今日からのお月様
ノミン
今日からのお月様
東京駅の、地方へ向かう長距離バスの発着場で、私は泣かないようにしていた。
これから、もうあと数分で行ってしまう貴方を、私は、笑顔で見送ることのできる彼女でいたい。あなたは、夢を追うためでもなく、私や他の皆のように、特別な何かを持たないまま、特別な何かがこれからあるだろうという、根拠のない期待を抱いて進学するわけでもない。
貴方は、運命によって、ここを離れて行ってしまう。
そんな茨の道を行かなくても、ここにいて、のんびり暮らしていくこともできるのに、やっぱり貴方は、そうはできない。私はよく知っている。貴方は、そういう人ではない。母を失い、そして父親を失い、その孤独の中にあって貴方は、残された負の形見の責任を果たすために、ここを離れる。
本当に、なんて愛おしい人なのだろう。
ずっとあなたと一緒にいたかった。
高校生の浮ついた恋心ではない。
二年生の時、林間学校で、鍋をひっくり返して火傷をした私を看病してくれたあの時から、私は、ずっとあなたの海に沈んでいる。私の全部を受け止めてくれる深い、深い海。私はずっとその中で、ずっとずっと深く、沈んで、抱かれていたかった。
木星の春や、月にも海があることや、蟻の涙や、沈黙の中の喜びや、私の知らなかった別世界のことを教えてくれたのは、貴方だった。私の不安や寂しさを、その海底の様な瞳の奥で見抜いてしまうのは、貴方しかいない。
いよいよ、バスのエンジンが音を立てて震えはじめた。
私は咄嗟に、貴方の腕に掴まった。
「寂しくなるよ」
思わず、そんな事を言ってしまう。
だけどこんなこと、言うはずじゃなかった。貴方を引き留めるようなことを、言うはずじゃなかった。なのに、堪らずに、言葉が喉から出てきてしまう。
「もう会えないの?」
困らせるだけの問いかけ。
わかっているのに、身体が、貴方と離れることを拒絶している。
困った顔をして、俯く貴方。
何も言わなくても、貴方の「ごめん」が聞こえてくる。
私は、だけど貴方を、謝らせたくなんかない。だって、貴方は悪くない。形のないもの、魂や信念だとか、そういったものにいつも真摯に向き合っている貴方だから、そんな貴方のことが、私は堪らなく好きなんだ。
「元気でいてね」
私は、そう言った。
声が、震えてしまった。
私は、用意していたプレゼントを、貴方に渡した。自分と、貴方の名前が彫ってある、革の栞。貴方の一ページ――私と過ごしたそのページの最後に、それを挟んでほしい。そして、できればまた、その栞をとって、続きが始まるのを、私はずっと待っていたい。
だけど貴方はそれを言わない。
私から愛が離れたわけじゃない。
薄情なのでもない。
貴方は、未来を約束する無責任さを知っているから、そうだよね。
沈黙の中に、貴方は、優しさも愛情も、寂しさも、孤独も、全部を隠してしまう。だけど、貴方に触れればわかる。暖かくて、包み込んでくれる。
「私は大丈夫。――見えなくても、星のどこかに花が一輪咲いているって知ってるから、ね」
貴方に勧められた本の中に出て来た言葉。
強がりだけど、これで笑顔になれる。
バスの外部スピーカーが、間もなくの発車を告げた。
貴方が、私から離れる。
こんな痛みを、私は知らない。
一つの命が、二つに引き裂かれる。
バスに乗り込み、貴方は窓際の席に座った。
もう、音は伝わらない。
窓一つを隔てて、見つめ合うだけ。
だけどそれでも私は、「またね」なんて、この視線に乗せてはいけない。
だから、「大好き」だけを乗せよう。
私は、貴方が大好きだった。
この世界の好きなものを全部花束にして、貴方に捧げたい。
きっと、私の命が尽きる時、最後のその瞬間に思い浮かべるのは、貴方の顔だと思う。だから私は、他の人よりは、死ぬことを怖がらなくていいかもしれない。そんなの、ずっと先のことなのだろうけど。
バスのエンジンの音が変わった。
バスが動き出すか、出さないかと言う時、たった一瞬、貴方の目が、一瞬猛禽のように私を求めた。
私はあっと、口を開いた。
――バスは、行ってしまった。
私は、もう、そのバスの後姿を見たくなかった。
貴方を引き留められなかった悔しさが、あふれ出してくる。
きっと私は、今日から毎夜、月にお願いすると思う。あなたが好きだった、そのお月様に。
貴方にまた、会えますように。
それから、貴方が、無事でありますように。
今日からのお月様 ノミン @nomaz
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