第一章 2

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 夜が明けて、ヴィズルはルイーゼに尋ねた。

「どこへ行こうとしている」

「どこへ行くかは、特に決めてはいない。しかし、探すものはある」

「なにを探してるんだい」

「私の呪いを解く鍵になるものよ」

「それは、なかなか難題だな」

「神の呪いを解くものなんて、あるのかい」

「ないかもしれない。でも、あるかもしれない。あるかもしれない限りは、私は探す。無為の日々を送るよりはずっとましだ」

「それはそうだな」

「顔が土まみれだ。洗ってくる」

 ルイーゼは川に行って顔を洗いに行き、ヴィズルとエルリックはその間に朝食の支度をした。彼女が帰ってくると、朝日がその白い顔を照らし出した。

「へえ、あんたのその目、紫、ってんでもないな。夜明け色、とでもいうのかな。不思議な色だな」

 覗き込むエルリックから目をそらし、ルイーゼは顔を伏せた。あのひとも同じことを言った。お前の目は、夜明け色だ。美しい色だ。

 もう、何百年経ったか覚えていないほど昔のことだというのに。

 まだ、顔を覚えている。

 まだ、声が聞こえてくる。

「しっかしこの飢饉はいつまで続くんだろうな」

「じきに雨が降るだろう。それまでの辛抱だ」

 二人の会話を横に聞きながら、かつてのことを思い出す。ルイーゼ、ルイーゼ。

「金貸したちは好き放題だぜ。雨より先に、まずあいつらをなんとかしないと」

「ふむ。証文がある限り、こちらからは手出しができん。そこからだろうな」

 街道を行って、宿屋についた。

「湯を浴びたい。土まみれだ」

「ああそうだな。墓から出てきたんだものな」

 という会話をしていたら、宿の主人に不思議な顔をされた。

 食事をしていると、

「ええ、お客様はヴィズル様でございますかな」

 と話しかけられた。

「ああ、俺だ」

「文が届いております」

 と渡された書簡の差し出し人を見てみれば、ルノーとあった。

「あの都の警護隊長か」

「なんだ今ごろ」

 ヴィズルは書簡を開いて文面を読んでいたが、それを読むにつれて次第にその表情が険しくなっていった。

「どうしたい」

「知っての通り、あの男は金貸しの持っている宝物ほうもつを横流ししている」

「ああ」

「そのなかの一部が、執政者に献上されたらしい」

「それがどうしたい」

「どうやら、都に行かなくてはならないようだ」

「なにい?」

「どうしたの」

 そこへルイーゼが戻ってきて、

「よう、都へ行くぞ。あんたも来るか」

「ご禁制の品が、執政者に献上された。為政者が持ってちゃならんものだ。俺はそれを止めに行く。飢饉のなか贅沢三昧しているようだし、そろそろ腰を上げてもいい時だろう」「一泡吹かせに行くってこと? そいつあいいや」

「その前にすることは山のようにあるぞ。お前さんは、修行だ」

「修行ぉ?」

「そうだ。あの程度の戦闘で息を切らせているようでは、足手まといだからな。なに、準備には時間がかかる。その間ちょっと鍛錬していろ」

「なんだよそれ」

「為政者が持ってちゃいけないものって、なんなの」

「『知識の書』と呼ばれる禁断の書物だ。古今東西のあらゆる知識が記されているといわれる。それを、賢い王ならともかく飢えた民を放っておくような者に渡したらなにをしでかすかわからん」

「あらゆる知識……」

 ルイーゼは肘をついたまま小さく呟くと、ちょっとの間なにかを考えているようだった。「それって、私が死ねる方法も書いてあるかしら」

「さあ? どうだろうな」

「禁断の書物というくらいだから、あるいは書かれているかもしれん。試してみる価値はあるだろう」

「……」

 彼女の決断は早かった。

「私も行く」

「そうこなくっちゃ」

 翌日、三人は街道を下って、海辺を行った。

 途中、見上げても足りないほどの、小山のような大きな大きな岩を運ぶための人夫たちが二十人ほど、縄でもってして引き、または押して、掛け声と共に移動しているのが見られた。彼らを監督しているのは、都の役人である。

「執政様のお庭に置くための岩だ。心して運べ」

 人夫たちは疲れ果て、大して食っていないのであろうか、やつれ果てて骨が浮いている有り様である。それへ、ぴしりぴしりと鞭をくれては、役人が重い重い岩を運ばせているのだ。

 エルリックはそれを忌々しげに見送ると、早足で歩いた。ルイーゼもそれを見ていたようだったが、こちらは無表情である。彼はその横顔をちらりと見て、ふと思った。

 そういや、役人が嫌いって言ってたな。なんでだ。長生きしてる割りには、無表情なんだな。いや、逆か。長く生きてると、感情なんてなくしちまうのかな。

「ほれ、ここだ」

 ヴィズルの声ではっとして、エルリックは顔を上げた。浜辺だ。

 網がいくつもかけられた場所があって、波打ち際には桟橋が幾重にもかけられている。 網の下に、襤褸切れのようなものがあった。

「じいさん、起きろ」

 ヴィズルはその襤褸切れを蹴り上げて起こすと声をかけ、

「な、なんじゃいなんじゃい」

 という声と共にそれが起き上がると、

「相変わらず汚ねえなあ」

 と呆れたように言った。

「なんじゃ、ヴィズルか。まだ生きておったか」

「ちょっと鍛えてほしい蛙がいるのよ。こいつだ」

「なに、蛙だと?」

 襤褸切れに見えたものは、ぼさぼさの長い白髪をした老人であった。歯が所々抜け落ちていて、日に灼けて真っ黒で、爪が黄色い。

 老人はぎょろりと目を剥いてじろじろとエルリックの青い瞳を覗き込むと、

「ふうん……ものになるかね」

「ものにしてやってくれ。素質は俺が保証する」

「いくら出す」

「二十枚」

 老人はヴィズルを見上げて、にやりと笑った。

「いつまでだ」

「春だ」

「ええじゃろう」

 ヴィズルは懐から金貨を二十枚取り出して、ざらざらと老人の掌にぞんざいに置いた。「ほれ」

 老人はなんでもない木の長い棒を持ってきて、エルリックに渡した。

「これで、あの桟橋の上に乗ってあそこに刺さっている釘をみな打つのじゃ」

「ええーっ」

 見れば、釘はごく小さい、針のような大きさである。それを、波間に浮かぶ桟橋に揺られながらすべて打たなければならないのだ。木に刺さった釘の数は、幾千ほどもあった。 エルリックは恐る恐る桟橋に歩いて行って、そっとその上に乗った。すると桟橋だとばかり思っていたそれは、単なる木の板である。たちまち、彼は平衡感覚を失って海に転げ落ちた。

「なんだよ、こんなのできるわけないよ」

 冬の、極寒の海である。身体が凍えた。

「力を抜け。余計な力を入れるから落ちるんじゃ。まずは、力を抜いて上に立て。払う、打つ、斬る。槍の動きを考えて釘を打て」

 ヴィズルは笑いながらそれを見ていたが、

「じゃあなじいさん。頑張って修行しろよ」

 と老人とエルリックに言って、すたすたと行ってしまった。ルイーゼは仕方なしに、それについて行った。

「これからどうするの」

「あいつは修行、俺たちは都で下準備がある。人を集めなければならん」

 その背中を恨めしげに見送って、エルリックはもう一度木の板の上に乗った。

 力を抜いて、力を抜いて。

 意識して脱力すると、案外簡単に板の上に乗れた。

「よし……いいぞ」

 次は、釘だ。釘を打つためには、力を入れなくてはならない。しかし、力を入れるとなると、板の上から落ちる。絶妙な力の入れ具合が要求された。

 一週間もすると、釘が打てるようになった。そうしていくとこつがわかってきて、どんどん釘は木のなかに埋まっていった。

 ひと月で、釘をすべて打つことができた。

「ほっほっほっほっ。よろしい。では第二段階じゃ。こちらへ来い」

 浜から上がって、松の木の下までやってきた。そこに、若い男女がいた。女の方は弓矢を持っていて、男の方はなにか、荷物を背負っていた。

「この女は口が利けん。小さい頃に折檻されて舌を抜かれてしまったのだ。それを儂が拾って弓を教えた。こっちは、儂の弟子」

 弟子の方が荷物からばらばらに切れた刃を取り出し、それを紐に結んで松の木に登り、あちこちに吊るし始めた。そして下りてくると、今度は砕いた土器の欠片をいくつも出してくると、それを地面にまんべんなくばらまき始めた。

「ほれ」

 老人は槍をエルリックに渡すと、

「戦場では、敵は前からのみ来るとは限らない。そのための訓練じゃ。すべてよけて、刃を打破せよ。足元にも注意しろよ」

 弟子が、木の上から紐を揺らし始めた。ぶん、ぶんという音がして、刃が上から横から斜めから、あらゆる方向からエルリックに襲いかかってきた。

「おっ」

 左から来たかと思えば、上から来る。それをよければ、足元の破片を踏んで痛い。

「いてっ」

 それに気を取られていると、右から斜めから、次々に刃が降ってくる。

「うわーっ」

 たまらず、エルリックは松の木の下から逃げ出した。それを見た弓を持った女が、やじりのない矢を放った。それはまっすぐにエルリックの足に当たって、彼は無様に転んだ。

 老人が歩み寄ってきて、にやにやと笑いかけてきた。

「素質はあると聞いたがのう」

「う……」

 そうだ。ヴィズルは金貨十枚もらって、あの男から俺を引き受けた。そしてこの老人に二十枚払って、俺の身柄をまかせた。俺は、その信頼に応えねばならない。

「まだやれるかな」

「や……やる。やらせてください」

 エルリックは両手をついた。

「地獄が待っておるぞ」

 彼はごくりと唾を飲んだ。

「地獄でけっこう」



「はあ……極楽極楽」

 熱い風呂に入りながら、ヴィズルは傷だらけの身体を横たえていた。

 娼館に来た時の楽しみといえば、風呂である。女を抱くのもいいが、なんといっても風呂があるのがいい。

「ヴィズル様、お酒の支度ができましたわよ」

「おう、今行く」

 こたえて、彼は身体を起こした。もう充分に温まった。部屋に行くと、ルイーゼが呆れた顔で待っていた。

「女を娼館で待たせる奴があるかい」

「まあそう怒るな。誰がどこで見聞きしているかわからんからな。こういう場所が一番なのだ」

「ほら、これがあちこちの農村の、関所の場所と数」

「おう、すまないな。まあ飲め」

 酒を飲みながら、二人は話し合いを進めた。農村の誰と誰が参加するのか、果たしてそれは本気にしていいのか、直接、会うことはできるのか。

 会うことができる人間とは腹を割って話し、酒を酌み交わし、血判状をもらった。

 人々のために駆けずり回るその姿は、ルイーゼのかつての恋人を思い起こさせた。

 ルイーゼ、おいで。ルイーゼ、女の子がそんな食べ方をするもんじゃない。ルイーゼ、ルイーゼ。

 そっと瞳を閉じると、またもあの声が聞こえてくる。

 ああ、あなたはもういないのに、まだ私のなかにいるのね。何百年も経ってしまったのに、こうして私のなかにちゃんといて、私を慰めてくれるのね。

 一人になると、時々寂しくなって唄を歌う。彼は、ルイーゼが唄を歌うのが好きだった。 二人きりになると、いつも聞かせてくれとせがんできた。

 唄を歌うとそこにあの男がいるみたいで、ルイーゼはつい歌ってしまう。そして唄の途中ではっとしてやめてしまう、

 ――あのひとは、もういないのだ。

 過去を振り返ったところで、どうしようもないことはよくわかっている。だからといって、どうすればいいというのだ。どうせ、未来なんか私にはない。未来など、私にはないのだ。

 あるのは、絶望の暗闇だけ。

「さあ、夜も遅い。俺はもう寝るよ」

 ヴィズルの声で、我に返る。

「え、ああ。そうね。お楽しみの時間だものね」

「馬鹿にするな。娼館に来たからと言って、することが一つだけとは限らんのだ」

「んじゃなにするの」

「眠るだけの時もある」

「へえ」

 今日がその日だ、と言われると、ぐうの音も出ない。はいそうですかと言い返し、さっさと宿に帰った。

 季節は最初の月、薄梅紫を終え、二番目の月、撫子になろうとしている。

 そういえば、修行はどうなったかな、と窓から三日月を見上げてふと思った。

 修行は、佳境を迎えていた。

 エルリックは上半身を脱ぎ、槍を構え、次々にやってくる刃を正確に砕いていった。上から斜めから左から右から、下によけ飛んでは避け腹這いになりその拍子に地面に落ちた土器の破片をよけて、そうして一本一本刃を打破していくと、とうとう最後の刃を打ち砕くことができたのである。

「ようやった。どうやら冬眠から目覚めるのに間に合うようじゃのう」

 老人は松の木の下で満足げに言うと酒を飲み干した。

「じゃあ、合格ですか」

「これが最後ではない。次は第三段階じゃ」

 老人は彼を何百段もある階段を上った場所にある廃屋へ連れてくると、そこに立て札を立てかけた。

『これなる者を倒した者には 金貨五十枚』

「お前さんの首に、賞金をかけた。命懸けじゃぞい」

「えっあっちょっと」

 すたすたと去っていく老人の背中を茫然と見送って、エルリックは立ち尽くした。しかし、無意味に殺生はしたくない。そこで、槍の先を覆って、対戦者と話し合い、殺し合いはしないことにした。

 一日に一度は、挑戦者がやってきた。

 時にそれは、身長二メートルを越す大男が金棒を振り回しながらであったり、十人連れがいっぺんにまとめてやってきたこともあった。

 細長い刀を二本持った戦士がやってきたこともあれば、刃を仕込んだ鞭をぶん回しながら挑んできた者もいた。

 それらの男たちを、エルリックはすべて倒していった。

 不思議なことに、四方八方から襲いかかってくる刃に比べれば、彼らの攻撃などなにも恐くなかった。

 そうして、約束の春がやってきた。

「どうだ、蛙よ。少しはものになったか」

 ヴィズルがルイーゼと共に迎えにやってきて、エルリックはむっつりとした顔でそれを見た。

「おう、いい面構えになったな」

「おっさん、この四か月なにやってたんだよ」

「準備だ」

「どうせいい思いしてたんだろ」

「まあ、それなりにな」

「ちぇっ」

「しかし、お前さんの腕が要るぞ。武力は大いに役に立つ。大暴れせねばならんからな」「なにをするつもりなんだよ」

「なあに」

 彼はふっと笑った。

「ちょっとした謀反さ」

 なんでもないことのように、彼は言った。

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