第3話
吐くまで走った。いや、吐いても走らされた。鬼が追いかけて来るからだ。追いつかれたら痛くて眠れないほど体を打たれる。手の皮が剥けて、木刀が血で滑るほど素振りを繰り返した。ジンジンと骨の奥まで痛むような傷。
手に巻かれた布が傷に食い込んでも、歯を食いしばって耐えた。剣を落とすことは許されなかった。爪が割れるほど踏み込みの練習をした。何十回、何百回、倒れるまで、倒れても叩き起こされて……。
鬼が、父が、怒鳴り、木刀を振り回し、強くなれと命令する。その命令に従うこと、大人しく木刀を振ること。
何百回と父の振るう木刀に打ちのめされて。
そうすることでやっと、あの家で生きることが許された。
一度、児童相談所の職員が家まで来たことがある。当時、迅は小学生だった。体の痣を見た担任の教師が職員会議で訴え、そこから教育委員会、そして児童相談所へ話が回ったらしかった。
迅の父親は、迅とその母親の前では鬼のようだったが、それ以外の人の前では、まるで別人だった。温和で、腰が低い、自分の非を認め、謝罪のために頭まで下げる。指導に熱が入ってしまった、と。
そうやって相談所の職員を追い返し、迅への指導には一層力を入れた。
ゲロを吐き、痣や傷の痛みで眠れない日々を過ごした。迅はもうすでに、父が木刀を持って背後に立つだけで限界以上に稽古に励むようになっていた。足りないという一言で夜通し稽古をすることもあった。
中学に入ってから殺してやろうと思ったこともある。
だが、実際立ち合って切り結ぶと結局、圧倒的な力で打ちのめされて終わりだった。
眠る時は気絶したように眠った。
父親の葬儀で、泣けなかった理由としては十分だろう。
負わされた直近の怪我が治ったのは四十九日を過ぎてからだった。
後悔があるとすれば、もう少し、偃月という大刀について話を聞いておけばよかったと、それだけだ。
だが実際、少し前に戻ることができたとしても、それをうまくあの父親から聞き出せるかは疑問だ。
迅がそうしたように、偃月も血で汚れた制服をざっと洗い、給湯室のカーテンを裂いて大刀を包み、背負っている。美織には重すぎるだろうといったが「偃月が偃月を運んで何が悪い」と取り付く島もない。そういう問題じゃないだろといったが聞く耳を持ってもらえず、いうだけ無駄だった。
道場を出ると、偃月は慣れた足取りで道を渡りバス停へ向かう。
「お前、バスに乗るのか」
「ついてくるなら黙ってついて来い」
バスは五分もせずに到着した。
偃月はそれに乗り込む。前払い式のバスだぞと思い声をかけようか迷っていると、これも慣れた手つきでスマホを出し、精算機にかざした。
迅も同じようにして乗り込み、偃月の隣に座る。
「……お前、なんで普通にバスに乗れるんだよ」
「美織の記憶が分かる。お前と美織の関係も」
「は!?」
ぎょっとしてつい声を上げると、先に乗っていた中年の女性に睨まれた。
「すみません……」
謝ってから改めて居心地の悪さのようなものを感じる。
美織の記憶があるということは。
頭を抱える。髪をかきむしってから偃月を睨む。
睨んだところで、偃月は何でもないことのように黙ったまま外を見ている。背負っていた大刀を足の間に挟んで、肩にもたれかけさせている。顔は美織だが、表情はやはり別人だ。
どこまで行くつもりなのか。
そもそも、この偃月が探しているという男の生まれ変わりだという自覚もない。生まれ変わりだとか、そんな話は考えたこともなかった。
前世の記憶なんて当たり前にない。前世のことを覚えているなんていう輩は痛い変わり者だろう。そう思っていた。
それが実際、自分がそうだといわれても困る。しかも記憶がないのだからなおさら困る。お前がそうだと偉そうにあれこれ決めつけて勝手に動く偃月は何も教えてくれそうにない。美織の顔で外を見ているだけだ。
前世がどうこうなんて普通なら信じられないが、美織がこうなってしまった以上はこの化け物のいう通りにするしかない。
次のバス停の案内の音声が流れた。
「降りるぞ」
偃月が降車ボタンを押す。本当に手馴れている。
次のバス停は、円神明神社前だった。円神明神社は秋になると大きな祭りが開かれるが、普段は閑散としていて、店なども近くにないため、降りるのは迅と偃月だけだった。
畑が広がり、民家はちらほら。そこにでんと大きな神社がある。バスで十数分乗っただけなのにずいぶん田舎臭い景観だった。
偃月はずんずんと神社の方へ入って行く。自分を邪鬼だ何だといっていたが鳥居を平然とくぐる。迅もその背中を歩いて追いかけた。鳥居をくぐる。
その瞬間、ほんの一瞬だが、何かに体を包まれた気がした。
蜘蛛の巣に突っ込んだような感覚に肌が粟立ち、辺りを見回す。
だが、何の変哲もない。石畳が神社まで続いていて、誰もいない。先を歩いているのは偃月だけだ。
「今、何か変じゃなかったか」
そう偃月に声をかけたが、偃月は黙って早足で進んでいく。
「おいって……」
道場での光景がよみがえる。
また化け物が現れるのではないだろうか。
だが、どこを見ても何もない。ただ、日が傾き始めている。
偃月は本殿からそれて右側から裏手へ回ろうとする。
「……偃月、なんでここに来たんだ」
石畳からそれて迅も追いかける。
偃月は少しずつ歩みを早めた。一歩一歩、そしてこらえきれないというように走り出し、森の中に入っていった。
「あ、おい……!」
追いかけて森の中に行こうとしたが、後ろから「待って!」と子どもの声がして心臓が跳ねあがる。慌てて振り向いた。黒いランドセルを背負った小学生が神社の正面の方から迅に声をかけて来た。
その子は迅の方へ走ってきた。
突然そばにやってきた子どもにどう声をかけたらいいのか分からずにいると「善蓮様?」と子どもは不安げに問いかけてきた。
善蓮。
偃月がいっていた名前だ。
「……違うんだね」
その子どもは迅の反応でそう感じたのか困ったように大人びた雰囲気で笑った。
「何か知ってるのか」
「偃月様からは……何も聞いていない、のかな? とりあえず、反対側に職員の宿舎があるから、そこでお茶でも飲みながら説明するよ」
わけが分からない。
「あ、えっとね。僕は志野春馬……善蓮様と一緒にいた時は随喜と、名前をもらったんだけど……分からないよね」
「ずいき……」
「こんな字」
地面に、やけにきれいな字で『随喜』と書いた。
「……俺は、古村迅。早いとか、そういう意味の迅で」
「こっちね」
随喜、という字の隣に『迅』と書く。やはり形が整っていてきれいな字だった。
「前世の記憶があるのか」
「歩きながら話していい?」
「ああ……」
随喜がよいしょとランドセルを背負い直す。背丈からいうと、三年生か、四年生といったところだろう。
本殿の反対側へ向かいながら随喜が「えっと」と考えながら話を始める。
「とりあえず、僕の場合の話にはなるんだけどね。前世の記憶はあるよ。随喜の頃のことも、大昔のことだから詳細にではないけど覚えていて、他にも、まあ、何度か生まれ変わって色々な人と名前だったよ」
「……それ全部覚えてるってことか?」
「あ、うん。繰り返しになるけど、本当に、詳細にではないよ。だけど、覚えてる。ただ、それはきちんと僕が僕なりに事前準備をしたうえでのことだから。善蓮様はそういうことに興味なさそうで、行き当たりばったりというか……」
肩をすくめる。善蓮の記憶を引き継いでいなくても仕方がないというような口ぶりだった。
「それって、そもそも、俺が善蓮じゃない可能性は」
「偃月様が『そうだ』というなら間違いなく『そう』なんだと思うよ。冗談でも、間違った人を選ぶようなことはしない方だから」
「……最悪」
偃月と善蓮の絆がどれほどかは分からないが、二人を知っているらしい随喜のいうことなら説得力がある。認めたくはないが。
「俺が善蓮だとして……偃月は何がしたいんだ?」
「何がしたいというよりは、一緒にいたいだけじゃないかな」
「……何だそれ」
「でも、どの道、記憶が必要なんじゃない? 偃月様が体を乗っ取っていた女の子が心配なら」
妙に見透かされている気がして気持ちが悪い。
随喜に連れて行かれるまま、神社の本殿の隣にあるコの字型をしている建物に向かう。小さな立て看板に職員宿舎と書いてある。ご用の方はボタンをなどとずらずら書いてあるのだが、随喜は「ただいま」とガラガラと引き戸を開けた。
「お前、ここが家なのか」
「生家ってわけじゃないけど、そう。そもそも、ここは僕が善蓮様のために造った神社だから」
「え?」
「色々準備してから死んだんだよ。ここもその一つ。僕は人の中では生きていけないから」
随喜が重そうにランドセルを置いて靴を脱いでそろえた。
どこからどう見ても子どもなのだが、表情や動きが体とちぐはぐしている。美織の体を偃月が操っている様子に似ていた。
「……お前、その……陰陽師、なのか?」
「何か期待させたなら悪いけど、僕は善蓮様ほどの力はないんだよ」
「でも、記憶があるだろ」
「あるけど……」
玄関先でそんな話をしていると奥から足音が聞こえてきた。
迅が顔を上げると、Tシャツにスラックスを合わせた楽な格好をした初老の男が出てきた。
「どちら様で?」
眉をひょいと上げた少し驚いた顔でその男は随喜と迅を交互に見た。
随喜が「僕の客だよ」と肩を竦める。
「彼が善蓮様の生まれ変わりみたいだよ」
「ええ!?」
初老の男がどさっと膝をついて平服しようとしたので慌てて「やめてください」と止めた。
「俺にはだから、記憶がなくて、生まれ変わりだなんてさっき知ったのに……」
初老の男はズボンのポケットから名刺を出して迅に渡してくる。
名刺にはこの神社の神主であることと、坂井清吉という名前が書かれていた。
「清吉とお呼びください、善蓮様。随喜様を実際に拝見した時も驚きましたが、まさか、あの善蓮様にもお会いできるなんて」
「清吉さん、とりあえず居間で偃月様を待つので」
随喜がいうと、清吉は「何と偃月様まで」と目玉が飛び出そうなくらい目を開いて感嘆する。
「清吉さん」
随喜がそう促すと清吉はぱっと立ち上がり、ランドセルを持つと「こちらです」と丁寧に迅を招き入れる。
迅は靴を脱いで上がり込む。
それにしても鳥居をくぐった時の気味の悪い感覚は一体何だったのか。
清吉に案内されるまま廊下を少し進み、居間に通される。低い木の机と座布団に、型の古そうなテレビ。大き目の窓からは外の森がよく見える。
「じゃあ、偃月様を待つ間、僕は宿題するから」
「え」
「今の子ども、やること多いんだよね」
清吉がランドセルの中からファイルを取り出す。随喜はそれを受け取って中身を机に広げた。そして数枚のプリントを見比べて、国語の宿題に取り掛かる。
入口に立ったままあっけに取られていると清吉がにっこりと笑っていった。
「美味しいお茶をお入れします」
すっかり日が暮れた。
テレビではバラエティー番組が流れている。清吉と随喜は「MC変わった?」「未成年淫行らしいです」「おお、馬鹿」と笑いもせずに見ている。見た目だけなら孫と祖父なのだが、随喜の顔はやけに大人びていて気味が悪いほどだった。
宿題が終わってから随喜は電話で親に一報入れていた。
その後は、清吉がおやつだと駅前のケーキ屋から買って用意していたらしいショートケーキを随喜に出して、自分の分を迅に出した。遠慮したが「清吉さん、血糖値の数値悪かったから」と随喜が「むしろよかったよ」と清吉を睨んだ。どうやら清吉は随喜に食べさせる名目で自分の分も買ってきては怒られているようだった。
そういうことならと、温かい緑茶とケーキを頂戴したのだが、本題に入ろうとすると「そろそろ偃月様が戻るんじゃないかな」といわれ、のらりくらり、こんな時間になってしまった。
「……随喜」
そろそろ、せめて偃月がどこへ行ったのかくらいは知りたかった。
そう思って声をかけた時、玄関の戸がガシャンと大きな音を立てた。
びくっと肩を跳ねさせたのは迅だけで、随喜と清吉はのんきに「お帰りかな」「お出迎えしなければ」と腰を上げた。
どかどかと足音がして、廊下に繋がる戸がパンと開く。
美織が、いや、偃月がぼさぼさの頭に枯れ葉を付けて入ってきた。
「お前、今までどこに……」
迅が声をかけても部屋の中をじろっと見回し、随喜の方に大股で移動する。
「偃月様、お久しぶりです」
そう挨拶する随喜の胸ぐらを偃月が掴んだ。
「お、おい」
小学生の首を締め上げる美織の姿に頭が混乱する。
だが、随喜は「犬が穴を掘って埋めた骨みたいにしておくわけにはいかなかったんですよ」と自分の襟を掴む偃月の手をぽんぽんとさすった。
偃月は「くそ」と悪態をついて手を離した。
どういうことだと偃月を見ていると、随喜が「遺品さ」とシワのついたシャツの襟を直す。
「偃月様は自分が埋めて保管した善蓮様の手記や、遺品を取りに行かれた……まあ、もちろん、数百年もそんなふうにしておけば土になってしまう可能性があったので、掘り出して、蔵で保管していたわけで」
「何でいわねえ」
「ここへ来て真っ先に走って行ったのは偃月様なので」
偃月は迅の隣にどっかりと座り、迅の茶碗から冷めたお茶を一気に飲んだ。
「おい……」
「うるさい、黙れ」
一瞥もせずにそう言い放つ。
「お前な、その体は美織のもので」
「偃月が命を繋いでやってる。黙ってろ。随喜、爺、さっさと俺のを返せ」
「そんなに苛々しないでください」
随喜は「全く、情緒もへったくれもない……」といいながら「持ってきましょうか」という清吉にうなずくようにして指示を出した。
清吉が出て行くと、偃月は髪についた枯れ葉を捨てて髪を結い直した。
随喜はその枯れ葉を拾って捨てる。
「お変わりないようで」
「お前はずいぶん人間らしくなったな」
「何百年も引きずり回したおかげでずいぶん感覚が鈍ってきたので」
どういうことだと思いながら、どうせ黙れといわれるので黙っていると「エンパスって分かるかな」と随喜が首をかしげる。
「エンパス?」
「他人の感情に共感しすぎる、というかね。考えてる内容が分かるほどではないけど、肌で感じるんだよ。だから、怒ってる人がいれば腹が立つし、悲しい人がいれば泣いちゃうし」
偃月が鼻で笑った。
「気味が悪いぞ、四六時中百面相だ」
「今はずいぶん鈍くなって、釣られることは減ったけどね」
にっこりと、口に笑みを浮かべる。
「状況を見て表情を作れるようになったし、学校にも通える。疲れるけど。だから清吉さんと二人で暮らさせてもらってる。氏子の家を選んで生まれたのもそういうわけ」
「……え、選んで……生まれた?」
「記憶の継承術というのかな。魂に刻まれた僕を構築するものをひとがたに移して、死後、氏子の女性に飲んでもらうと、次に生まれてくるのは僕なんだよ。容姿は変わるけど」
陰陽師というと、化け物退治というイメージが漠然とあるが、想像以上に色々なことができるらしい。
「それができるのに、なんで善蓮は」
「まあ、そもそもこの術はひとがたに移した段階で、術者は抜け殻みたいになっちゃうし……事前に準備しておくってわけにはいかないんだよね。死ぬ間際、今生はここまでと決めた時に僕は儀式をするんだけど……善蓮様の最期の時にはそんな暇がなかったから」
そういえば、偃月の話では途方もないほど長生きした男のようだった。そんな人の最期が、暇がなかったとはどういうことだろう。
「善蓮はどうして死んだんだ」
「……えっとね、戦乱の時代に一匹の妖異が形を成してね。善蓮様はそれを封じる際に力を使い果たしてしまって」
「妖異……」
急に映画のような話になる。
だが、実際は大団円とはいかなかったらしい。
「探したけど結局、亡骸さえ見つからなかった」
「それからずっと生き返るのを待ってたのか、偃月は」
「うん。魂というのは縁に導かれるからね。偃月様は肉体を捨てて善蓮様の愛刀に憑りついて長い時を過ごされた」
なるほど、と。
一瞬納得しかけたが、疑問が残る。
「いや、本当に俺が善蓮の生まれ変わりだとして、なんであんなタイミングだったんだ? もっと早ければ俺だって、記憶とやらが戻って、美織を守れたんじゃないのか。なあ」
随喜から聞いたを自分なりに整理して、生まれてきた疑問を偃月にぶつける。だが、美織の顔をした偃月は「ふん」と顔を背けるだけだ。
「おい」
「うるさい。偃月が助けなければ死んでたくせに文句をいうな」
「だから、俺がもっとガキの頃にでも出てきたらよかっただろ! 昨日今日『あ、こいつ生まれ変わりだわ』って思ったわけでもあるまいし」
「黙れ黙れ! 木偶の坊が偉そうに偃月に指図するな!」
偃月が机を叩いて立ち上がる。
随喜がぺちぺちと手を叩いた。
「まあまあ、二人とも。それにしても、偃月様はなんでそんなに迅さんにツンケンなさってるんですか。迅さんも、そんな過ぎたことを今更いっても仕方がないって分かってるでしょ?」
確かにそうだが、あと半年も時間がない。
「……そもそも、あんな化け物、今まで見たこともなかったのに……。何なんだよ、あれ」
偃月に問いかけるが、きょとんとされた。
「そんなのこっちが聞きたい」
「は?」
「あんな化け物を呼べるのはなかなかの術者だ。心当たりはないのか」
呆れた。さんざん文句をいっていたくせに、自分だって何も知らないではないか、と。
「あるわけないだろ」
内心でため息をつきながら誰か知らないかという意味で随喜の方を見る。
随喜は腕を組んだ。
「景真(かげざね)の方が詳しいんじゃない?」
「誰?」
「僕と同じように善蓮様に助けていただいた野武士というか……やくざ者というか……」
偃月が「ハハッ」と歯を見せ、馬鹿にしたように笑った。
「お前、まだアイツが怖いのか! 何百年経っても臆病は変わらないな」
「怖いわけじゃなくて苛烈な人だから、感情が揺さぶられて嫌なだけですって……大昔からいってますけど」
「その、かげざね……とかいうやつなら何か分かるのか」
二人の応酬に口を挟む形で問いかける。
「ああ……景真はまあ」
随喜が机の上のメモ書きに『景真』と書いて名を教えてくれる。そのまま話を続けた。
「善蓮様が偃月様と一緒にいたように、勿来という邪鬼を手懐けた人だし」
「それってすごいんじゃないのか」
「善蓮を一〇〇凄いだとすると景真は所詮一の半分程度だ」
「え」
「だが、まあ、お前からすればすごいかもな。景真の鼻くそ以下の木偶の坊からすれば」
「……何なんだよ」
もはや何か意見することも馬鹿馬鹿しい。
随喜のいうとおり、偃月にあれこれグダグダ文句をいっても問題が解決するとは思えない。随喜も、今までの迅の常識でなら考えられないことをしているものの、直接的な解決策には繋がらなさそうだった。
こうなると、確かに景真という人に会ってみるしかないだろう。
「その景真って人も随喜みたいに生まれ変わってるのか?」
「方法はまあ、分からないけど、本人曰くそうみたい。勿来とも縁が切れてないから、僕みたいに完全に違う人間に中身だけ入る感じとは違うかも。元々の景真の子孫の誰かから生まれてくるみたいな」
前世の記憶があることはそう珍しいことでもないことのように錯覚する。むしろ、記憶がない自分の方が変なのか、と。
「……偃月、本当に」
本当に、迅が生まれ変わりなのだろうか。
迅が、善蓮ではない可能性は少しもないのか。
もしも、万が一にでも、違う縁に導かれることはないのだろうか、と。
そう問いかけようとした時、外から「随喜様あ!」という清吉の悲鳴が聞こえ、地鳴りのような気持ちの悪い音と同時に、寒気が襲ってきた。
やはり、鳥居をくぐった時に感じたあの気味の悪さは間違いではなかった。
呼ばれた随喜がいち早く反応して立ち上がり、部屋の外に駆け出した。迅もその後を追う。随喜はサンダルをつっかけて外へ飛び出し、迅がそのまま飛び出そうとすると「木偶の坊」と廊下に顔だけ出した偃月に呼び止められる。
「何だよ!」
「火事に群がる野次馬と同じだ。火消は火消しに任せておけばいい」
「は?」
「少なくとも、この職員宿舎とかいうところは安全だ。見たければ玄関から頭も出さずに覗くんだな」
わけが分からない。
だが、偃月にいわれて確かに飛び出していったところで自分には何もできないことに気づいた。昼間だって偃月が助けに入らなければ死んでいたのだから。
事実、美織の命を繋いでいてくれるのも偃月だ。
「ひゃああ!」
間の抜けた悲鳴を上げながら玄関に清吉が飛び込んできた。
両手で包みを抱えている。
「無事です!」
迅が声をかけるより先に清吉が大声で宣言した。
「え、偃月様、お持ちいたしました」
「遅いぞ」
偃月はもう廊下に顔も出していない。ぶっきらぼうに文句をいう声に苛立つが、仕方がない。
「……清吉さん、お怪我は……」
「あ、はい。大丈夫です、大丈夫です。いや、話には聞いていたのですが、本当にこうなるとは」
「え?」
「実はこの神社は見張られていて、善蓮様の資料を持ち出すと災厄に見舞われるという言い伝えがありました。それが善意であれ、悪意であれ、とにかくそういうことで、なので、資料は基本的に随喜様だけが持ち出すことを許されていて」
「……じゃあ、どうしてさっき……」
「単純にお忘れになっていたのかと。私自身、実際に怪異に見舞われるまですっかり失念していたので」
「それは……」
そんな不注意でいいのかと責めたくなったが、実際に危険な目にあった清吉が何でもないことのように笑っているので、迅がとやかくいうのは違うだろう。
「おい、早く持ってこい」
しびれを切らした偃月が廊下に顔を出す。
清吉が「ただいまお持ちいたします」と靴を脱いだ。
何もできないとはいえ、外の様子をうかがうべきか、迅が迷っていると随喜が「帰りました」と戻ってきた。
「あ……」
「あ、驚かせてごめんね。うっかりしてて……」
本当につい忘れていただけのことだったらしい。
申し訳なさそうにはにかむ随喜に、何をいえばいいか分からなかった。
そのうっかりで清吉が死んだらどうするつもりだったのだろう。美織のようになっていたら……。随喜はその時も「ああ、うっかりしてた」と少し困ったような顔をするだけではないだろうか。
他人の感情に振り回されて生きてきて……振り回されなくなった今、本人は感覚が鈍くなったというが。
「ぞっとするよね」
随喜がつぶやく。サンダルを足を振って脱ぎ散らかした。
偃月たちのいる居間に入って行く小さい背中。
迅は鳥肌が立つ二の腕をさすった。
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