いた。

「どうしたいおっさん」

「蹄の音がする。追っ手だ」

 はるか彼方から、もうもうと砂煙が上がっている。見たことのない数の追っ手である。

「走れ」

 三人は走った。ひた走りに走った。

 矢が雨のように射かけられた。

「うっ」

 エルリックが唸った。ルイーゼが走りながら横を見ると、彼の腕に矢が刺さっていた。

「エルリック」

「いいから、走れ」

「でも」

「いいから」

 前方に、崖が見えてきた。

「エルリック、先に行け。ここは俺が引き受ける」

 ヴィズルが剣を引き抜いて、かかる追っ手に立ちはだかった。

「おっさん?」

「お前は行け」

 兵士たちが、見る見る近づいてくる。

「ヴィズル」

「行け。無事に死ぬんだぞ」

 ルイーゼは胸の前でぎゅっと両手を握って、ヴィズルの背中を見た。

「ありがとう」

「行こう」

 二人が走り去るのを気配で感じながら、ヴィズルは眼前に迫り来る兵士たちを見ながら一人呟いていた。

「無事に死ねよっていうのもおかしな話だな」

 そしてふっと口元を歪めて、

「それは俺かもしれんな」

 と一人ごちると、顔を上げて兵士たちにむかって叫んだ。

「かかってこい。お前たちの相手は、俺だ」

 言うや、彼は敵の群れに飛びかかっていった。

 じき、夜が明ける。

 崖の下まで辿り着くと、ルイーゼはエルリックの腕の矢を抜いた。そして布を出して巻いてやった。

「血は止まったわ。こうしておけば、大丈夫」

 ふっ、とエルリックがおかしそうに笑った。

「なあに?」

「いや、おかしなことするもんだなと思ってさ。これから死のうとしてんのに、ひとの怪我の心配するなんて」

 ルイーゼはきょとんとして、それからちょっと笑った。エルリックはそれを、まぶしそうに見つめた。

 ああ、そうだな。あんたは笑ってるのがいいよ。いつもそうやって、笑ってなよ。

「……覚悟は、いい?」

「うん」

「言い残すことは?」

「……そうね」

 ルイーゼは少し考えて、それから顔を上げて海に目を馳せた。

「もし無事に死ねたら、からだを海に流して。私は、かつて水の巫女だった。追放されて久しいけれど、死んだら水に還りたい。こんなにも永らえてしまった呪われたからだを、地上に遺しておきたくない。海に流してしまいたい」

「……わかったよ」

 ルイーゼは小瓶を取り出して、それをしみじみと見つめた。

 そして、エルリックを見て、無邪気な顔で微笑んだ。

「じゃあ、逝くね」

 どきん。

 胸が痛む。

 ああ、あんたのこんな顔を、今際の際で見られるなんてな。

 そして彼女が小瓶の中身を飲み干すのを見届けると、二人で並んで座って海を見た。

「……なあ、ルイーゼ」

「ん?」

「唄を、歌ってくれよ」

「――」

「あんたの唄、聞きたい」

 自分の顔を見る彼女に、エルリックは言った。

「俺、あんたの唄、好きだ」

 それは、なんの符号だったのか。

 唄を歌って、送ってきた。

 最後の最後で、送られるのか。

「……いいよ」

 すう、と息を吸う。

 そしてルイーゼは、あの唄を歌った。小さな小さな、か細い声で。彼にしか、聞こえない声で。

 崖のむこうでは、まだ戦いの叫びが聞こえる。

 ルイーゼはエルリックによりかかった。

「なんだか眠くなってきちゃった……」

「ゆっくり横になるといいよ」

 ルイーゼがこてん、とそこに横たわると、エルリックは上着を脱いで彼女にそれをかけてやった。どこかで、また叫び声が響く。

 ルイーゼはなおも歌いながら、眠気と戦いつつ夜明けの海を眺めている。エルリックは、なにも言わない。

 遠くから剣戟の響きが聞こえてきた。

 すうっという寝息と共に歌声が止み、やがてその寝息が止まるか止まらないかという時、エルリックは静かに彼女に言った。

「愛してるよ、ルイーゼ」

 ぼたぼたぼた、青年の瞳から、止めどなく涙がこぼれ落ちた。

 そしてとうとう傍らの女の呼吸が止まった時、彼は膝を抱えて泣いた。

 エルリックは彼女の身体を抱き上げると、波打ち際まで運んだ。

 腰まで浸かるくらいまでのところで、その冷たくなった唇にそっとくちづけして、そしてそこで手を離した。

 彼女の身体は夜明けの海にゆっくりと吸い込まれていった。

 エルリックはそれを、いつまでも見つめていた。

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